<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?><rss version="2.0"
	xmlns:content="http://purl.org/rss/1.0/modules/content/"
	xmlns:wfw="http://wellformedweb.org/CommentAPI/"
	xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/"
	xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom"
	xmlns:sy="http://purl.org/rss/1.0/modules/syndication/"
	xmlns:slash="http://purl.org/rss/1.0/modules/slash/"
	>

<channel>
	<title>観音様 - 禅活-zenkatsu-</title>
	<atom:link href="https://zenkatsu.site/archives/tag/%E8%A6%B3%E9%9F%B3%E6%A7%98/feed" rel="self" type="application/rss+xml" />
	<link>https://zenkatsu.site</link>
	<description>禅を活かして、ちょっといい一日を</description>
	<lastBuildDate>Thu, 25 Jul 2019 04:21:29 +0000</lastBuildDate>
	<language>ja</language>
	<sy:updatePeriod>
	hourly	</sy:updatePeriod>
	<sy:updateFrequency>
	1	</sy:updateFrequency>
	<generator>https://wordpress.org/?v=5.8.9</generator>

<image>
	<url>https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2018/06/cropped--32x32.jpg</url>
	<title>観音様 - 禅活-zenkatsu-</title>
	<link>https://zenkatsu.site</link>
	<width>32</width>
	<height>32</height>
</image> 
<atom:link rel="hub" href="https://pubsubhubbub.appspot.com"/><atom:link rel="hub" href="https://pubsubhubbub.superfeedr.com"/><atom:link rel="hub" href="https://websubhub.com/hub"/>	<item>
		<title>【6/19法話】般若心経が説く生き方</title>
		<link>https://zenkatsu.site/archives/1960</link>
					<comments>https://zenkatsu.site/archives/1960#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[西田稔光]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 23 Jun 2019 18:06:46 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[法話]]></category>
		<category><![CDATA[お経]]></category>
		<category><![CDATA[一行写経と法話の会]]></category>
		<category><![CDATA[仏教]]></category>
		<category><![CDATA[写経]]></category>
		<category><![CDATA[東長寺]]></category>
		<category><![CDATA[永平寺]]></category>
		<category><![CDATA[観音様]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://zenkatsu.site/?p=1960</guid>

					<description><![CDATA[スポンサードリンク 禅活-zenkatsu-では毎月１回、「お話を聞いたけど仏教の言葉を忘れちゃう」「写経をするけれど言葉の意味がわからない」という声にお応えして、【一行写経と法話の会】を開催しています。 毎月交代で禅活-zenkatsu-…]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>スポンサードリンク<br />
<script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script>
		<ins class="adsbygoogle"
     		style="display:inline-block;width:310px;height:280px"
     		data-ad-client="ca-pub-2669743989558143"
     		data-ad-slot="8855209824"></ins>
		<script>
		(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
		</script>
<p>禅活-zenkatsu-では毎月１回、<strong>「お話を聞いたけど仏教の言葉を忘れちゃう」<span class="red">「写経をするけれど言葉の意味がわからない」</span></strong>という声にお応えして、<span class="sc_marker red"><strong>【一行写経と法話の会】</strong></span>を開催しています。</p>
<p>毎月交代で禅活-zenkatsu-メンバーがテーマを変えてお話をしておりますが、今回は私西田が<strong>「般若心経」</strong>についてのお話をさせていただきました。</p>
<p>今回はその法話<strong>「<span class="red sc_marker">般若心経が説く生き方</span>」</strong>を掲載しますのでぜひご覧ください。</p>
<h2>般若心経について</h2>
<p>お疲れ様でございました。</p>
<p>皆様には【<strong>一行写経と法話の会】</strong>の開会に先立ちまして、ご一緒に「<ruby><span class="sc_marker red"><strong>摩訶般若波羅蜜多般若心経</strong></span><rt>まかはんにゃはらみったしんぎょう</rt></ruby>」通称「<ruby>般若心経<rt>はんにゃしんぎょう</rt></ruby>」をお唱えいただきました。</p>
<p>この法要は<strong>「<span class="sc_marker red"><ruby>本尊上供<rt>ほんぞんじょうぐ</rt></ruby></span>」</strong>と言って、お寺で法要や催し事をする際に行う、言わばご本尊様の前で仏教への信仰を表明するご挨拶です。</p>
<p>さて、今回で第六回を数えるこの会ですが、これまでにこの「般若心経」についてのお話をしたことがありませんでした。</p>
<p>そこで本日は、皆様に毎回お唱えいただいている「摩訶般若波羅蜜多心経」についてのお話をさせていただきます。</p>
<h3>登場人物</h3>
<p>まず般若心経には、お二人の登場人物がいます。</p>
<p>お一人は<ruby><span class="sc_marker red"><strong>観自在菩薩</strong></span><rt>かんじざいぼさつ</rt></ruby>、またの名を<ruby>観世音菩薩<rt>かんぜおんぼさつ</rt></ruby>、通称観音様です。観音様については前回久保田さんがお話しを致しました。</p>
<p>もうお一人は舎利子、お釈迦様の十大弟子の一人、<ruby><strong><span class="sc_marker red">舎利弗尊者</span></strong><rt>しゃりほつそんじゃ</rt></ruby>という方です。</p>
<p>舎利弗尊者は<span class="sc_marker red">智慧第一</span>と称され、お釈迦様に説法を任されることもあったほどのお方です。</p>
<p>実はこうした<strong>登場人物を考えることで、そのお経はどのようなことを中心に説いているのかが見えてきます</strong>。</p>
<p>「般若心経」は、あの智慧第一の舎利弗尊者が教えを説かれているというストーリーになっていることで、ここで説かれる教えの素晴らしさが強調されるのです。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/06/DSC_0098-min-300x200.jpg" alt="" width="300" height="200" class="alignnone size-medium wp-image-1963" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/06/DSC_0098-min-300x200.jpg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/06/DSC_0098-min-768x512.jpg 768w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/06/DSC_0098-min-1024x683.jpg 1024w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/06/DSC_0098-min.jpg 1620w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>中国の言葉とインドの言葉</h2>
<p>また、「般若心経」は漢文になっていますので、初めから「観自在菩薩、深き般若波羅蜜多を行じたもう時」という様に書き下して読み進めていくことができます。</p>
<p>そうしてずっと読み進めていくと、観音様が舎利弗尊者に「空」という教えを様々な角度から説いておられる様子がわかります。</p>
<p>しかし、最後の最後「<strong><ruby>羯諦羯諦<rt>ぎゃーてーぎゃーてー</rt></ruby><ruby>波羅羯諦<rt>はーらーぎゃーてー</rt></ruby><ruby>波羅僧羯諦<rt>はらそうぎゃーてー</rt></ruby><ruby>菩提薩婆訶<rt>ぼーじーそわか</rt></ruby></strong>」というところになると、漢和辞典を引いてもさっぱり意味がわからなくなるのです。</p>
<p>実は、「羯諦羯諦」の前に「<ruby>即説呪曰<rt>そくせつしゅーわつ</rt></ruby>」、つまり「<strong><ruby>呪<rt>じゅ</rt></ruby>に<ruby>曰<rt>いわ</rt></ruby>く</strong>」とあるように、この部分は呪文になっています。</p>
<p>今、日本で読まれるお経の多くは、インドの言葉を「西遊記」の<strong>玄奘三蔵法師</strong>のような僧侶が当時の中国語に訳したものです。</p>
<p>しかし、お経の中には、インドの言葉で呪文として書かれたものを翻訳するのではなく、「音」をそのまま漢字に当てはめた「音写」というものがあります。</p>
<p>「羯諦羯諦波羅羯諦〜」という部分はインドの言葉の「<strong>ガーテガーテパラサンガーテ</strong>〜」という言葉の音写なのです。</p>
<h2>羯諦羯諦〜の意味</h2>
<p>では、この部分を漢字ではなく、元のインドの言葉の意味から読み解くとどのようになるのでしょうか。</p>
<p>大正から昭和の時代に活躍された曹洞宗の僧侶に、橋本恵光老師という大変優れた方がいらっしゃいました。</p>
<p>橋本老師はこの一節をこう訳されています。</p>
<p><strong>「ゆきゆきて、彼岸をばゆく。彼岸をばもろともにゆくこそ悟りなれ」</strong></p>
<p>私たちには少し違和感のある言い回しに聞こえてしまいます。</p>
<p>彼岸というと、一般的には彼岸会を思い浮かべ、<strong>三途の川の向こう岸をイメージ</strong>しますし、仏教を学んだ方なら迷いの世界であるこちらの岸に対して、<strong>悟りの世界である向こう岸</strong>と認識されているはずです。</p>
<p>では<span class="sc_marker red"><strong>なぜ「彼岸へゆく」ではなく「彼岸をばゆく」というのでしょうか？</strong></span></p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/06/IMG_0221-min-300x225.jpg" alt="" width="300" height="225" class="alignnone size-medium wp-image-1965" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/06/IMG_0221-min-300x225.jpg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/06/IMG_0221-min-768x576.jpg 768w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/06/IMG_0221-min-1024x768.jpg 1024w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>大学卒業と送別会</h2>
<h3>親友</h3>
<p>このことを考えていた時、ある経験が蘇ってまいりました。</p>
<p>これは私が永平寺に上山した時のお話です。</p>
<p>私は大学で仏教を学ぶ傍ら、ストリートダンスサークルに所属していました。</p>
<p>そしてそのサークルで出会ったのが親友の<strong>正太</strong>でした。</p>
<p>彼は高校からダンスの専門学校に通い、大学に入ってきた時には同級生より頭一つ抜き出た実力を持っていました。</p>
<p>そして努力家の彼はサークルでの練習とは別にレッスンにも通い、大きな公演がある時期には連日夜通しの練習が続きました。</p>
<p>その疲れからか、正太は大学の講義に出られない日が増え、最終的に一年留年することになりました。</p>
<p>そして、彼が就職活動で忙しくなってきた頃、私は永平寺へ上山する時期が近づいてきたのです。</p>
<h3>送別会で芽生えた複雑な気持ち</h3>
<p>大学卒業後に修行道場の門を叩く修行僧の多くは、大学の卒業式を待たずに上山の日を迎えます。</p>
<p>そこで、正太を中心にサークルの友人たちが、修行に出る、私を含めた二人のために送別会を開いてくれました。</p>
<p>そこでみんなが<strong>「頑張れよ」「体に気をつけてね」</strong>と寄せ書きをくれたり、声をかけてくれるのは４年間で築いた友情を感じ、ありがたく思えたのですが、一方で、<strong>どこか素直に喜べない気持ちがありました</strong>。</p>
<p>それは、四年間喜びも苦労も共にしてきた友人たちがくれる言葉に、みんなはこれからも連絡を取り合ったり会う事ができるのに、<span class="sc_marker red"><strong>私だけが修行に行く、という現実を突きつけられているような気がしたからです。</strong></span></p>
<p>そう思うと急に慣れ親しんできた友人たちとの間に距離を感じて寂しい気持ちになりました。</p>
<p>賑やかな笑い声を聞きながら<strong>「人の気も知らないで」</strong>とすら思いました。会がお開きになると、私は「ありがとう」と言いながも、どこか<strong>晴れない気持ちで</strong>、会場を後にしました。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/06/DSC_0099-min-300x200.jpg" alt="" width="300" height="200" class="alignnone size-medium wp-image-1964" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/06/DSC_0099-min-300x200.jpg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/06/DSC_0099-min-768x512.jpg 768w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/06/DSC_0099-min-1024x683.jpg 1024w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/06/DSC_0099-min.jpg 1620w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>永平寺上山と親友の言葉</h2>
<p>いよいよ上山当日、私は着物の袖と裾をたくし上げ、足袋と草鞋を履き、荷物を肩に掛けて網代笠を被った格好で家を出ました。両親に見送られ、地元の栃木県足利市から朝一番の特急で東京まで出て、新幹線に乗ります。</p>
<p>普段の私であれば駅でお弁当を買って道中に味わうところですが、緊張のせいか全く食欲が湧きません。</p>
<p>東海道新幹線から福井行きの特急に乗り換え、いよいよ福井駅に着きました。</p>
<p>そしてついに、福井駅からタクシーで永平寺へと向かいます。その車内で、私は自分がやっていけるのか、どんなことが待ち受けているのか、そんな不安がピークに達し、今にも押しつぶされそうになりました。</p>
<p>その時、<strong>電池の切れかけた携帯電話が鳴りました</strong>。正太からです。私が電話に出ると、彼は明るい声でこう言います。</p>
<p><span class="sc_marker red"><strong>「おー！間に合ったか！よかった！今ちょうど一つ面接通ったところなんだよ！おれもこれからどうなるかわからないけど頑張るからさ！お前も頑張れよ！」</strong></span></p>
<p>誰よりも信頼できる親友の言葉は私にとってすごく心強いものでした。</p>
<p>そしてそれと共に、私は<strong>自分の大きな勘違い</strong>に気づいたのです。</p>
<h2>不安と気づき</h2>
<p>私は４年間を共にした仲間たちの中で、<span class="sc_marker red"><strong style="background-color: #ffffff; font-size: 16px;">自分</strong><strong style="font-size: 16px;">一人だけが茨の道を行かなければならなくて、自分だけが辛いと思い込んでいました</strong><span style="font-size: 16px;">。</span></span></p>
<p>しかし、そうではありませんでした。</p>
<p>連絡をくれた正太も実は不安の真っ只中にいたのです。</p>
<p>私をはじめ同級生は先に卒業してしまう中でこれから就職活動を続けていかなければならない不安や心細さは、私が一人で永平寺に向かっている心境ととても近いものがあったのではないでしょうか。</p>
<p>そしてそれは送別会で言葉をかけてくれた友人たちも、同じでした。社会に出でうまくやっていけるだろうか、人間関係はどうだろうか、そんな、<span class="sc_marker red"><strong>蓋を開けてみなければどうなるかわからない不安を抱えているのは私も正太も友人たちも、みんな同じだったのです。</strong></span></p>
<p>そこで、私はたった一人で茨の道へ歩き出しているわけではなかったことにようやく気がつきました。</p>
<p><span class="sc_marker red"><strong>道が違うだけで、実は誰もが悩みや不安を抱えながら一緒に歩いていたのです。</strong></span></p>
<p>「おれもどうなるかわからないけど頑張れよ」</p>
<p>という正太の言葉、そして友人たちの言葉は、その後の二年間の修行生活で何度も私を支えてくれました。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/06/DSC_0083-min-300x200.jpg" alt="" width="300" height="200" class="alignnone size-medium wp-image-1962" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/06/DSC_0083-min-300x200.jpg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/06/DSC_0083-min-768x512.jpg 768w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/06/DSC_0083-min-1024x683.jpg 1024w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/06/DSC_0083-min.jpg 1620w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>「娑婆」を「彼岸」にする生き方</h2>
<p><span class="sc_marker red"><strong>仏教では人間が生きるこの世界を「耐え忍ぶ世界」という意味で「娑婆」と言います。</strong></span></p>
<p>ところが「私だけが辛いんだ」と思い込んでしまうと、<strong>自分が生きている世界だけが娑婆であるような気がしてしまい、孤独を感じ、周りに憎しみや恨みが湧いてきます。</strong></p>
<p>しかし誰もが同じように、<strong>様々な思いを抱えながら生きていると気づいた時<span class="sc_marker red">「自分だけが辛いのだから自分さえ楽になれればいい」</span>という思いは起こらなくなっていくのです。</strong></p>
<p>そうして「自分さえよければ」という思いを離れ、<span class="sc_marker red"><strong>人と共に娑婆で生きながら、人と共に苦しみを離れていこうと歩んでいく世界こそが、実は般若心経の説く悟りの世界「彼岸」なのです。</strong></span></p>
<p>「人を元気づけるつもりが逆に元気をもらっちゃった」ということがあるように、あの時言葉をかけてくれた正太や友人たちは、大きな不安を抱える中で私を励まし、応援してくれることで、自分の不安な気持ちが和らいでいたのかもしれません。</p>
<p>「羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶」という十八文字には、<strong>人々と苦しみを共にする中で、この娑婆を彼岸にしていこうする観音様の生き方が説かれているのだと私は思います。</strong></p>
<p>先ほど皆様は「般若心経」を「私が功徳を独り占めしてやる！」というような自分勝手な思いを持たず、見事に調和してお唱えくださいました。</p>
<p>この後はどうぞそのお心のまま、「羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶」とお写経をしていただきたいと思います。</p>
<p>ご清聴ありがとうございました。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/06/IMG_1783-min-300x200.jpg" alt="" width="300" height="200" class="alignnone size-medium wp-image-1967" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/06/IMG_1783-min-300x200.jpg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/06/IMG_1783-min-768x513.jpg 768w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/06/IMG_1783-min-1024x684.jpg 1024w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/06/IMG_1783-min.jpg 1616w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
					
					<wfw:commentRss>https://zenkatsu.site/archives/1960/feed</wfw:commentRss>
			<slash:comments>0</slash:comments>
		
		
			</item>
		<item>
		<title>【5/22法話】祖母と観音さまに救われた私</title>
		<link>https://zenkatsu.site/archives/1637</link>
					<comments>https://zenkatsu.site/archives/1637#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[久保田智照]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 26 May 2019 15:04:19 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[法話]]></category>
		<category><![CDATA[禅活のイベント]]></category>
		<category><![CDATA[一行写経と法話の会]]></category>
		<category><![CDATA[写経]]></category>
		<category><![CDATA[曹洞宗]]></category>
		<category><![CDATA[東長寺]]></category>
		<category><![CDATA[観音様]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://zenkatsu.site/?p=1637</guid>

					<description><![CDATA[スポンサードリンク &#160; 5/22（水）に【一行写経と法話の会】の第５回目を開催いたしました。 こちらは当日導師を勤めた私久保田の法話です。 観音さまと、深く観音さまを信じていた祖母の姿によって救われた自分自身の経験を法話といたしま…]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>スポンサードリンク</p>
<script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script>
		<ins class="adsbygoogle"
     		style="display:inline-block;width:310px;height:280px"
     		data-ad-client="ca-pub-2669743989558143"
     		data-ad-slot="8855209824"></ins>
		<script>
		(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
		</script>
<p>&nbsp;</p>
<p>5/22（水）に【一行写経と法話の会】の第５回目を開催いたしました。</p>
<p>こちらは当日導師を勤めた私<strong>久保田</strong>の法話です。</p>
<p>観音さまと、深く観音さまを信じていた祖母の姿によって救われた自分自身の経験を法話といたしました。</p>
<h2>私たちに最も身近な仏さま</h2>
<p>仏教徒が信仰する様々な仏さまには、釈迦如来・大日如来・阿弥陀如来等の如来さま、観世音菩薩・地蔵菩薩・文珠菩薩・普賢菩薩等の菩薩さま、愛染明王・不動明王等の明王さま……本当に沢山のいわゆる仏さまがいらっしゃいます。</p>
<p>その中でも私達にとって最も身近で親しみの持てる仏さまは、観音さまやお地蔵さまなどの菩薩さまではないでしょうか。</p>
<p>路傍に立ち尽くしいつで私達を見守ってくださっているお地蔵さま。</p>
<p>苦しい時や辛い時、その優しいお顔を思うと、そっと手を合わせずにはいられない観音さま。</p>
<p>菩薩さまは私達の生活のほど近いところに居て、いつも見守っていて下さり、手を差し伸べて下さるような気がいたします。だからこそ、今も昔も人々は菩薩さまに思いを寄せるのだと思います。</p>
<h2>観音さまと私の祖母</h2>
<p>私の祖母も何かというと観音さま、観音さまという人でした。</p>
<p>本堂の仏像の前に立てば「観音さまに手を合わせなさい」。少しでも悪いことをしようものなら「観音さまに叱られるよ」。良いことがあれば「観音さまのおかげだねえ」。こんな具合です。</p>
<p>ちなみに、祖母ばかりか祖父も観音さまに思いを寄せる人で、観音さまが大好きでした。</p>
<p>次々に観音さまを建立するものですから、寺の境内はどこもかしこも観音さまだらけになってしまいました(笑)。さらに身の丈４．５メートルはあろうかという大きな観音さまを、あろうことか河川の敷地に建立してしまったものですから、毎年その場所を町から借り上げる手続きをしなければならないという、大きな悩みの種まで残していってくれました（笑）。</p>
<p>その他、自ら三十三観音を補修したのは良いのですが、金箔の上に金色のペンキを塗ってしまったりと……まあ余り言うと悪口になってしまいますので、このくらいにしておきましょう(笑)。</p>
<p>ともかく、こうした祖父母の姿、特に祖母に学んだひたすら観音さまを信じる生き方が、今、僧侶として生きる私を支えてくれている、と感じています。</p>
<h2><span style="font-size: 18pt;">理想と現実の遠さに苦しむ</span></h2>
<p>いま、私は地元北海道を離れ、ここ東京で活動しています。</p>
<p>時には地元に戻り、お檀家さんのご供養を勤めることもあるのですが、お檀家さんのお勤めなどで多くの人と出会う中、それに伴って僧侶として思い悩むことも増えてまいりました。</p>
<p>先日は、五十歳という若さで亡くなった男性の四十九日法要を勤めて参りました。</p>
<p>故人のご両親もご健在で、配偶者もいらっしゃり、息子さん・娘さんもいらっしゃる方で、四十九日とは言え、ご遺族は未だ深い悲しみの中にあるご様子でした。</p>
<p>私は、法要を勤めた後には必ず法話をさせて頂いております。いつも、法要に向かう前に「今日はこういう話をしよう」と、心に決めて臨むのですが、この日は、ご遺族と向かい合った途端、お話しようと考えていたことが全て吹き飛んでしまいました。</p>
<p>そのような状態に陥ったのは、ご遺族の悲しむ様子を目前にして<span style="font-size: 18pt;">「私に、この人たちの悲しみを和らげるような話ができるだろうか」</span>と、疑問を感じてしまったためです。とは言え、ご法事の最中に悩んでいるわけにはいきません。法要後のお話のことは一度意識から離して、法要に集中いたしました。</p>
<p>うまく気持ちを切り替えることが出来たのか、何とか無事に法要を勤めることはできました。しかし、何を話せば良いのか……という問題は依然答えが出ないまま残っています。法要後、ご挨拶をしながらも、頭の中はもうパニック状態でした。</p>
<p>短時間でしたが必死に考え、私は自らの死に対する恐怖と、仏教を信仰することでその恐怖が和らいでいった体験をお話しました。私自身が死を受け入れることが出来た体験をお話しすることで、ご遺族が故人の死を受け止めて下さるのではないか、と、そう考えたからです。</p>
<p>……果たして、そのお話がご遺族にとって適切だったのかどうか、それを確かめる術はありません。熟慮してのお話ではなかったため、もしかしたら、ご遺族の感情を逆なでしてしまうようなことを言ったかもしれません。お勤めを終えてからも、私は、ずっとご遺族の姿が頭から離れませんでした。</p>
<h2><span style="font-size: 18pt;">「慢心」の正体</span></h2>
<p>正直に申します。私は、この御法事に臨むまで、心の中に一種の慢心がありました。</p>
<p>法要を振り返って「今日も法要はちゃんとできたなあ」「今回はうまく話せたし、問題なかっただろう」と、自画自賛するような思いを抱くことも度々ありました。</p>
<p>しかし、今、あらためて自らを振り返ると「法要が上手くできた」「上手に話すことができた」と、自己肯定するような慢心は、恐らく、人の悲しみ・苦しみに向き合い、寄り添ってゆく僧侶として、自分自身に自信が持てないことを打ち消し忘れようとする、自己防衛的でずるい心のなせる<ruby>業<rt>わざ</rt></ruby>だったように思います。</p>
<p>東京で一人暮らしをしていて、街に漂う食べ物の香りに心奪われ、ラーメンや揚げ物の誘惑に負けてどんどん太っていく自分。</p>
<p>満員電車に乗れば交通の遅れやマナーの悪い乗客に常にイライラを募らせている自分。</p>
<p>さらに、そうした間違いに気付いていながら、何度も何度も繰り返してしまう自分。</p>
<p>このような醜い自分の姿を見続けるうち、<span style="background-color: #ffffff; font-size: 16px;">私は</span><span style="font-size: 16px;">いつしか自らを卑下し、蔑むようになり「こんな自分が僧侶として人の苦しみに向き合うなんて、なんとおこがましいことか」という思いを常に抱くようになっていました。</span></p>
<p>その結果、自分を隠し、誤魔化すかのように、お檀家さんのお勤めをしては、「今日はこれができた」「あれもよかった」と、良い面ばかりを見るようになってしまっていたのです。</p>
<p>勿論、物事の良いところを探すというのは、時に必要な場合もありますが、私の場合はすごく後ろ向きな良いところ探しをしていたのだと思います。</p>
<p>そのような醜い自分の姿に気付いて、私はますます僧侶であることを疑問に思うようになってしまいました。</p>
<p>そして、そこから立ち直るきっかけをくれたのが、観音菩薩さまだったのです。</p>
<h2><span style="font-size: 18pt;">観音菩薩さまの生き方</span></h2>
<p>お話の初めに、様々な仏さまについて触れましたが、観音さまを初めとする菩薩さまには一つの大きな特徴があります。</p>
<p>それは、<strong>未だ悟りに至っていないということ</strong>です。</p>
<p>いえ、正確に云うと至っていないのではなく、<strong>自らの意志で悩み苦しみの世界に留まって</strong>おいでなのです。</p>
<p>仏教は苦しみや悩みから解放された悟りの世界を目指す宗教です。しかし、菩薩さまは敢えて悟りに至らず、苦しみの娑婆世界に留まっておられるのです。</p>
<p><span class="sc_marker red"><strong>苦しみの中に沈む全ての人々を救うまで、自らは安楽な悟りには至らないと、大慈悲心の誓願を立てられた方々</strong></span>なのです。</p>
<p>観音菩薩さまの特徴に三十三身ということがあります。それは人々を救済するために、必要に応じてその身を変化することです。</p>
<p>三十三身と言いますが、この三十三と言う数字は仏教では無限を表します。</p>
<p>時には王さま、時には子ども。裁判官や僧侶になることもあれば、女性にも男性にも変身されます。こうした様々なお姿は、観音さまが立てられた誓願による不可思議な神通力として説かれています。</p>
<p>あの日、私の前に現れた悲しみ嘆くご遺族も、観音さまの化身ではなかったのだろうか？</p>
<p>そう気づいたとき、私の中で、何かが大きくはじけたような気がいたしました。</p>
<p>一人暮らしの中で自制が効かず、僧侶としての自信が持てなかった私が、その思いを誤魔化すかのように、御法事の際に自己肯定をはかっていた……その私の前に、観音さまが悲しみの姿で現れたのです。</p>
<p><strong>「逃げず、誤魔化さず、目の前の悲しむ人に向かい合いなさい、僧侶として受け止めなさい」</strong></p>
<p>このように説かれていたのではないでしょうか。</p>
<p>観音さま御自身も、悩み苦しむ人々を何とかしたいと、それらの人と同じように悩まれ、苦しまれ……全ての人々を救うまで、決して悟りには至らないと覚悟を決めた方でした。</p>
<p>そして観音さまへ思いを寄せているうちに、僧侶としてやっていく自信がない……という私の思いは自然と薄らいでゆきました。</p>
<p>救うことができた、できなかった、と、結果を追い求めるのではなく、悲しみ悩む人に気付き、救いたい、共に歩んで行きたいと願うことこそ、僧侶の生き方であると気付けたからです。自らが悩み苦しむ存在であるから、悩み苦しむ人を救いたいとの思いを持つことが出来るのです。</p>
<h2><span style="font-size: 18pt;">ひたすらに観音さまを思って</span></h2>
<p>思えば、私は「僧侶なのだから立派な人でなくてはいけない」と勝手な理想像を作り上げ、それに囚われていたのです。それは、裏返せば、立派な僧侶に見られたい、という欲望でしかありません。</p>
<p>そんな間違いに気付かせて下さった観音さまは、悲しみのご遺族でした。そして、そのように受け取ることができたのは、私の心の中に、何に付けても「観音さま、観音さま」と、手を合わせていた祖母の姿が焼き付いていたからです。</p>
<p>本日写経していただくのは、さきほどお配りした『延命十句観音経』の最後の一節です。</p>
<p><strong>「<ruby>朝念観世音<rt>ちょうねんかんぜおん</rt></ruby>　<ruby>暮念観世音<rt>ぼーねんかんぜおん</rt></ruby>　<ruby>念念従心起<rt>ねんねんじゅうしんき</rt></ruby>　<ruby>念念不離心<rt>ねんねんふりしん</rt></ruby>」</strong></p>
<p><ruby>朝<rt>あした</rt></ruby>にも観世音を念じ、<ruby>暮<rt>くれ</rt></ruby>にも観世音を念じ、念念心より起こり、念念心を離れず。</p>
<p>いつでも観音さまを胸に秘めながらの日暮らしを説いた一節です。私にとって、祖母の姿を思い起こす一節です。</p>
<p>皆さまもぜひ、心に観音さまを念じながらお写経なさってください。</p>
]]></content:encoded>
					
					<wfw:commentRss>https://zenkatsu.site/archives/1637/feed</wfw:commentRss>
			<slash:comments>0</slash:comments>
		
		
			</item>
	</channel>
</rss>
