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	<title>法話 - 禅活-zenkatsu-</title>
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	<description>禅を活かして、ちょっといい一日を</description>
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	<title>法話 - 禅活-zenkatsu-</title>
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		<title>法話「顔も見たくなかった人」by渡辺秀憲（2024/2/7禅活しょくどうにて）</title>
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		<dc:creator><![CDATA[禅活-zenkatsu-]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 01 Apr 2024 08:00:40 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[法話]]></category>
		<category><![CDATA[修行]]></category>
		<category><![CDATA[曹洞宗]]></category>
		<category><![CDATA[禅活しょくどう]]></category>
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					<description><![CDATA[2024年2月まで毎月開催していた精進料理&#38;食作法体験ワークショップ「禅活しょくどう」では、 現在月替わりでメンバーの一人が法話を担当していました。 今回掲載するのは、2024年2月7日の最終回で渡辺秀憲がお話しした法話です。 法話…]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><span>2024年2月まで毎月開催していた精進料理&amp;食作法体験ワークショップ「禅活しょくどう」では、</span><br />
<span>現在月替わりでメンバーの一人が法話を担当していました。</span></p>
<p>今回掲載するのは、2024年2月7日の最終回で渡辺秀憲がお話しした法話です。</p>
<h2>法話「顔もみたくなかった人」</h2>
<p>改めまして、こんばんは。</p>
<p>一年間続いてきた現在の禅活しょくどうの最後の法話を担当させていただきます渡辺秀憲です。</p>
<p>よろしくお願いいたします。</p>
<p>皆さんは嫌い、あるいは苦手な人やものとの関係に悩んだことはないでしょうか。</p>
<p>おそらくほとんどの方にその経験がおありかと思います。</p>
<p>仏教では、人生で避けることのできない八つの苦の一つに、自分が憎いと思うものと出会う苦「<ruby>怨憎会苦<rt>おんぞうえく</rt></ruby>」を説きます。</p>
<p>人に限らず、嫌いな食べ物や嫌いな仕事、嫌いな環境などもそうです。</p>
<p>好ましくないものとの会うことが人生の苦しみの大半と言っても過言ではないでしょう。</p>
<p>私ももれなくそれに苦しんでいる人間の一人です。</p>
<p>中でも今回は、嫌いな人との関係についてのお話をさせていただきます。</p>
<h2>修行中の出来事</h2>
<p>私には、永平寺での修行中にどうしてもそりの合わない、同期の修行僧のＡさんという人がいました。</p>
<p>彼は私と同じ日に上山した、同期の中でも特別な同日上山の仲間です。</p>
<p>そんな彼とは出身地も近く年齢も一つ違いだったので、修行生活の初めの頃からすぐに打ち解けることができました。</p>
<p>私と経歴が似ていたということも仲良くなった大きな要因だったと思います。</p>
<p>永平寺の修行僧は、大学で仏教の勉強をしてから上山する人が大多数でした。</p>
<p>そんな中で私と同じく、仏教以外の分野を勉強してきた人だったのです。</p>
<p>お互いの大学の分野は全く異なりましたが、自分と同じように仏教をほとんど知らない人がいることは、修行生活を送る上での励みのように感じました。</p>
<p>ところが集団生活を共に過ごす中で、彼に対してあれ？と思うことが増えました。</p>
<p>Ａ君は、他人の間違いや不備をよく指摘する人でした。</p>
<p>同期の仲間の応量器の作法の間違いや、掃除のやり残しを見つけると、強い口調で指摘するのです。</p>
<p>「間違ってるって言わないと、秀憲のためにならないと思ってさ」</p>
<p>指摘の後に決まってこう付け足すのが彼の決まり文句でした。</p>
<p>私もよく彼から指摘を受けました。「まあ、言っていることはその通りだし…」と、最初の頃こそ素直に忠告を聞いていました。</p>
<p>しかし釈然としなかったのはＡ君本人も作法を間違ったり、お勤めのうっかりミスしたりということが多いということです。</p>
<p>朝のお勤めで必要な、お線香を立てる香炉を用意するのを忘れていたことなど、些細ではあるものの細かいミスをします。</p>
<p>そしてそんなミスをして落ち込んでも、次の日には立ち直って、堂々と他人のミスを注意するのでした。</p>
<p>そんなところが気になってくると、今度は他にも嫌なところが目につくようになります。</p>
<p>私は彼の他人との距離感が苦手に感じ始めました。</p>
<p>それを顕著に感じたことがあります。</p>
<p>永平寺では少ないながら個人の衣装ケースなどで私物を管理するのですが、彼は私の荷物から勝手に爪切りを取り出して使ったのです。</p>
<p>別に貸すのは構わないのです。</p>
<p>集団生活で、自分の荷物を開けられても気にしない人がいることも知っています。</p>
<p>でも私は、自分の知らないところで荷物を開けられるのを許せる人間ではありませんでした。</p>
<p>そんな出来事を経て、私はＡ君をそりが合わない人と思うようになりました。</p>
<p>もっとも、そう考えていたのはＡ君も同じようでした。</p>
<p>私はＡ君のことを大きな声で言えない程度には、大雑把な性格でうっかりも多いです。</p>
<p>上山したての頃は、鐘を鳴らしに行くことそのものを忘れたこともあります。</p>
<p>また掃除が苦手で、先輩からもＡ君からも、埃の拭き残しや落ち葉の掃き残しをよく指摘されました。</p>
<p>他にも私は知らず知らずのうちに、Ａくんを失望させていたのかもしれません。</p>
<p>実際に「秀憲はもう少ししっかりした人だと思っていたのに」</p>
<p>と言われたことを覚えています。</p>
<p>当時は「自分のために言ってくれることだ。気に入らなくても聞いておかないと」</p>
<p>と自分を言い聞かせていましたが、Ａ君のできていないこと、至らないことが目に付き、徐々に耐えられなくなってきました。</p>
<p>ある時、Ａ君からのお小言の後に言われました。</p>
<p>「俺がこんなにうるさく言うのはさ、秀憲のためを思ってのことなんだ。反省して、次に活かしてくれよ」</p>
<p>私も我慢の限界でした。</p>
<p>先輩ならいざ知らず、自分だって完璧じゃないのに何でこんなに上から目線で言われなきゃならないのか。</p>
<p>至らないのはお互い様じゃないか。</p>
<p>とうとう言い返してしまいました。</p>
<p>「いい加減にしてくれよ。そっちだってお勤めをしっかりできてないじゃん。人のことをいう前に、しなきゃならないことがあるんじゃないの？」</p>
<p>Ａ君はまさか言い返されるとは思っていなかったのでしょう。</p>
<p>「ああいや、俺の悪いところはなおすから…」</p>
<p>と彼は急にしどろもどろになってしまいました。</p>
<p>ここまでなら、私が言いたいことをいってスカッとした話で終わるのかもしれません。</p>
<p>しかし修行生活はそれからもずっと続いていくもので、何度も何度も彼と顔を合わせるわけです。</p>
<p>彼はそのあとも気になったことは指摘してきます。</p>
<p>しかし私は、もう言われっぱなしは我慢ならなくなってしまいました。</p>
<p>私も彼のお勤めの粗を見つけては指摘するようになってしまいました。</p>
<p>そうすると、Ａ君の態度もどんどん頑なになり、お互いに言っても聞かないからあまり話さないようになりました。</p>
<p>その内に彼の顔を見るのも嫌になってしまって、朝のお勤めや坐禅で彼の隣に座るたびに気になって、嫌で嫌でたまらず、まったく集中できなくなってしまいました。</p>
<p>私と彼は、最終的に顔を合わせても挨拶するだけの、気まずい関係になってしまいました。</p>
<p>私は彼より早く、二年半で永平寺を後にしましたが、結局最後までそんなぎこちない間柄のままになってしまいました。</p>
<p>永平寺から帰ってきて少し経った頃、自分と彼はもっと仲良く修行できたのではないかと考えるようになりました。</p>
<p>振り返ると、私にもＡ君にも至らないところがあったのは間違いありません。</p>
<p>日々のお勤めに間違いやいい加減さが許されない以上、相手の間違っているところ、足りてないことを指摘し合うことはいいことのはずです。</p>
<p>でも結果的に、お互い顔を見るのも嫌な、憎しみに近い関係になってしまいました。</p>
<h2>「苦」どこにあるのか</h2>
<p>今回の禅活しょくどうでの法話はそれぞれ好きなテーマで、ということになり、私は彼とのことが思い浮かび、自分はどうすべきだったのかを考えてみることにしました。</p>
<p>そこで改めて「怨憎会苦」という言葉について調べなおすと「苦」という言葉が単なる苦しみという意味ではないことに気づきました。</p>
<p>「苦」という言葉は、インドの古い言葉で「ドゥッカ(<span>dukkha)</span>」というものが中国で翻訳されて日本に伝わりました。</p>
<p>この「ドゥッカ」という言葉は、思い通りにならなくて不満足な様子を意味しているそうです。</p>
<p>そうすると怨憎会苦とは単に「嫌いな存在と会うのが苦しい」ということではなく「会いたくなくても嫌いな存在と会うことへの不満」というのが本来の意味に近いのかもしれません。</p>
<p>さらに踏み込んで考えると、人に対して嫌いとか憎いと思うのは自分の心に他なりません。</p>
<p>つまり、怨憎会苦とは「嫌いという心が起こることが思い通りにならない不満足さ」なのではないでしょうか。</p>
<p>修行中私の気を散らし、不快にさせていたのはＡくんという人ではなく、彼に対する自分自身の心であり、その心が思い通りにならないということだったのです。</p>
<p>自分の心が思い通りにならないように、Ａ君の行動もまた、私の思い通りにすることはできません。</p>
<p>そうであれば、こちらの考え方と行動を変えるしかないのです。</p>
<p>私はＡ君に対してどのように接すればよかったのか、考えておりました。</p>
<p>その答えを探しているうちに、永平寺を開かれた道元禅師のお言葉を見つけました。</p>
<p>『正法眼蔵随聞記』という書物の中で、お弟子様の懐奘禅師に説かれた言葉です。</p>
<p>道元禅師は、たとえ修行僧の中に悪人がいても、むやみに憎んで非難してはならないというのです。</p>
<p>その上で、懐奘禅師にこのように示されました。</p>
<blockquote><p><em>他の非を見て、わるしと思て、慈悲を以てせんと思はば、<br />
</em><em>腹立つまじき様に方便して、傍の事を言ふ様にして、こしらうべし</em></p></blockquote>
<p>「他人の過ちを見て、悪いことだと思って慈悲の心で説得しようと思ったら、相手が腹を立てないように工夫して、間接的に他のことに託して、それとなくわかってもらうように導くのがよいのである」。慈悲とは、相手に安心を与えることと、相手に苦しみに同情して、それを取り除こうとすることをいいます。</p>
<p>思い返せば、私がＡ君に指摘するときは、あいつの粗を探してやろう、相手を言いくるめてやろうという気持ちが強かったように思えます。</p>
<p>これを続けることはＡ君のためにならないからという慈悲の心ではなく、あいつが気に食わないという恨み、憎しみのままに相手を非難していたのです。</p>
<p>Ａ君の間違いを指摘するときに、慈悲の心のもとに、相手の非を直接あげつらうのではなく、より遠回しな言い方をすれば、彼との関係が少しは変わっていたのかもしれません。</p>
<p>何か指摘するにしても、相手に腹が立っていたとしても、怒りのままに指摘するのではなく、相手が嫌な思いをしないように指摘するには、と考えをめぐらせるべきだったのです。</p>
<p>実は、永平寺での修行が終わっても、彼との僧侶としての付き合いは続いております。</p>
<p>最初にお話ししたように出身地が近いこともあって、つかず離れずの距離感を保っております。</p>
<p>自分でも驚いたのですが、永平寺を離れてみると意外にも抵抗なく彼と話せるのです。</p>
<p>先日は、曹洞宗主催の勉強会のお誘いを頂いて、一緒に受講することになりました。</p>
<p>修行道場という環境では彼の言動が気になってしまいましたが、環境が変わってみればお寺同士、副住職同士という境遇の近さから分かり合えることがたくさんあります。</p>
<p>これからのＡ君との付き合いの中でまた立場が変わり、お互いの悪いところが再び目に付くことは起こりうると思います。</p>
<p>その時は、感情のままに非難することはしないようにしようと思います。</p>
<p>Ａ君とのご縁を、再び憎しみ合う関係にしないために、そしてお互いがよりよい刺激を与えあえる関係でいるためにも、「他の非を見て、わるしと思て、慈悲を以てせんと思はば、腹立つまじき様に方便して、傍の事を言ふ様にして、こしらうべし」この教えを胸に生きていまいります。</p>
<p>今日こうしてお話しする機会を頂いて、過去の自分を見つめなおすことができました。</p>
<p>ご清聴ありがとうございました。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2024/02/IMG_0120-218x300.jpeg" alt="" width="218" height="300" class="alignnone size-medium wp-image-9709" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2024/02/IMG_0120-218x300.jpeg 218w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2024/02/IMG_0120-746x1024.jpeg 746w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2024/02/IMG_0120-768x1055.jpeg 768w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2024/02/IMG_0120-1118x1536.jpeg 1118w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2024/02/IMG_0120-1491x2048.jpeg 1491w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2024/02/IMG_0120-scaled.jpeg 1864w" sizes="(max-width: 218px) 100vw, 218px" /></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
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		<item>
		<title>法話「祖母の合掌」by原山佑成（2024/1/10禅活しょくどうにて）</title>
		<link>https://zenkatsu.site/archives/9771</link>
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		<dc:creator><![CDATA[禅活-zenkatsu-]]></dc:creator>
		<pubDate>Sat, 30 Mar 2024 15:00:12 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[法話]]></category>
		<category><![CDATA[こまきしょくどう]]></category>
		<category><![CDATA[禅活しょくどう]]></category>
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					<description><![CDATA[2024年2月まで毎月開催していた精進料理&#38;食作法体験ワークショップ「禅活しょくどう」では、 現在月替わりでメンバーの一人が法話を担当していました。 今回掲載するのは、2024年1月10日の回で原山佑成がお話しした法話です。 祖母の…]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><span>2024年2月まで毎月開催していた精進料理&amp;食作法体験ワークショップ「禅活しょくどう」では、</span><br />
<span>現在月替わりでメンバーの一人が法話を担当していました。</span></p>
<p>今回掲載するのは、2024年1月10日の回で原山佑成がお話しした法話です。</p>
<h2>祖母の合掌</h2>
<p>みなさん、こんばんは。</p>
<p>これまでこうして禅活しょくどうでお話をさせていただきましたが、私がお話を担当するのは今回で最後となります。</p>
<p>そこで、最終回はテーマを自分で決めて良いということになり、本日は「合掌」についてのお話をしたいと思います。</p>
<p>みなさんは日常生活の中で合掌をする機会はあるでしょうか。</p>
<p>やはりあるとすれば食事の時でしょうか。</p>
<p>禅活しょくどう以外でも、食事の前後に「いただきます」と「ご馳走様でした」の合掌をする方はいらっしゃるかと思います。</p>
<p>この季節でいうと、お寺に初詣やお参りに行った際に合掌をした、という方もおられるかもしれません。</p>
<h2>合掌の意味</h2>
<p>合掌は、右の掌は自分の清らかな心、左の掌は迷いや邪な心を表し、この二つの心を目の前で合わせることによって、自分自身の全てを曝け出して相手の前に差し出すことを意味したインドの挨拶が元になっています。</p>
<p>インドではもともと、右手は食事をしたりする手、左手はお手洗いでお尻を拭く手だったことが、清らかな心と邪な心という意味合いに置き換えられたようです。</p>
<p>日本に伝わった後には、右手があの世、左手が現世を表しており、両手を合わせることによって仏様の世界と私たちが生きている現世が一体となり、亡くなられた方や、ご先祖様の成仏を願う気持ちが表されているという解釈も生まれました。</p>
<p>いずれにしても、合掌をするということは、二つの相対したものが一つに合わさることであり、宗教的な意味を越えて、私たちの普段の生活の中に深く浸透しています。</p>
<h2>祖母の姿</h2>
<p>私はこの合掌について、最近深く考える出来事がありました。</p>
<p>実は2023年の10月に、私の祖母が92歳で他界しました。</p>
<p>数年前から高齢者施設に入居していたのですが、脳梗塞を患ったことをきっかけに身体機能が低下し、最終的には老衰で眠るように亡くなったそうです。</p>
<p>普段東京にいる私は、コロナ禍という事情もあり、晩年はほとんど祖母と会うことは出来ませんでした。</p>
<p>しかし、昨年の八月、お盆の手伝いをする為に実家のお寺に帰省した際に祖母に会いにいくことができました。</p>
<p>最後に顔を合わせてから三年以上が経過しており、私は久しぶりに祖母に会えるのが楽しみでした。</p>
<p>そして、いざ対面すると、祖母の様子が芳しくありません。</p>
<p>母が、「おばあちゃん、この人誰かわかる？」と尋ねると、祖母は首を横に振るだけでした。</p>
<p>面会の際には、マスクを着用していて顔が見えなかったということもあるかもしれませんが、やはり長い間会えなかったことで私のことを忘れてしまったのだと思います。</p>
<p>昔は私が実家に帰省すると、祖母はいつも私を暖かく迎えてくれていました。</p>
<p>「おお佑成、今回はいつまでいるんだ？たくさん食べて飲んで帰れよ」そう言って握手を交わすのが、祖母との恒例の挨拶になっていました。</p>
<p>しかし、その時の祖母が手を握ってくれることはありませんでした。</p>
<p>私は「久しぶりだから仕方ないよね」と言いながらも、目からは涙が溢れてきました。</p>
<p>すると祖母はそっと両の掌を合わせて私の顔を見つめていました。</p>
<p>私はその時の祖母が何を思っていたのかわかりませんでした。</p>
<p>そして、それが私の見た祖母の最後の姿となりました。</p>
<h2>祖母の生い立ちと合掌</h2>
<p>私は祖父を幼い頃に亡くしており、物心がついて以来、家族を亡くすのは初めてでした。</p>
<p>それもあって祖母の死は私にとって辛く悲しい出来事でした。</p>
<p>しかしながら、祖母との思い出や、祖母の生き様を思い出すと、残された私にとても大きなものを遺してくれたとのではないかと今では思います。</p>
<p>私の記憶にある祖母は、とにかく明るく、いつも大きな笑顔を見せ、人と会ったり話をするのが大好きな人でした。</p>
<p>一番印象深いエピソードとしては、家族で近所の温泉施設に行った際、食堂で食事をしていると、気付いたら祖母が居ません。</p>
<p>どうしたのかな、と辺りを見渡すと、祖母が別の家族の輪の中に入って楽しそうに団欒していたのです。</p>
<p>当時の私は、驚愕するとともに、その家族の方々に申し訳なくなり、父に「ばあちゃん連れてこようか？」と尋ねましたが「いつものことだから」と気にも留めません。</p>
<p>その後も何度か同じような場面を目にしていたのですが、その度に祖母のコミュニケーション能力の高さに驚かされたものです。</p>
<p>当然それは、お寺に訪れる檀信徒の皆さんや、お客さんに対しても変わりません。</p>
<p>特に新年のご挨拶にお寺を訪れる人たちからは「お寺のおばあちゃんの明るい笑顔を見ることが出来て、今年も良い一年になりそうです」と言われるような、お寺の名物おばあちゃんでした。</p>
<p>そんな祖母の生まれは地元で有名なお菓子屋さんで、看板娘だったそうです。</p>
<p>そういえば私も小さい頃から祖母の実家のお菓子屋さんで作られたケーキや、地元のりんごを使用した焼き菓子など、いろんなお菓子を食べさせてもらいました。</p>
<p>祖母のコミュニケーション能力が高いのは、そのお菓子屋さんでの接客に裏打ちされたものでもあったのです。</p>
<p>そんな祖母は先代の住職、つまり私の祖父と結婚し、お寺に嫁いできました。</p>
<p>そこから亡くなるまで期間をお寺の奥さんとして過ごし、曹洞宗から長年の功労を表彰されるほどの長い月日をお寺の為に尽くしてきました。</p>
<p>私にとっては、いつも笑顔で明るく優しい祖母でしたが、その92年の生涯は決して明るいことだけではありませんでした。</p>
<p>伴侶である先代の住職は64歳の時に亡くなってしまい、当時まだ若かった私の父と共にお寺を守っていくことは、容易なことではなかったと思います。</p>
<p>また、実家であるお菓子屋さんも様々な不運が重なった末に、大手のお菓子屋さんに買収されてしまいました。</p>
<p>そしてお菓子屋さんの手伝いのために、本当にしたいことが出来なかった過去もあります。</p>
<p>十代の頃には近くの家政学校に通っていたそうですが、お菓子屋さんが忙しいとの理由で学業を放棄して実家に帰ることを余儀なくされてしまったそうです。</p>
<p>祖母はしばしば、息子である私の父に対して「学べるということはとても有難い事なんだ」と言っていたと聞きます。</p>
<p>その92年の生涯を振り返ると、たくさんの苦労の中で涙を飲むような出来事もありました。</p>
<p>しかし祖母は、私の記憶にある大きな笑顔で、周囲の人々を明るく元気付けてくれました。</p>
<p>それはきっと辛く苦しい出来事があったからこそ、多くの人や縁に救われたことの有り難みを知り、誰かが辛く苦しい時には手を差し伸べようという思いがあったからではないでしょうか。</p>
<p>あの時、祖母に忘れられてしまい涙を流す私に対して手を合わせてくれていたのは、もしかするとそんな祖母の人生がそこに表れていたのかもしれません。</p>
<h2>手を合わせるということ</h2>
<p>道元禅師の詠まれた歌に「礼拝」という和歌があります。</p>
<p><strong><em>冬草も　見えぬ雪野の　白鷺は　おのが姿に　身を隠しけり</em></strong></p>
<p>この和歌は「草も見えないほどに雪が積もった雪原に佇む白鷺は、自分の体の白さによって身を隠している。」という意味で、白鷺と雪の白さの区別がわからなくなっている様子が描かれています。</p>
<p>そして、道元禅師がこの歌を「礼拝」と題されたのは、白鷺がその白さで雪と一体となってしまうように、手を合わせ礼拝するということは「仏様と私」とか「あなたと私」というような境界線をなくして一体になっているということです。</p>
<p>ことあるごとに合掌をしていた祖母は、寺族として合掌が習慣付いていました。</p>
<p>ただし、合掌の意味だとか、先ほどの道元禅師のお歌を知っていたかはわかりません。</p>
<p>長い人生の中で、多くの人や縁に支えられた有り難みを知っていたからこそ、分け隔てない感謝と思いやりの心が合掌となって表れていたのではないかと、今になってみれば思えるのです。</p>
<p>自分だけではなく、周りの人たちも一緒に笑えるようにと願った祖母は、あの時目の前で涙を流す誰か分からない私にも手を合わせてくれました。</p>
<p>悲しくなかったと言えば嘘になりますが、その姿は祖母の生き様の集大成であったような気がします。</p>
<p>私にはまだ、祖母のような合掌をできている自信はありません。</p>
<p>しかし、人にも食事にも、ご縁をいただき支えられて生きていることを忘れることのないように手を合わせ、いつか目に焼き付いているあの祖母の姿のように合掌できる僧侶になりたいと思っています。</p>
<p>祖母の生き様や教えてもらったこと、明るい笑顔を忘れずに精進していきたいです。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2024/02/LINE_ALBUM_禅活しょくどう＊2023年11月_240222_1-min-225x300.jpg" alt="" width="225" height="300" class="alignnone size-medium wp-image-9686" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2024/02/LINE_ALBUM_禅活しょくどう＊2023年11月_240222_1-min-225x300.jpg 225w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2024/02/LINE_ALBUM_禅活しょくどう＊2023年11月_240222_1-min-768x1024.jpg 768w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2024/02/LINE_ALBUM_禅活しょくどう＊2023年11月_240222_1-min.jpg 1109w" sizes="(max-width: 225px) 100vw, 225px" /></p>
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		<item>
		<title>法話「これからのために食べる」by渡辺秀憲（2023/12/13禅活しょくどうにて）</title>
		<link>https://zenkatsu.site/archives/9712</link>
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		<dc:creator><![CDATA[禅活-zenkatsu-]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 29 Feb 2024 15:00:57 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[法話]]></category>
		<category><![CDATA[こまきしょくどう]]></category>
		<category><![CDATA[五観の偈]]></category>
		<category><![CDATA[禅活しょくどう]]></category>
		<category><![CDATA[食]]></category>
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					<description><![CDATA[2024年2月まで毎月開催していた精進料理&#38;食作法体験ワークショップ「禅活しょくどう」では、 現在月替わりでメンバーの一人が法話を担当していました。 今回掲載するのは、2023年12月13日の回で渡辺秀憲がお話しした法話です。 これ…]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><span>2024年2月まで毎月開催していた精進料理&amp;食作法体験ワークショップ「禅活しょくどう」では、</span><br />
<span>現在月替わりでメンバーの一人が法話を担当していました。</span></p>
<p>今回掲載するのは、2023年12月13日の回で渡辺秀憲がお話しした法話です。</p>
<h2>これからのために食べる</h2>
<p>前回までに引き続き、「五観の偈」をテーマにしたお話をしたいと思います。</p>
<p>今回は五つ目</p>
<p><strong><span style="font-size: 14pt;"><em>五つには成道の為の故に今此の食を受く</em></span></strong></p>
<p>についてのお話です。</p>
<p>五観の偈について簡単におさらいします。</p>
<p>曹洞宗の大本山永平寺を開かれた道元禅師が著した書物に『赴粥飯法』というものがあります。</p>
<p>「五観の偈」とは、その書物の中で紹介された、仏道修行における食に対する五つの心構えが示された詩です。</p>
<p>ここまで毎月一つずつ、四つ目までお話しし、その五つ目が本日のテーマである</p>
<p><strong><em>五つには成道の為の故に今此の食を受く</em></strong></p>
<p>です。</p>
<p>現代語に訳すと、「成道のために、今目の前にある食事の供養を受ける」になります。</p>
<p>ここでキーワードとなるのが「成道」です。</p>
<p>「成道」というと、毎年この時期に禅活しょくどうにお越しの皆さんにはなじみ深いかと思います。</p>
<p>そう、十二月八日の「成道会」ですよね。</p>
<p>成道について、仏教語辞典にはこのように書いてあります。</p>
<blockquote><p>サンスクリット語は、完全に悟るの意。<br />
〈悟り〉を完成すること。とくに釈尊のそれを指す。<br />
〈得道〉〈成仏〉に同じ。</p>
<div class="blockquote_ref">
<div>『岩波仏教辞典』</div>
</div>
</blockquote>
<p>「とくにお釈迦様の」とある通り、「成道会」はお釈迦様がお悟りを開かれたことをお祝いする行事ですので、ここではお釈迦様のお覚りのことです。</p>
<p>では「五観の偈」の「成道」はどうでしょうか。</p>
<p>食事に対する心構えですので、この成道は自分のことになります。</p>
<p>では、私たちが「悟りの完成」のために食事をいただくとはどういうことなのでしょうか。</p>
<p>今回は、お釈迦様の成道のお話から、そのヒントを学びたいと思います。</p>
<h2>お釈迦様の成道</h2>
<p>お釈迦さまは、今のネパールの西南部にあったという、釈迦国という国の王子でした。</p>
<p>王族として豪奢な生活を送っていたそうですが、その性格はとても繊細な内向的だったそうです。</p>
<p>お釈迦様は何不自由ない生活を送る中で、人が老いるということ、病気になること、死ぬということから逃れられない、ひいては生まれるということも思い通りにならないと気づき、思い悩みます。</p>
<p>そして二十九歳の時、ついに生老病死の苦しみから離れる方法を探すために、王族としての地位や、妻や息子という家族を捨てて、出家修行の道を歩み始めました。</p>
<p>出家を果たしたお釈迦様は、当時修行者が多く集まっていた、現在のインドにあるマガダ国の都、ラージャガハというところに赴きます。</p>
<p>ほかの修行者と同じく、托鉢で食べ物を供養してもらう生活を始めました。</p>
<p>そこで当時、瞑想の修行者として名高かった二人の仙人の弟子となります。</p>
<p>しかし、すぐにそれぞれの瞑想法をマスターしてしまいます。</p>
<p>そして、その二つの瞑想法では、生老病死の苦しみへの解決策は見出せませんでした。</p>
<p>次にお釈迦様は、ウルウェーラーと呼ばれる地方に赴いて、「苦行」という修行を勤めます。</p>
<p>仲間の修行者と励ましあいながら、六年もの間苦行に励んでいたとされます。</p>
<p>最終的に、息を止める苦行、食事を摂らない苦行に打ち込み、命を落とす一歩手前まで自分を追い込みますが、それでも生老病死の苦から離れることはかないませんでした。</p>
<p>そこで苦行にも見切りをつけ、ネーランジャラーという河のほとりにて、弱った体を癒すことにします。</p>
<p>苦行の前に行っていた托鉢の修行を行い、体調を整えることから始めたのです。</p>
<p>そのあと、坐禅の修行によって心を静め、生老病死の苦から離れるための方法に思いをめぐらせるのです。</p>
<p>そして、菩提樹という木の下での坐禅の末に、お釈迦様はお悟りを開かれたのでした。</p>
<p>四諦八正道という、生老病死の苦から離れる実践方法を見出されるのです。</p>
<p>この成道の前に、食の供養に関する有名な逸話が残っています。</p>
<p>ある日、お釈迦様がニグローダーという大きな木の下で坐禅をしていると、近くの村に住むスジャータという娘から乳がゆを捧げられました。</p>
<p>当時のスジャータは神様の存在を信じており、木の下で座るお釈迦さまを神様だと思って供養したのだそうです。</p>
<p>またもう一つ、供養の逸話があります。</p>
<p>今度はサーラ樹というという木の下で坐禅をしていると、ソッティヤという農夫が通りかかり、お釈迦様に草の束を供養したといいます。</p>
<p>草の束をお尻の下に敷いてもらって、坐禅の助けにしてもらおうとしたのです。</p>
<p>お釈迦様は、苦行から離れてすぐに成道に至ったわけではありません。</p>
<p>まず出家した当初と同じように、托鉢の修行によって食事の供養を受けました。</p>
<p>坐禅のさなかも、乳がゆや干し草の供養を受けました。</p>
<p>俗世の快楽や苦行による禁欲から離れた状態で、<strong>供養を受けて生活を整えたうえで坐禅をすることで初めて生老病死の苦へと向き合えたといえるのです。</strong></p>
<h2>食事の先にある「これから」</h2>
<p>お釈迦様の成道からは、ご供養を受けた後に自分はどうするのかということを考えさせられます。</p>
<p>私が今までこの禅活しょくどうでお話したことの中で「これから」自分がどうするのか、という話をいくつかいたしました。</p>
<p>たとえば四月にした、福井県の大本山永平寺から福島県の自分のお寺に帰った時のお話です。</p>
<p>福島まで歩いて帰ってこいと言われたことへの反抗心から、法衣というしかるべき格好があるというのに、道中を私服で歩いたという、まったく胸を張れないお話でした。</p>
<p>その道中、見ず知らずのおばあさんからみかんのご供養を受けました。</p>
<p>その時は、自分はこんなに不真面目に歩いていて、供養なんて受ける資格なんてないのにもったいないなと感じる一方、おばあさんの供養の心に、これから少しでもこのみかんに見合うようになろうと思ったことを覚えております。</p>
<p>九月には、永平寺での修行僧時代の話をしました。坐禅に身が入らず、お勤めもきちんと勤められない中で、ストレスで食い意地を張ってばかりいたことの話でした。</p>
<p>今も「立派な修行をしてきました」と胸を張ることはできません。</p>
<p>同じ日に、祖母が脳出血で倒れ、要介護者として寺に戻ってきた話もしました。</p>
<p>先日三度目の手術を終え、歩行器が手放せない生活を送っております。</p>
<p>福島の寺に残っている父と母が介護生活をしています。</p>
<p>二人だけでは手が足りず、時には叔母が手伝いに来ております。私は電話で両親の愚痴を聞くか、土日の休みに寺に戻ることくらいしかできておりません。</p>
<p>これは今でも状況は変わっていません。</p>
<p>それでも、行いの結果や良し悪しで自分を卑下して終わるのではなくて、食事が自分のそれまでの行いに見合うのか反省をして、次の行動に活かすのが大事だ、とお話をしました。</p>
<p>お釈迦様の成道のお話は、私の今までの体験にも通じてくるのだと思います。</p>
<p>見ず知らずのおばあさんからもらったみかんを、今までの自分に見合わないからと言って食べないことは、私に対して供養をしてくれたおばあさんを無下にする行為です。</p>
<p>そのみかんを糧に、これから供養に見合うよう修行していくのです。</p>
<p>永平寺の修行生活が自信を持てるものではなかった、自分の寺の現状に対して何も助けになれていない、だから目の前のご飯を食べない、ということにはなりません。</p>
<p>自分は至らない、だから自分の修行のために食事を頂き、次の行動に活かしていくのです。</p>
<p>お釈迦様が、供養を受けて生活を整え、生老病死の苦へと向き合ったように、私たちもまた食事を頂き、体の健康を整えた上で、食べた後自分がどう生きるか考えていくことが大切なのです。</p>
<p>これまでの自らを省みた上で食事を頂き、これからお釈迦様の教えを実践していくこと、つまりお釈迦様のお悟りとつながる「道を成す」ということが、私たちの成道なのではないでしょうか。</p>
<p>ご清聴ありがとうございました。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2023/12/IMG_9360-236x300.jpeg" alt="" width="236" height="300" class="alignnone size-medium wp-image-9559" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2023/12/IMG_9360-236x300.jpeg 236w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2023/12/IMG_9360-805x1024.jpeg 805w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2023/12/IMG_9360-768x977.jpeg 768w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2023/12/IMG_9360-1207x1536.jpeg 1207w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2023/12/IMG_9360-1609x2048.jpeg 1609w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2023/12/IMG_9360-scaled.jpeg 2012w" sizes="(max-width: 236px) 100vw, 236px" /></p>
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			</item>
		<item>
		<title>法話「言っといてくれない？」by渡辺秀憲（2023/7/19禅活しょくどうにて）</title>
		<link>https://zenkatsu.site/archives/9298</link>
					<comments>https://zenkatsu.site/archives/9298#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[禅活-zenkatsu-]]></dc:creator>
		<pubDate>Sat, 30 Sep 2023 15:00:22 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[法話]]></category>
		<category><![CDATA[禅活しょくどう]]></category>
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					<description><![CDATA[毎月開催している精進料理&#38;食作法体験ワークショップ「禅活しょくどう」では、 現在月替わりでメンバーの一人が法話を担当しています。 今回は2023年7月19日の回で渡辺秀しゅう憲けんさんがお話しした法話です。 法話「言っといてくれない…]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><span>毎月開催している精進料理&amp;食作法体験ワークショップ「禅活しょくどう」では、</span><br />
<span>現在月替わりでメンバーの一人が法話を担当しています。</span></p>
<p>今回は2023年7月19日の回で渡辺<ruby>秀<rt>しゅう</rt></ruby><ruby>憲<rt>けん</rt></ruby>さんがお話しした法話です。</p>
<h2>法話「言っといてくれない？」</h2>
<p>改めまして、こんばんは。</p>
<p>本日のお話を担当させていただきます渡辺秀憲です。よろしくお願いいたします。</p>
<p>前回、前々回に引き続き、「三心」をテーマにしたお話をしたいと思います。</p>
<p>「喜心」「老心」に続いて、今回は三心の三つ目「大心」についてです。</p>
<p>今回初めてのご参加の方もいらっしゃるということで、<br />
そもそも三心とは、というところからお話しさせていただきます。</p>
<p>福井県にある曹洞宗の大本山永平寺を開かれた道元禅師という方の書物に『典座教訓』というものがあります。</p>
<p>修行道場には食事の一切を司る「典座」というお役目があります。</p>
<p>『典座教訓』はその典座のお役目を担う者への、取り組み方や心構えを示した書物です。</p>
<p>三心はこの書物で道元禅師が示された言葉です。</p>
<p>前々回西田さんもお話ししましたが、三心にはこんな但し書きがあります。</p>
<blockquote><p>凡そ諸の知事頭首，及び當職作事作務の時節，喜心，老心，大心を保持すべき者なり。</p></blockquote>
<p>これは、典座のみならず、修行道場で役にあたる者は喜心、老心、大心の三心を忘れてはならない<br />
ということであり、修行そのものの在り方に関する重要な教えなのです。</p>
<p>そこで改めて理解を深めようということで、西田さん、原山さん、私それぞれが三心を一つずつ担当し、<br />
今回は私が三つめの心、大心についてお話しさせていただきます。</p>
<p>前回、前々回のお話は、禅活のブログに掲載しておりますので、そちらをご覧ください。</p>
<div class="sc_getpost"><a class="clearfix" href="https://zenkatsu.site/archives/9079" ><div class="sc_getpost_thumb post-box-thumbnail__wrap"><img src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2023/06/ブログサムネしんこう-min-150x150.jpg" width="150" height="150" alt="法話「言っといてくれない？」by渡辺秀憲（2023/7/19禅活しょくどうにて）"></div><div class="title">法話「喜悦の心の在り処」(2023/5/31禅活しょくどうにて)</div><div class="date">2023.6.2</div><div class="substr">毎月開催している精進料理&amp;食作法体験ワークショップ「禅活しょくどう」では、 現在月替わりでメンバーの一人が法話を担当しています。 今回は私西田が『典座教訓』の「喜心」についてお話しした内容を掲載いたします。 本編 さて、ここまでいす坐禅と食事作法を通して、カジュアルな環境ながら曹洞宗の食の教...</div></a></div>
<h2>大心とは</h2>
<p>さて、それでは今回のテーマである大心についてですが、道元禅師はこのよう説かれています。</p>
<blockquote><p>所謂大心とは，其の心を大山にし，其の心を大海にす。偏無く黨無き心なり。</p></blockquote>
<p>意味としては「大心とは、心を大きな山のように、広大な海のようにすること。偏りやおもねりのない心だ」となります。</p>
<p>山はひとところにどっしりと構え、風や雨雪の量などの好き嫌いで場所を移したりしません。</p>
<p>海は流れ込む水がきれいだとか汚れているといった好き嫌いをしません。</p>
<p>この山や海のように、自分の好き嫌いや偏見で作務の態度を変えるようなことをしてはならない、と道元禅師はお示しなのです。</p>
<p>例えば典座は修行道場の食を司るその役割上、修行生活の生命線になります。</p>
<p>食材の在庫はどれくらいあって、それで修行僧をどれだけ食べさせていくことができるのか。</p>
<p>高級な食材があるから今日は気合が入るぞとか、お客さんがいるから頑張ろうとか、<br />
典座の好き嫌いや気分で姿勢が変わっていては、道場の維持は立ち行かなくなります。</p>
<p>食材の状態や特性に合わせて無駄なく生かし切れるよう、<br />
あるいは人からの評価を気にして左右されるようなことなく、<br />
その時その時の最適な判断を下すことが求められるのです。</p>
<h2>修行中の記憶と気づき</h2>
<p>今回こうして大心という教えを紐解いてみて、私は非常に後悔しているできごとを思い出しました。</p>
<p>それは私が、大本山永平寺での修行生活が３年目を迎えた時のことです。</p>
<p>先ほど触れたように、修行道場には様々な役があり、それを割り当てられて努めます。</p>
<p>そしてその役目ごとに、寮舎という部署になっていて、法要や坐禅の時以外はそこで生活をします。</p>
<p>当時私がいただいた役は「<ruby>傘松会<rt>さんしょうかい</rt></ruby>」という寮舎の寮長でした。</p>
<p>傘に松と書く傘松は永平寺の機関紙で、この「傘松」を編集・発行する部署が「傘松会」です。</p>
<p>「傘松」には毎月の永平寺の様子を収めた写真や、修行僧の随筆などを掲載しています。</p>
<p>その写真の撮影や原稿の校正などの、編集作業が傘松会の主な役割です。</p>
<p>永平寺が公的に出している刊行物ですので、間違いの許されない、大変責任の重い役といえるでしょう。</p>
<p>そして、そんな傘松会のお役をいただいたのは私が三年目の年で、<br />
その部署の修行僧をまとめる「寮長」という立場での配役でした。</p>
<p>役寮という指導役の和尚さんが一人おられて、修行僧は寮長の私と、一年目の修行僧が二人いました。</p>
<p>私は寮長になるのは初めてで、永平寺に上山してはじめて一年目の修行僧のまとめ役となったのです。</p>
<p>このお役をいただいた時、私は心に決めていたことがありました。</p>
<p>それは、なるべく一年目の修行僧を叱らず、コミュニケーションを取りやすい空気を作っていこう、ということです。</p>
<p>実は私は傘松会自体は一年目の時に経験しており、その経験があっての寮長という配役でした。</p>
<p>一年目の時の傘松会では、とにかくよく𠮟られた記憶があります。</p>
<p>その役で必要な作業のことことは、先に役に当たっている同期から引き継ぐ形で教わります。</p>
<p>そのため、写真撮影に必要な一眼レフの使い方や法要を撮影する際の注意点は同期の修行僧から教わるのですが、<br />
一年目というのはみんな余裕がなく、なかなか懇切丁寧に、とはいきません。</p>
<p>そうして法要の本番を迎えると、カメラの使い方が違う、撮影の注意点がわかっていない、<br />
時には同期から教わったことが違っていて先輩から叱られることすらありました。</p>
<p>しかし、納得がいかない、注意の内容が理解できないとしても、<br />
先輩に聞き返したり反論することはできないという暗黙の了解のようなものがありました。</p>
<p>そんな状況にあって、私は</p>
<p>「もう先輩が最初から全部教えてくれればいいじゃないか。全部先輩に聞ければすぐ解決するのに。」<br />
いつもそう思いながら日々を過ごしてきたことを覚えております。</p>
<p>また、寮長がずっと怒っていたり、不機嫌だったりして意思疎通がうまくいかないことも多々ありました。</p>
<p>また、先輩が怒っていれば、後輩は委縮して、目の前のことがうまくこなせなくなるものです。</p>
<p>私は特に先輩の目を気にしやすく、怒らせないようにと思うほど自分の仕事がうまくいかず、<br />
結果的にはさらに怒らせてしまったことがよくありました。</p>
<p>もちろん先輩の中には優しい方もいましたが、<br />
私は後輩を萎縮させるような態度を取る寮長の在り方には納得ができませんでした。</p>
<p>そこで、傘松会で寮長になるにあたって、自分がやるからには後輩が聞きやすい環境を目指そう、<br />
コミュニケーションを取りやすいよう、あまり怒らないようにしよう。</p>
<p>修行道場の体育会系な環境に、一人反旗を翻すような気持で臨んだのでした。</p>
<p>そんな心持ちで私がカメラの使い方を説明すると、<br />
「先輩にこんなに丁寧に説明されたことないです」と一年目の二人は感動してくれました。</p>
<p>二人の僧侶としての作法やお役目のやり方に問題があれば、<br />
怒るのではなく何がいけないのかを理解できるよう説明する。</p>
<p>部署の空気もよく、二人はわからないことがあれば私に聞きに来るようになりました。</p>
<p>当初はそれでうまくいっていたように思いました。</p>
<p>ひと月ほど経つと、だんだん二人それぞれの性格がわかってきました。</p>
<p>一人はまじめで、普段の生活もお役目の仕事も完璧にこなそうとするA君。</p>
<p>もう一人はひょうきんで、見つからない程度に手を抜こうとするＢ君。</p>
<p>Ｂ君は私が怒らないタイプだと知ると、段々と粗が見え始めました。</p>
<p>写真撮影をすっぽかしたり、坐禅に行くべき時間に行っていなかったりということが分かったのです。</p>
<p>私もだんだんＢ君に注意をすることが増えました。</p>
<p>しかし、日を増すごとに<span>B</span>君の態度は、修行僧としてふさわしくないものになっていきます。</p>
<p>でもこれ以上私がＢ君に注意したら、傘松会の空気が今より悪くなるのではないだろうか。</p>
<p>悩んだ私は、気づいたことをＡ君に指摘してもらうことにしました。</p>
<p>「Ａ君、Ｂ君にさ、今の修行態度よくないよって、言ってくれる？僕が言うと角が立ちそうだからさ」</p>
<p>まじめで責任感の強いＡ君も、Ｂ君に思うところがあったのでしょう。</p>
<p>「やっぱりあれよくないですよね。わかりました。言っておきます」</p>
<p>と承諾してくれました。</p>
<p>Ａ君の注意が効いたのか、翌日はＢ君の態度が少し良くなっているように見えました。</p>
<p>同期に注意されると効果があるのか。</p>
<p>そう味を占めた私は、またＢ君の態度が目に付いたり、<br />
失敗が増えたりするたびにＡ君に注意してもらうことにしました。</p>
<p>そうして傘松会の空気は悪くはない、自分は寮長としてよくやっているほうだと思えるようになっていきました。</p>
<p>そんなある日、私の同期が心配そうに声をかけてきました。</p>
<p>「傘松会、大丈夫か？」</p>
<p>「大丈夫って何が？」</p>
<p>「お前の後輩二人、永平寺で一番仲悪いって評判じゃん」</p>
<p>寝耳に水でした。</p>
<p>寮長の私と二人は寝る部屋が別なのですが、聞くところによれば、<br />
一日の作業が終わってから寝るまでの休憩時間、今やその二人は会話がゼロ。</p>
<p>編集で必要なやりとり以外ではお互いに不干渉の関係になってしまったというのです。</p>
<p>しかもそのことは、永平寺の中でもかなり有名で、知らぬは私ばかりでした。</p>
<p>それまでは、三人で編集作業をしているときも、<br />
二人は和気あいあいと務めを果たしていると思っていまいしたが、改めて二人を見ていると、<br />
会話をするのは私が話を振ったときだけで、<br />
Ａ君とＢ君の間にあるのは事務的なやりとりだけだということに気付きました。</p>
<p>もちろん、二人の性格的な相性というものはあったかもしれませんが、<br />
私がＡ君にＢ君を注意させたことが無関係だとはどうしても思えませんでした。</p>
<p>先ほど、大心とは偏見や自分への評価に左右されずその時その時で最適な判断を下すことだとお話ししました。</p>
<p>私は傘松会の空気を悪くしないためにとＡ君にＢ君への注意をお願いしました。</p>
<p>でもそれは私が自分の理想を叶えるための一人よがりで、<br />
結局二人の関係にとって悪い方向に作用しました。</p>
<p>もっと正直に言えば、この時の私は、自分が悪者になることを避けていただけだったのかもしれません。</p>
<p>当時の私に必要だったのは、自分がどんな寮舎にしたいかという理想や、<br />
優しい寮長になろうとすることではなく、自分の言葉や態度が二人にどんな影響を与えるかを見極め、<br />
必要があれば自分が嫌われ役を買ってでるような姿勢だったのです。</p>
<p>「偏なく党なき心」と道元禅師が説かれた大心は、まさに当時の私に欠けていたものでした。</p>
<p>結局二人の仲は修復されることはなく、ひと月後に別々の役に当たって傘松会をあとにしました。</p>
<p>私は永平寺を下りてからも、あの時どうすべきだったのだろうかと、<br />
このことを思い出しては自問自答してきました。</p>
<p>そこで今回改めて『典座教訓』を読んだ時、当時の私が自分の視点に囚われ、</p>
<p>自分の評価を気にして、大心を欠いていたことに原因があったことに、ようやく気づくことができました。</p>
<p>この経験を忘れずに、今目の前の相手のために、<br />
どんな言葉をかけてあげるべきなのか、何をすべきなのか、どう伝えればいいのか。</p>
<p>わが身可愛さとか、好き嫌いとか、そんな偏りやおもねりに囚われることのないよう、常に考えていきたいと思います。</p>
<p>ご清聴ありがとうございました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2023/07/IMG_7428-257x300.jpeg" alt="" width="257" height="300" class="alignnone size-medium wp-image-9232" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2023/07/IMG_7428-257x300.jpeg 257w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2023/07/IMG_7428-878x1024.jpeg 878w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2023/07/IMG_7428-768x896.jpeg 768w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2023/07/IMG_7428.jpeg 1186w" sizes="(max-width: 257px) 100vw, 257px" /></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>法話「母からもらった老心」by原山佑成（2023/6/21禅活しょくどうにて）</title>
		<link>https://zenkatsu.site/archives/9305</link>
					<comments>https://zenkatsu.site/archives/9305#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[禅活-zenkatsu-]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 31 Aug 2023 15:00:06 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[法話]]></category>
		<category><![CDATA[禅活のイベント]]></category>
		<category><![CDATA[典座]]></category>
		<category><![CDATA[永平寺]]></category>
		<category><![CDATA[禅活しょくどう]]></category>
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					<description><![CDATA[毎月開催している精進料理&#38;食作法体験ワークショップ「禅活しょくどう」では、 現在月替わりでメンバーの一人が法話を担当しています。 今回は原山佑成ゆうせいさんがお話しした法話です。 法話「母からもらった老心」 前回から『典座教訓』の中…]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><span>毎月開催している精進料理&amp;食作法体験ワークショップ「禅活しょくどう」では、</span><br />
<span>現在月替わりでメンバーの一人が法話を担当しています。</span></p>
<p>今回は原山<ruby>佑成<rt>ゆうせい</rt></ruby>さんがお話しした法話です。</p>
<h2>法話「母からもらった老心」</h2>
<p>前回から『典座教訓』の中に示されている三つの心「三心」<br />
についてのお話をさせていただいていますが、<br />
今回はその二つめの心、「老心」についてのお話を致します。</p>
<p>『典座教訓』は永平寺を開かれた道元禅師が中国に渡ってご修行された際の経験をもとに、<br />
修行道場の食事を司る「典座」という役職について著された書物です。</p>
<p>ただ、前回西田さんがお話したように、典座の心得を通して<br />
修行道場の「作務」全体について説かれているものでもあります。</p>
<p>中でも三心は、役職に当たった人が持つべき心構えのことです。</p>
<p>本日お話しする「老心」は、</p>
<p>前回西田さんがお話しした「喜心」に続いて、二つ目の心です。</p>
<p>「老心」は老婆心とも言い換えられますが、親が子を想うように、<br />
自分よりも相手を優先して考える切実な想いのことをいいます。</p>
<p>道元禅師は、このような慈しみの心を起こした人こそが、<br />
本当に老心を理解することができるのだと説かれました。</p>
<p>私は、現在結婚もしておらず、子供もいないので、<br />
親が子供を一心に想うような心を抱いたことはありません。</p>
<p>しかし、抱いたことはなくても「老心」を感じたことがあります。</p>
<h2>学生時代の葛藤</h2>
<p>当時大学四年生だった私は、卒業後の進路に悩んでいました。</p>
<p>大学生の頃の私は、音楽の専門学校に通いながら、<br />
駒澤大学の軽音サークルに所属していました。</p>
<p>ぼんやりと音楽で生計を立てたいと思っていましたが、<br />
それは容易なことではないということもわかっていました。</p>
<p>そのため、音楽活動に対しての情熱は徐々に薄れていき、<br />
いわゆる「音楽で食っていく」道は諦め、就職就職活動を始めました。</p>
<p>皆さんの方が私よりもずっとよくご存知かと思いますが、就職活動は簡単ではありませんでした。</p>
<p>まず、自分の長所と短所明確にし、<br />
どんな職業に向いているのかを知るために、適性検査を受けます。</p>
<p>その後、検査の結果をもとに、自分に合った企業や自分の関心のある企業で行われている採用試験に臨みます。</p>
<p>適性検査を受け、自分の短所を知ったことも多少の動揺はしましたが、<br />
それ以上に企業からの不採用の通知が送られて来るたびに、<br />
自分の至らなさを実感する毎日でした。</p>
<p>そんな経験をしていたのは私だけではありません。</p>
<p>大学の友人達も、何度も採用試験を受けては、企業から内定を貰えずにいました。</p>
<p>サークル活動で行っていたバンドの練習のために集まっていても、<br />
話に上がるのはいつも就職活動のこと。</p>
<p>内定を貰えない事に焦りを感じている、このまま内定を貰えなかったらどうすれば良いか分からないなど、<br />
それぞれが就職活動で様々な悩みを抱えていました。</p>
<p>そんな仲間達の話を聞きながら、実は私は<br />
「もし内定を貰えなかったとしても、卒業後に修行に行ってお坊さんになってしまえば大丈夫だろう」<br />
と心の何処かで思っていました。</p>
<p>しかし、私はそんなふうに思ってしまう自分が許せませんでした。</p>
<p>お坊さんになりたくないと思い、自分なりの道を模索してきましたが、<br />
就職活動が上手くいかない現実を前にすると、<br />
都合よくお坊さんという道を逃げ道のようにすがろうとしていることに気付いてしまったからです。</p>
<p>これは八つ当たり以外の何物でもないのですが、<br />
私はそう考えてしまう自分が嫌になると同時に、お坊さんという選択肢が与えられていること、<br />
さらに言えばお寺に生まれたことまで憎むようになっていました。</p>
<p>そんなある日、特に仲の良かった友達の一人からこんな言葉をかけられました。</p>
<p>「ゆうせいは、何のために就活をしているの？<br />
どうせ就活が上手くいかなくてもお坊さんになれば良いのだから、俺たちの苦労は分からないよね」</p>
<p>私はこの時、怒りとも悲しみとも違う複雑な感情になったことを覚えています。</p>
<p>その友達にとって自分は一緒に就職活動を行なっている仲間ではなかったのだ、<br />
という悲しみと、実際に心のどこかで就職活動はやめて、<br />
修行に行く決心をしなくてはならないと心のどこかで思っていたからです。</p>
<p>私はこれきっかけに就職活動をやめ、お坊さんとして生きる人生を決意しました。</p>
<p>それから少し経ち、大学四年生の夏休みになりました。</p>
<p>福井県の大本山永平寺では、毎年八月に九頭竜川という川に灯籠を流す<br />
「永平寺町大灯籠流し」というお祭りの中で施食会という法要をお勤めします。</p>
<p>私が来年から永平寺で修行をするということや、<br />
当時兄が永平寺で修行していたということもあり、<br />
私は母と母方の親戚と一緒に永平寺の参拝を兼ねて、そのお祭りに行きました。</p>
<p>私はそれまでにも何度か永平寺をお参りしたことはあったのですが、<br />
いざ自分がこの場所で修行をすると考えると、憂鬱な気持ちになってしまいました。</p>
<p>更に、施食会のお勤めに参加する永平寺の修行僧と自分を重ねて見てしまい、<br />
一年後には自分もあの人たちと同じことをしているのかと思うと、<br />
憂鬱な気持ちになっていったのです。</p>
<p>永平寺の参拝と施食会を見終えて宿に帰ったあと、<br />
私は膨れ上がった感情を母にぶつけてしまいました。</p>
<p>「自分はなりたくてお坊さんになるわけではない、<br />
生まれてからずっと十字架を背負って生きている気持ちだった」<br />
と伝えると母は何も言うことなく黙って私の話を聞き、最後は涙を流していました。</p>
<p>私は自分の言っていることが見当違いで、ただの八つ当たりであることもわかっていました。</p>
<p>なぜなら母は昔から、お寺の次男として生まれた私に対して<br />
「あんたはお坊さんにならなくても良いんだよ、好きなように生きて良いんだよ」<br />
と言われてきたからです。</p>
<p>しかし、当時の私は感情が昂っていたせいか、謝ることができませんでした。</p>
<p>それからしばらくして、私は母方の祖母からこのような話を聞きました。</p>
<p>かつて私の母はお寺に嫁ぐことを躊躇しており、<br />
それは子供が生まれた時にその子がお坊さん以外の道を選ぶことが出来ないのではないか、<br />
夢をもつこともできないのではないか心配に思ったからだそうです。</p>
<p>私はその話を聞いて重ねて後悔しました。</p>
<p>母は、僧侶である父と結婚するという自分の人生以上に、<br />
まだ見ぬ我が子の将来のことを心配していたのです。</p>
<p>だからこそ、私には「お坊さんにならなくてもいい」といつも言っていたのでしょう。</p>
<p>しかし私はそんな母の気持ちや悩みを知らずに、一方的に感情をぶつけてしまいました。</p>
<p>その後、母は私の気持ちに対しては特に何かを言う事はありませんでした。</p>
<p>私が永平寺に修行に行く日の朝も、ただ「頑張ってきなさい」と言うだけでした。</p>
<p>私はずっと申し訳ないとと思いながらも、結局謝る事はできずに永平寺に向かいました。</p>
<h2>永平寺での出来事</h2>
<p>そして永平寺での修行生活がだんだんと慣れてきた頃、<br />
母が永平寺に来る機会がありました。</p>
<p>永平寺で修行を始まると基本的に実家に帰る事は出来ず、外部に電話をする事もできません。</p>
<p>そのため、修行を始めてから三ヶ月ほどしか経っていませんでしたが、<br />
母親に会えるかもしれないと思っていた私は、とても楽しみにしていました。</p>
<p>しかし、自分の役割の関係でうまく時間が合わず、直接顔を見ることは出来ませんでした。</p>
<p>ただ、指導役の和尚さんの計らいがあってか、永平寺の内線を使って話すことができました。</p>
<p>母の声を久しぶりに聞いた私は、安心感もあったのか泣きそうになるのを必死に堪えながら、<br />
短い時間でしたが母と話す事ができました。</p>
<p>その時に私は母に対して「永平寺に来たことは後悔していないよ」と言いました。</p>
<p>すると母は私に対して、「それなら良かった。頑張りなさいね」と言ってくれました。</p>
<p>私は母からの短い励ましの言葉の中に、深い愛情を感じました。</p>
<p>当然、私が言った言葉を忘れてはいないはずです。</p>
<p>もしかしたら、私に対して罪悪感すら感じさせてしまっていたかもしれません。</p>
<p>しかし、謝ることもできない私の言葉を責めるでもなく「それは良かった」と言ってくれたのです。</p>
<p>『典座教訓』の中で「老心」を説く、こんな一節があります。</p>
<blockquote><p><em>自身の貧富を顧ず、偏に吾が子の長大なることを念ず。</em><br />
<em>自らの寒きを顧ず、自らの熱きを顧ず、子を蔭ひ、子を覆ふ。</em><br />
<em>以て親念切切の至りと爲す。</em></p></blockquote>
<p>この教えは、たとえ自分が貧しく、生活が辛く苦しくても、ひたすらに我が子の成長を願う。</p>
<p>自分が寒さの中にあっても、その寒さを顧みずに自分の子供を暖め、</p>
<p>逆に暑い時には自分の暑さを顧みずに子供に日陰を作る。<br />
これこそが親心の極みである。と言う意味です。</p>
<p>その中でも重要なのは、この「顧みず」という言葉ではないでしょうか。</p>
<p>自分の名誉や自分の得ではなく、この成長や健やかさを願うという心は、<br />
母があの日何も言わず涙を流した姿や、「それは良かった」と言ってくれた声と重なる気がするのです。</p>
<p>自分の名誉や立場を考えていたら、もしかすると母は弁明をしたり、<br />
あるいはその場で怒っていたかもしれません。</p>
<p>しかし、自分の身ではなく私を思ってくれたからこそ、<br />
あの涙とあの声があったのではないかと、今では思うのです。</p>
<p>道元禅師はこのような自らを顧みずに他を想う「老心」をもって、<br />
自分の役と向き合うようにと説かれています。</p>
<p>それは典座調理に限らず、掃除でも接客でも事務仕事にもいえることでしょう。</p>
<p>自分がどう思われるか、どれくらい得をするか、そんな損得勘定のない母の老心を受けて、<br />
私は今皆様の前で僧侶としてお話させていただいています。</p>
<p>母の老心によっていくつもの選択肢を与えてもらったことにより、<br />
その中での出会いや経験、喜びや悲しみがありました。</p>
<p>そしていくつもの悩みの先に、私は僧侶として生きていく道を自分で踏み出すことが出来ました。</p>
<p>あの時の自分の言葉への後悔がなくなることはありませんが、母の「老心」に導かれて歩んでいるこの道を精進していきたいと思います。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2023/06/IMG_6802-225x300.jpeg" alt="" width="225" height="300" class="alignnone size-medium wp-image-9147" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2023/06/IMG_6802-225x300.jpeg 225w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2023/06/IMG_6802-768x1024.jpeg 768w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2023/06/IMG_6802.jpeg 1109w" sizes="(max-width: 225px) 100vw, 225px" /></p>
<div class="sc_getpost"><a class="clearfix" href="https://zenkatsu.site/archives/9079" ><div class="sc_getpost_thumb post-box-thumbnail__wrap"><img src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2023/06/ブログサムネしんこう-min-150x150.jpg" width="150" height="150" alt="法話「母からもらった老心」by原山佑成（2023/6/21禅活しょくどうにて）"></div><div class="title">法話「喜悦の心の在り処」(2023/5/31禅活しょくどうにて)</div><div class="date">2023.6.2</div><div class="substr">毎月開催している精進料理&amp;食作法体験ワークショップ「禅活しょくどう」では、 現在月替わりでメンバーの一人が法話を担当しています。 今回は私西田が『典座教訓』の「喜心」についてお話しした内容を掲載いたします。 本編 さて、ここまでいす坐禅と食事作法を通して、カジュアルな環境ながら曹洞宗の食の教...</div></a></div>
<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>文章を書く習慣がもたらした３つの良い影響</title>
		<link>https://zenkatsu.site/archives/7965</link>
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		<dc:creator><![CDATA[西田稔光]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 24 Mar 2022 15:00:56 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[コラム]]></category>
		<category><![CDATA[仏教]]></category>
		<category><![CDATA[法話]]></category>
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					<description><![CDATA[お久しぶりです、西田です。 お彼岸や年度末の忙しさから、ブログ開設以来初めて1ヶ月も投稿をお休みしてしまいました。 振り返ればこのブログで初めて投稿をしたのは2018年の7月。 以降3ヶ月間は週３本、他のメンバーが執筆に加わってからは週２本…]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>お久しぶりです、西田です。</p>
<p>お彼岸や年度末の忙しさから、ブログ開設以来初めて1ヶ月も投稿をお休みしてしまいました。</p>
<p>振り返ればこのブログで初めて投稿をしたのは<span class="sc_marker y">2018年の7月</span>。</p>
<p>以降3ヶ月間は週３本、他のメンバーが執筆に加わってからは週２本、<br />
YouTubeの投稿を始めてからは週一本になり、今年からは2週間に1本と、<br />
月２本以上は2000~3000字の記事を書いてきました。</p>
<p>元々私は、自分の頭の中にあることを形にして、<br />
それを人を届けるということが好きなタイプだったので、性に合った習慣ではあったと思います。</p>
<p>しかし、それ以上に文章を書くという習慣が、<br />
自分にとって様々な良い影響をもたらしていることに、最近改めて気付きました。</p>
<p>今回は、そんな<span class="sc_marker red"><strong>文章を書く習慣がもたらした３つの良い影響</strong></span>をご紹介します。</p>
<h2>①記憶や感情の保存</h2>
<p>一つ目は、<span class="sc_marker y"><strong>出来事や感情が記録として保存されるということ</strong></span>です。</p>
<p>これは写真の投稿やSNSでのやりとりに言えることかもしれませんが、<br />
その時の自分の課題や注目していたこと、考え方がリアルタイムに保存されます。</p>
<p>中でもこのブログという媒体が優れていると思う理由は、ツイートのような独り言ではなく、<br />
<span class="sc_marker y">読み手がいることを前提に、問題提起から結論までの完結した文章にしているという点</span>にあります。</p>
<p><span class="sc_marker y">なぜそこに関心を持ち、その時どのような結論に到っていたのか</span>が、ブログには残ります。</p>
<p>これを後から振り返ると、自分の変化がわかり、<br />
変化がわかることで何を学んだかが見えてくると、私は感じています。</p>
<p>つまり、<strong><span class="sc_marker red">その時その時の自分の心情や課題の足跡を残すことで、</span></strong><br />
<strong><span class="sc_marker red">振り返った時にそれが繋がって一つのストーリーや資料になりうる</span></strong>のです。</p>
<p>発信することによってより整理された日記のような役割を、<br />
ブログでの執筆は果たしてくれていました。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2022/03/22605216_s-min-300x200.jpeg" alt="" width="300" height="200" class="alignnone size-medium wp-image-7968" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2022/03/22605216_s-min-300x200.jpeg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2022/03/22605216_s-min.jpeg 640w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>②アンテナを張るクセがつく</h2>
<p>ブログでもYouTubeでもSNSでも、一番の悩みは「<strong><span class="sc_marker blue">ネタ切れ</span></strong>」です。</p>
<p>このブログを開設した当初は、<br />
書きたいことや人に届けたいことの在庫が頭の中にある程度あったのですが、<br />
一年もするとかなり尽きてきて、二年もすれば自転車操業状態になります。</p>
<p>本当に何も浮かばない時の辛さときたらもう…。</p>
<p>ましてや、この六年はお寺で生活していたわけでもないので、<br />
「仏教っぽい」話題などなかなか見つかりません。</p>
<p>そんな中で、<span class="sc_marker y"><strong>現実でもネットでも日常生活の中で触れる出来事や話題を、</strong></span><br />
<span class="sc_marker y"><strong>僧侶の視点から見るとどうなるだろうか？と考える習慣</strong></span>が生まれました。</p>
<p>言い方は悪いですが、「ネタ」を探すアンテナが自然と張られるようになったんです。</p>
<p>そしてそれは文章に留まらず、僧侶としての社会との関わり方に直結していきました。</p>
<p><span class="sc_marker red"><strong>今ある問題を仏教はどう解決していくのか？</strong></span><br />
<span class="sc_marker red"><strong>仏教というフィルターを通したらどのように見えるのか？</strong></span><br />
<span class="sc_marker red"><strong>というアンテナは、今の私の活動に欠かせないもの</strong></span>になっています。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2022/03/22308813_s-min-300x225.jpeg" alt="" width="300" height="225" class="alignnone size-medium wp-image-7967" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2022/03/22308813_s-min-300x225.jpeg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2022/03/22308813_s-min.jpeg 640w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>③考えたことがより具体的になる</h2>
<p>そして、一番はこれです。</p>
<p>アンテナを張るクセがつくと、何気ないことも僧侶という視点から見られるようになりますが、<br />
<span class="sc_marker blue">必ずしもそれがちゃんと仏教の教えと関連し、成立しているとは限りません</span>。</p>
<p>特に法話作りをすると<br />
<span class="sc_marker y">「ムム！この出来事はあの仏教の教えをよく表しているのではないか！？」</span><br />
と閃いても、文章にしようとするとあまり連結が上手くいかないことが多々あります。</p>
<p>あるいは、自分ではとても素晴らしいことに気づいたと感動していても、<br />
文章に表そうとすると上手く言葉にできないことも少なくありません。</p>
<p>仏教では<span class="sc_marker red"><strong><ruby>道得<rt>どうとく</rt></ruby></strong></span>といって、<span class="sc_marker y">本当に理解したなら表現することができると言います</span>。</p>
<p>つまり、<span class="sc_marker blue"><strong>どれだけ大きな気付きがあったとしても、</strong></span><br />
<span class="sc_marker blue"><strong>人に伝えられないうちは本当に納得したとは言えない</strong></span>のかもしれません。</p>
<p>ただ、この<span class="sc_marker y">「伝える」というのは言葉に限らない</span>ので、<br />
言葉にできない＝本当は理解できていないというわけではありません。</p>
<p>しかし、文章に表すことによって、<span class="sc_marker red"><strong>本当はまだ理解しきれていないことが明らかになったり、</strong></span><br />
<span class="sc_marker red"><strong>漠然としていたものが明確になったりする</strong></span>ことがあるのは間違いありません。</p>
<p>どちらにせよ、文章を書くことには<br />
頭にあることの輪郭がはっきりしていくというメリットがあること確実です。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2022/03/22100587_s-min-300x224.jpeg" alt="" width="300" height="224" class="alignnone size-medium wp-image-7966" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2022/03/22100587_s-min-300x224.jpeg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2022/03/22100587_s-min.jpeg 640w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>大切なのは「想定」だと思う</h2>
<p>ということで、私なりに文章を書き続けることがもたらした良い影響をまとめてみました。</p>
<p>個人的に重要だと思うのは、<span class="sc_marker red"><strong>誰かが読むことを想定した文章を書くこと</strong></span>だと思います。</p>
<p>それは必ずしもネット上で記公開する記事を書けばいいということではなく、<br />
読者を想定するということが重要なんです。</p>
<p>非公開のブログや記事を書く場所など、現代ではそこら中に存在しています。</p>
<p>その非公開の場所でも、自分が思い出せれば良いというのではなく、<br />
読み手を意識して文章として完結させていくという作業をすることで、<br />
間違いなく変化はあると、私は思っています。</p>
<p>僧侶に限らず、こんなに色んな表現方法がある現代だからこそ、<br />
文章を書くのはおすすめです。</p>
<p><span class="sc_marker y"><strong>このブログで執筆してみたいという方はぜひご連絡ください！</strong></span></p>
<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>法話「人の死をどう受け止めるか」原稿&#038;反省点</title>
		<link>https://zenkatsu.site/archives/7642</link>
					<comments>https://zenkatsu.site/archives/7642#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[久保田智照]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 25 Nov 2021 21:30:13 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[法話]]></category>
		<category><![CDATA[お経]]></category>
		<category><![CDATA[仏教]]></category>
		<category><![CDATA[供養]]></category>
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					<description><![CDATA[広告 11月6日に禅活チャンネルで公開した、5分法話「人の死をどう受け止めるか」。 今回は、その原稿を公開し、動画では語り切れなかった反省点をピックアップしていきます！ 起 私たち人間にとって、「死」というテーマは重大で、深刻なものです。 …]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>広告</p>
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<p>11月6日に禅活チャンネルで公開した、5分法話「人の死をどう受け止めるか」。</p>
<p><iframe title="５分法話「人の死をどう受け止めるか」(&amp;反省会)" width="850" height="478" src="https://www.youtube.com/embed/ewC1B8PEHs8?feature=oembed" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture" allowfullscreen></iframe></p>
<p>今回は、その原稿を公開し、動画では語り切れなかった反省点をピックアップしていきます！</p>
<h2>起</h2>
<p>私たち人間にとって、「死」というテーマは重大で、深刻なものです。</p>
<p>誰も経験したことがないはずなのに、<br />
自分の死はおそろしく、<br />
他者の死の場合はその方が身近であればあるほど重く、苦しく、心に突き刺さってきます。</p>
<p>この「死」という得体のしれないものについて、<br />
私がお話しできることは「人の死を自分自身がどう受け止めたか」ということです。</p>
<p>そこで今回は、私が僧侶として人の死から学んだことをお話しさせていただきます。</p>
<h2>承</h2>
<p>今年５月のこと、友人から１本の電話を受けました。</p>
<p>「おお、智照。悪いね。親父なんだけどさ、どうも危ないみたいなんだ。<br />
今日明日の話ではないようだけどね。でさ、どうなるかはわかんないんだけど、<br />
もし亡くなったときには葬儀をつとめてくれるか？」</p>
<p>「ああ、オレでいいなら、勿論。」</p>
<p>そんなやり取りを交わして数時間後、「亡くなった」という連絡が届きました。</p>
<p>私自身もそのお父さんからお世話になっていたということがあり、<br />
急な知らせに気持ちの整理がついていませんでした。</p>
<p>急いでご葬儀の準備を進めて、迎えたお通夜の日。</p>
<p>新型コロナの影響も考慮して、連絡も最小限にとどめ家族と近しい親類だけで送るというお話でしたが、<br />
会場には多くの方が弔問に訪れていました。</p>
<p>聞けば、弔問に訪れた方々の多くが、故人の教え子であるとのことでした。</p>
<p>友人のお父さんは教員として定年退職まで勤め上げた方で、<br />
かつての生徒たちが口づてに訃報を聞き、駆けつけてきたそうです。</p>
<p>それぞれが口々に感謝の言葉を述べ、ひたすらに思いを込めてご焼香をされていく姿を見つめながら、<br />
私はその様子を、お釈迦さまが亡くなられた時のお姿に重ね合わせていました。</p>
<h2>転</h2>
<p>お釈迦さまが亡くなられるときの様子を記した、『<ruby><span class="sc_marker red"><strong>仏垂般涅槃略説教戒経</strong></span><rt>ぶっしはつねはんりゃくせつきょうかいきょう</rt></ruby>』というお経があります。</p>
<p><ruby><strong>遺経</strong><rt>ゆいきょう</rt></ruby>また<strong><ruby>遺教経<rt>ゆいきょうぎょう</rt></ruby></strong>とも呼ばれ、２月１５日の<ruby>涅槃会<rt>ねはんえ</rt></ruby>や、亡くなった方の枕経で唱えることの多いお経です。</p>
<p>その内容は、死に瀕したお釈迦さまが、残されるお弟子さま方に対して最後の説法を行うというものです。</p>
<p>お釈迦さまは、そのお命が尽きようとしている最後の最後まで、お弟子さま方に教えを伝えようとなさいました。</p>
<p>お経の最後はこのように結ばれます。</p>
<p><em><strong>「</strong></em><em><strong>汝等、且く止みね。復た語ること得ること勿れ。時将に過ぎなんと欲す。</strong></em><br />
<em><strong>我滅度せんと欲す。是れ我が最後之教誨する所なり。」</strong></em></p>
<p>これはすなわち、</p>
<p><strong>「弟子たちよ、静かにするがいい。もはや言葉を発してはいけない。</strong><br />
<strong>時はまさに過ぎ去ろうとしている。私はここで死を迎える。これが私の最後の教えである」</strong></p>
<p>というお諭しです。</p>
<p>ここでお釈迦さまがはご自身の死を通して「いのち」のあり方を説かれたのだと私は思います。</p>
<h2>結</h2>
<p>私が、友人のお父さんの葬儀に、お釈迦さまのご最期を重ね合わせていたのは、<br />
その教えを受けた方々は、きっとこれからも受けた教えを胸に、<br />
日々を生きていかれるのだろうと感じたからに他なりません。</p>
<p>亡くなったその人の生きざまや教えが、残された人の胸に宿り、そして人生を生きる支えとなっていく。</p>
<p>これは人の「死」のひとつの真実の姿ではないでしょうか。</p>
<p>だとすれば、人の死を考える際に大切なことは、</p>
<p>死んでどうなるかということ以上に、どのように生き、<br />
どんな教えを残すかだと言えるのではないでしょうか。</p>
<p>それは友人のお父さんだけでなく、私自身に問われていることでもあります。</p>
<p>今回は「人の死をどう受け止めるか」についてお話をいたしました。</p>
<p>ご清聴ありがとうございました。</p>
<h2>反省点①</h2>
<p>それでは、反省に参りましょう。</p>
<p>一つ目はこちら。</p>
<p><strong>「人の死を考える際に大切なことは、死んでどうなるかということ以上に、</strong><br />
<strong>どのように生き、どんな教えを残すかだと言えるのではないでしょうか」</strong></p>
<p>法話の中でいうと「結」にあたる部分で用いた表現です。</p>
<p>特に、「死んでどうなるかということ以上に」という部分。<br />
ここは別の表現が必要だと思いました。</p>
<p>ここの何が反省点であるのかというと、</p>
<p>周知の通り、日本の仏教には浄土信仰があります。</p>
<p>死後、極楽浄土へ行くことを大切にしている人にとって、</p>
<p>この一文は自分の信仰を軽視されたように思えてしまうのではないか、と感じました。</p>
<p>もちろん、私自身にそのような意図はなかったのですが、安易な比較は危険だと気が付きました。</p>
<p>伝えたいことを強調するために、別の何かと対比するということは、普段何気なく行ってしまうことだと思います。</p>
<p>しかし、どちらかを上げるということは、どちらかが下がるということに繋がります。</p>
<p>それが、決して意図しないものであっても、下げられてしまった方は傷ついてしまうかもしれません。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>また、曹洞宗でも、決して死後を軽視しているわけではありません。</p>
<p>この点についても誤解を与えかねない表現だと思いました。</p>
<h2>反省点②</h2>
<p>今回は、原稿をもとに法話をいたしましたが、</p>
<p>書き言葉をそのまま話しているせいか、ぎこちなさが目立ちました。</p>
<p>原稿作成の際、なるべく話し言葉に近づけるようにと気を付けてはいましたが、</p>
<p>どうしても違和感があったと思います。</p>
<p>聞く、ということはかなり負担になる行為なので、</p>
<p>法話という決して短くない時間を「聞いていただく」ためには、もう少し工夫が必要だったと思います。</p>
<h2>おわりに</h2>
<p>これまでにもいろいろな場所で法話をさせていただきましたが、</p>
<p>動画での法話にはまたひとつ工夫が必要だと感じました。</p>
<p>ご視聴いただいている皆さま、いつもありがとうございます。</p>
<p>次回は、しんこうさんの回になりますが、そちらもどうぞお楽しみに。</p>
<p>それでは！</p>
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		<title>お蔵入り法話を引っ張り出してみた</title>
		<link>https://zenkatsu.site/archives/7428</link>
					<comments>https://zenkatsu.site/archives/7428#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[久保田智照]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 14 Sep 2021 21:30:40 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[コラム]]></category>
		<category><![CDATA[仏教]]></category>
		<category><![CDATA[法話]]></category>
		<category><![CDATA[煩悩]]></category>
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					<description><![CDATA[記事の内容が定まらずグーグルドライブを漁っていたら、数年前に書いて、 結局一度も話すことのなかった法話の原稿が出てきました。 法話のテーマは「無常」。 読んでみると、酒を飲んで書いたのではないかというほど調子に乗った文面で、 もはや法話と呼…]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>記事の内容が定まらずグーグルドライブを漁っていたら、数年前に書いて、<br />
<span style="font-size: 14pt;"><strong>結局一度も話すことのなかった法話の原稿</strong></span>が出てきました。</p>
<p><span style="background-color: #ffffff; font-size: 16px;">法話の<span style="font-size: 14pt;"><strong>テーマは</strong><strong>「無常」</strong></span>。</span></p>
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>読んでみると、酒を飲んで書いたのではないかというほど調子に乗った文面で、<br />
<span style="background-color: #ffffff;">もはや法話と呼べるかすらもあやしいものでした。</span></strong></span></p>
<p><span style="font-size: 16px;">思わずファイルを消去してしまいたくなりました。</span></p>
<p>しかし、そこを何とか堪え、この法話(？)を活かす方法を考えました。</p>
<p>それは、<span style="font-size: 14pt;"><strong>「ダメな法話の例」としてご紹介し、反面教師のような役割を狙う</strong></span>というもの。</p>
<p><span style="background-color: #ffffff; font-size: 16px;">今回の記事は、過去の自分が書いた</span>「黒歴史」とも呼べるほどの痛々しい内容の法話（？）をご紹介し、</p>
<p>そこに<span style="font-size: 14pt;"><strong>自分自身で講評を加えるという「ひとり相撲システム」</strong></span>でお送りしてまいります。</p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><strong>※　無駄に長い文章が続きます。すべてを丁寧に<span style="background-color: #ffffff;">読まれる方はそんなにいないとは思いますが、時間をなるべく無駄にしたくないという方は「講評（セルフ）」まで飛ばされることをお勧めいたします。</span></strong></span></p>
<h2>お蔵入り法話、その①</h2>
<p>本日は、健康のお話からさせていただきます。</p>
<p>初めに申しておきますと、いささかお下品な内容が含まれますので、<br />
聞くに耐えないと思われてしまう方もいらっしゃるかもしれません。</p>
<p>中には「あらやだ！聞いていられないわ！」と、<br />
出ていきたくなる人もいらっしゃるかもしれません。</p>
<p>基本的に、涙ですとか、ゲップですとか、体から出てくるものは、こらえない方が身体にも心にもいいものです。</p>
<p>しかしながら、聞き苦しい話に、皆さまの体が出ていきたくなっても、そこはグッとこらえて欲しいところです。</p>
<p>初めにお話いたしますのは、最近私の身に起きた出来事です。</p>
<p>人には節度、なんて言葉がございますが、私は生来、ついついやり過ぎてしまう、<br />
度を越えてしまうということが多くあります。</p>
<p>過ぎる、というのは大抵の場合、よくない結果を生みます。</p>
<p>私の体型をご覧いただければわかる通り、暴飲、暴食に始まり、<br />
ひとたびゲームやマンガに熱中すれば、夜明かしをしてしまうこともしばしば。</p>
<p>そうした不摂生のツケが、今こうしてメタボリックシンドロウムという形をとりまして、<br />
私を苛んでおるわけでございます。</p>
<p>あ、そうそう。勉強だけはやり過ぎたことはないですね<span>(</span>笑<span>)</span></p>
<p>そこだけはほどほどです。</p>
<p>まあ、そうした例外もありますが、実際に何事もやり過ぎはよくないものです。</p>
<p>そんな、「やり過ぎ」による失敗がつい先日もありました。</p>
<p>実はですね、私、いよいよもって年貢の納め時を実感いたしまして、不摂生に終止符を打ち、<br />
このメタボリックシンドロウムのボデーを何とかいたしましょう、と動き出しました。</p>
<p>食事のカロリーや、バランス、野菜の分量などに気を遣い、ささやかですが運動も始めました。</p>
<p>特定保健用食品こと、トクホも積極的に購入して、いよいよダイエットの大海原へと乗り出したわけです。</p>
<p>しかし、落とし穴は思わぬところに潜んでおりました。</p>
<p>ダイエットを始めて１週間もしないうちに、ひどい便秘になってしまったんです。</p>
<p>さらに、おなかにガスが溜まって動けなくなってしまうくらいの苦しみを味わいました。</p>
<p>これはおかしいぞ、と。</p>
<p>水分、ビタミン、ミネラル、食物繊維…。</p>
<p>お腹にいいものばかりをとっているはずなのに、どうしてこんなことになってしまったのか。</p>
<p>そう思い、自分の食べたものの何が原因だったのか、インターネットで調べてみたら、<br />
これじゃないか！と、思い当たるものがありました。</p>
<p>それが先に申しあげた、トクホ、特定保健用食品だったんです。</p>
<p>ダイエットを志して以来、私はなるべくトクホのドリンクを飲むようにしておりました。</p>
<p>脂肪の燃焼を助けるとか、食後の血糖値上昇を抑えるとか、いろいろな効用がありますが、<br />
その中で、私がしばしば口にしていたドリンクの成分表示を見てみますと、<br />
そこには食物繊維、とありました。</p>
<p>そう、恐らくですが、私の便秘の原因はこの食物繊維の取りすぎだったんです。</p>
<p>意外ですよね、私もそうでした。</p>
<p>しかし、インターネットを見たところ、食物繊維の種類によっては過剰摂取が腸内にガスを発生させ、<br />
お腹が張ることがある、と書いてあったんです。</p>
<p>その後、お腹のマッサージや食物繊維摂取を控えることで、事なきを得ました。</p>
<p>たとえ、良い、とされているものでも、やりすぎはいけないということです。</p>
<h2>お蔵入り法話、その②</h2>
<p>そして私が、思い通りにならない自分自身の便通になやまされ、<br />
トイレに腰掛け、ウンウンと唸りながら考えていたことがあります。</p>
<p>それは、人の生き死にです。</p>
<p>なんで、トイレをしながらそんなこと思うんだ、と感じる方もいらっしゃるかもしれません。</p>
<p>でも、よくよく考えてみると実は、トイレと生き死にってまったくの無関係ではありません。</p>
<p>私が何とかひねり出そうとしていたモノ、すなわち大便ですが、大便は死の固まりです。</p>
<p>私たちが口にしたもののなれの果てなわけですから、<br />
お肉にしてもお野菜にしても、それらいただいたものが出てきている。</p>
<p>しかし、実はそれだけではないんですね。</p>
<p>水分は除くとしても、大便の成分は７割以上が食べたものの残りかす以外なんです。</p>
<p>大便の成分の１つはビフィズス菌とか、大腸菌とか、腸内細菌の死骸です。</p>
<p>そしてもう１つは、私たちの腸の壁です。</p>
<p>私たちが食べたものから栄養を吸収してくれる腸の細胞の死骸が排泄されているわけです。</p>
<p>そうした様々な死の固まり、それが大便なんです。</p>
<p>私たちの周りには実に多くの死があります。</p>
<p>一度、この世に生まれたものは、その後、絶えず変化を続け、そしていずれは役目を終えてなくなってしまう。</p>
<p>仏教ではこの真理を、常なるものが無いと書いて、無常、諸行無常と言います。</p>
<p>私が高校生の時に、日本の古典を学んだ際にこの無常という言葉が出てきました。</p>
<p>実は、その時には、「無常＝死」と解釈すると教わりました。たとえばこんな風に使うわけです。</p>
<p>貴族社会で圧倒的な権力を持った人が、流行病であっけなく亡くなってしまった時に、<br />
「ひとたび無常がやってきたなら、貴族も平民も関係ない、この世はなんと儚いものよ。」こういった具合です。</p>
<p>ですから、私はそれ以来、無常と聞くと、なんとなく嫌なマイナスイメージを抱いておりました。</p>
<h2>お蔵入り法話、その③</h2>
<p>そもそも私は死ぬ、ということが幼い時から本当に恐ろしいと思っていました。</p>
<p>もう怖くて怖くて仕方がありませんでした。</p>
<p>死ぬことを恐れたことがない、という人は滅多にいないんじゃないかなあ、と思いますが、<br />
私は特にその恐れが強かったんじゃないかと思います。</p>
<p>初めて死ぬと言うことを意識したのは、曾祖母が亡くなった時です。</p>
<p>まだ物心がつくかつかないか、くらいの時でしたが、<br />
その時は「ふーん、もう会えないのかー」程度の認識だったように記憶しています。</p>
<p>それが、時が経って小学生になると、自我が強まり、それに伴って死がおそろしくなります。</p>
<p>死んで自分の意識が消えてなくなってしまう、という想像できない結末に、ただひたすら怯えていました。</p>
<p>とはいえ四六時中怯えているわけでもありません、ひとしきり怯えたら、いつしかその恐怖も薄れ、<br />
友達と遊んだり、ご飯を食べたりしているうちに忘れてしまいます。</p>
<p>しかし、忘れたからといって、いつか死んでしまうという事実がなくなるわけではありません。</p>
<p>ふとした拍子に、また思い出して恐ろしさに震えるということが度々ありました。</p>
<p>今でも覚えているのは、<span style="background-color: #ffffff; font-size: 16px;">私の</span><span style="font-size: 16px;">幼い頃、師匠である父が何の気なしに冗談で言った一言です。</span></p>
<p>「俺はな。大学生の時に『<span>20</span>年打ち』のツボを突かれたから、あと十年くらいで血を吐いて死ぬんだぞ」と。</p>
<p>北斗の拳でも読んだんですかね。</p>
<p>当時の私は子どもですし、それはもう信じました。</p>
<p>「え！？お父さんが死んじゃうなんて、そんなのいやだ！なんとか解除のツボを探そう！」<br />
そんな風に反応した気がします。</p>
<p>どうせ言った本人はすっかり忘れていることでしょうが、本当に死んでほしくないと思いました。</p>
<p>まあ、その時のみそぎではないですが、純真な子供の心を傷つけた罰として、<br />
これからもなるべく長生きしてもらって、馬車馬のように働いてほしいと思います。</p>
<p>……余計な話になってしまいました。</p>
<p>ともかく、子どもの頃から死を恐れていた私は、<br />
その恐怖から逃れるすべもないまま、成長し、大人になります。</p>
<p>そして死ぬことへの恐れが、そのまま無常という真理に対する嫌悪感になりました。</p>
<p>皆さんはドラゴンボールというマンガをご存知ですか。</p>
<p>「オッス、おら悟空」で有名なベストセラーです。</p>
<p>その漫画に登場するベジータ、フリーザという敵役はドラゴンボールの不思議な力で、<br />
不老不死になろうと目論みますが、私にはその気持ちがよくわかりました。</p>
<p>また古くは、中国の皇帝が不老不死の秘薬を求めたなんて事実もあります。</p>
<p>さらに言えば、現代においても、不治の病に侵された人が亡くなる直前に自分の脳みそを冷凍保存して、<br />
科学技術の発展した未来に生き返ろうとしたなんて話もあります。</p>
<p>私と同じように、とにかく、何とかして死から逃れたいと考えた人はいっぱいいたわけです。</p>
<p>しかしながら、人がいずれは死んでしまうという有り様が変わることはありません。</p>
<p>そう考えると、いくら一生懸命に生きたところでどこにも逃げ場がないように思え、<br />
私はいつしか無気力になっていきました。</p>
<p>頑張ったところで無駄だとか、今楽しいことだけやってればいいや、<br />
というような、どうしようもない考え方が強くなっていきました。</p>
<p>しかし、そんな考え方では、当然のことながら人生を楽しめるわけもありません。</p>
<p>無気力はさらなる無気力を呼び、気づけば、私は自分のことを、<br />
どうしようもない世の中に生きているどうしようもない人間、<br />
という風に考えてしまうようになりました。</p>
<p>無常から目を背け、自分をごまかしながらなんとなく日々を送っているそんな状態が長く続いていました。</p>
<h2>お蔵入り法話、その④</h2>
<p>しかし、そんな考え方が変わるきっかけがとうとう私にも訪れました。</p>
<p>それは無常をあつかった仏教の講義でした。</p>
<p>そこで無常は、死とか儚いという、これまで私が抱いてきたイメージ通りのものではなく、<br />
移り変わってゆく世界の姿そのものであると説かれました。</p>
<p>そして私にとって決定的だったのは、講師の先生が、<br />
「無常というと、死とか、老いとか、悪い方にとらえられがちだが、実際の姿は違う。<br />
この世が無常であるからこそ、人は成長もするし、新しい命の誕生に喜びを感じることさえあるんだ」<br />
と、教えてくださったことでした。</p>
<p>結局、私は無常という真理に対して、はじめに抱いてしまった嫌悪感にいつまでも囚われていた、と気付いたのです。</p>
<p>仏教の学びを深めていくにつれ、無常の中に生き、<br />
無常の中に生かされる人間のあり方を少しずつ受け入れていけるようになりました。</p>
<p>はじめに排泄物の話をしましたが、私たちの命は動物や植物、細菌、<br />
普段私たちが自分の身体の一部とさえ認識していない腸壁など、<br />
多くの無常なるものによって支えられています。</p>
<p>もちろん無常という真理は、時に残酷とも思えるほどの現実を私たちに突きつけます。</p>
<p>でもその一方で、移り変わる世界だからこそ得られる喜びを与えてくれることもあるのです。</p>
<p>楽しかったことが終わりを迎え、時に愛する人と別れて、<br />
「ああ……無常……」と悲嘆に暮れてしまうこともあれば、<br />
美しい朝焼けや新たな出会いに、「ああ！無常！」と感動できることもある、<br />
それは素晴らしい人間の営みだと言えるのではないでしょうか。</p>
<p>思えば、極端に自らの死を恐れていた私は、無常の真理の一側面しか見ていなかったのです。</p>
<p>絶えず変化を続けるこの世界の中で、自らも無常であると自覚し、その変化を受け入れていく。</p>
<p>そこには、当然死も含まれますが、それだけでない真実の営みに気付くこともできるでしょう。</p>
<p>そうなったとき、無常も死も恐れる対象ではなくなっていくのかもしれません。</p>
<p>それでは、以上で法話を終えさせていただきます。ご清聴ありがとうございました。</p>
<h2>講評（セルフ）</h2>
<p>・ところどころ無理に笑いを取りに行っている感じが痛々しい。</p>
<p>・「楽しませよう＞法を伝えよう」になってしまっていて、内容が上滑りしている。<br />
しかも面白く話せるかは疑問。</p>
<p>・まとめが強引かつ曖昧。</p>
<p>・全体的に<span style="font-size: 14pt;"><strong>冗長</strong></span>。起承転結の「承」が長すぎる。<span style="font-size: 14pt;"><strong>法話は例話を話すためのものではない。</strong></span></p>
<p>・諸行無常を肯定的に捉えられるようになった<span style="font-size: 14pt;"><span style="font-size: 12pt;">きっかけが<br />
</span><strong>「仏教の講義で学んだから」ではリアリティがなさすぎる。<br />
</strong></span>　自分自身は事実と感じているのかもしれないが、<strong>そう思えるようになった理由は他にもあるのでは</strong>ないか。</p>
<h2>おわりに</h2>
<p>いかがでしたでしょうか。</p>
<p>今回は世にも恥ずかしいお蔵入り法話を、人前でお話をされる皆様の悪い見本とするべく、ご紹介いたしました。</p>
<p>私はよく、回りくどい伝え方をしてしまうという悪いクセを持っているのですが、<br />
<span style="background-color: #ffffff; font-size: 16px;">特に</span><span style="font-size: 16px;">この法話ではそれが顕著に表れてしまった、と思います。</span></p>
<p>それでは、今回はこの辺で。</p>
<p>お目汚し失礼いたしました。</p>
<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>５分法話原稿「洗濯場のお菓子」</title>
		<link>https://zenkatsu.site/archives/7401</link>
					<comments>https://zenkatsu.site/archives/7401#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[深澤亮道]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 09 Sep 2021 22:24:59 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[コラム]]></category>
		<category><![CDATA[仏教]]></category>
		<category><![CDATA[懺悔]]></category>
		<category><![CDATA[法話]]></category>
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					<description><![CDATA[先週、9月2日にYouTubeで「【三人寄れば文殊の智慧？】イチから法話を作ってみよう！」という動画を配信させていただきました！ 3人で法話を作るという新たな試みでしたが、そこで話し合った法話を、改めて法話の動画として配信させていただきまし…]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script>
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<p>先週、9月2日にYouTubeで「<span>【三人寄れば文殊の智慧？】イチから法話を作ってみよう！」という動画を配信させていただきました！</span></p>
<p><iframe loading="lazy" width="560" height="315" src="https://www.youtube.com/embed/_5JVJKdJqVw" title="YouTube video player" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture" allowfullscreen="allowfullscreen"></iframe></p>
<p>3人で法話を作るという新たな試みでしたが、そこで話し合った法話を、改めて法話の動画として配信させていただきました。</p>
<p>今回の記事は、ここでお話した法話の原稿になります。</p>
<h2>起：「懺悔について」</h2>
<p>本日は、<strong>「洗濯場のお菓子」</strong>と題して、<span class="sc_marker red">仏教の懺悔について</span>お話しさせていただきます。</p>
<p>一般的には「懺悔（ざんげ）」と濁って発音すると思いますが、仏教では「懺悔（さんげ）」と言います。</p>
<p>他の宗教でも行われる「懺悔」ですが、仏教の「懺悔」とはどのようなものなのでしょうか？</p>
<h2>承：「洗濯場のお菓子」</h2>
<p>私は、今から１０年前に福井県にある曹洞宗大本山永平寺で修行を開始しました。</p>
<p>それまでの大学生活は自由奔放に暮らしていた私ですから、修行を始めた当初は生活に慣れるまで本当に辛く厳しい毎日でした。</p>
<p>中でも辛かったのが、<strong>寒さと空腹</strong>です。</p>
<p>防寒着や暖房機器が十分とは言えない修行道場では、岩手出身の私でも身に応える寒さでした。</p>
<p>食事は、<span class="sc_marker red">朝はお粥、昼は１汁１菜、夕飯は１汁２菜</span>と学生時代に比べて質素なものです。</p>
<p>そのためか、これまでの人生で感じたことの無いほどの空腹感、飢餓感を覚えました。</p>
<p>修行生活では、普段の食事の他に数日に１回、行茶と言って少しだけお菓子を食べられる時間がありました。</p>
<p>本来であれば幸せな時間なのですが、お菓子を前に私の目は血走っています。</p>
<p>少しのお菓子で満足できるはずもないのですが、この数日に１回のお菓子が楽しみでなんとか日々の修行生活を耐えていました。</p>
<p>そんな中、１人の修行仲間が仲のいい先輩修行僧からお菓子を隠れてもらったと言って、一緒に洗濯当番をしていた私にもこっそり分けてくれました。</p>
<p>内心、嬉しくてたまらなくて、今にも食べたい気持ちだったのですが、他の仲間が頑張っているところで申し訳ないと思い、食べることを躊躇しました。</p>
<p>しかし、そんな思いはあっという間に崩れ去ります。</p>
<p>その仲間が、私の前から立ち去った瞬間に<strong>私はお菓子の袋を開けて食べていました</strong>。</p>
<p>自分の食欲と感情が抑えられなかったのです。</p>
<p>一瞬の美味しさと満足感の後に、私に襲いかかってきたのは激しい後悔と悲しみでした。</p>
<p>今この瞬間にも同じく空腹に耐えている仲間がいるのにズルをしてしまった。</p>
<p>そんな思いが駆け巡りました。</p>
<p>私は、それまで食事やお菓子に対して欲深い方ではなく、修行道場でもなんとか耐えられるだろうと思っていたのですが、いざ修行をしてみると、少しでも自分が楽をしたい、お菓子１つでも他の人よりも多く食べたいという深い欲望があることに気づきました。</p>
<h2>転：「懺悔文」</h2>
<p>華厳経と呼ばれるお経の中に、懺悔文という短いお唱えごとがあります。</p>
<p>それは次のようなものです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>「我昔所造諸悪業　皆由無始貪瞋癡　従身口意之所生　一切我今皆懺悔」</strong></p>
<p>「私のこれまでの悪い行いは、全て、貪り、怒り、愚かさの三つの煩悩によるものです。</p>
<p>煩悩は常に私という人間に付き纏っているもので、それが身と口と心を通して悪い行いを生み出していきます。</p>
<p>その全てを私は懺悔して、正しい方向に心を向けていきます。」</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>私たちは、普段の生活で、もっとお金が欲しいとか、もっと美味しいものが食べたいなどの<strong>「貪り」</strong>。</p>
<p>それがまた思い通りにならないことや、他者に向けてあらわれる<strong>「瞋り（怒り）」</strong>。</p>
<p>そして、物事の真実を見失い、誤った考え方をしてしまう<strong>「愚かさ」</strong>。</p>
<p>この「貪り・怒り・愚かさ」の３つが煩悩の根本です。</p>
<p>この煩悩から、自分の体や心に悪い行いが生まれています。</p>
<p>仏教で説くところの懺悔とは、決して謝ることではありません。</p>
<p>まずは、自分自身に煩悩が湧いていくることを認め、それを悔い改めて正しく生きることを言います。</p>
<h2>結：「自分と煩悩」</h2>
<p>修行に行くまで欲が少ない人間だと思っていましたが、それは違いました。</p>
<p>修行時代に痛感させられたのは、環境次第でお菓子一つでも我慢できない弱さです。</p>
<p>しかし、それに気づいたことで、<span class="sc_marker red">私の本当の修行が始まったようにも思います</span>。</p>
<p>これはお寺での修行生活だけでなく、普段の社会生活の中でも気づくこともできます。</p>
<p>日々の生活で、自分の心がどの方向を向いているか。</p>
<p>気づいているようで気づいていない欲があると知ることが、仏教における懺悔の心のなのです。</p>
<p><iframe loading="lazy" width="560" height="315" src="https://www.youtube.com/embed/oveW0KdTr9w" title="YouTube video player" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture" allowfullscreen="allowfullscreen"></iframe><br />
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			</item>
		<item>
		<title>ラジオから学んだこと</title>
		<link>https://zenkatsu.site/archives/6772</link>
					<comments>https://zenkatsu.site/archives/6772#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[西田稔光]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 28 Jan 2021 15:49:06 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[コラム]]></category>
		<category><![CDATA[エンタメ]]></category>
		<category><![CDATA[法話]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://zenkatsu.site/?p=6772</guid>

					<description><![CDATA[スポンサードリンク ラジオが好きだ。 私の人生は、テレビよりもラジオを聴いてきた時間の方が長いかもしれない。 少なくとも、中学生以降は確実にテレビを見るよりラジオを聴いてきた。 今回は、私の大好きなラジオの魅力と、そこから学んだことについて…]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>スポンサードリンク<br />
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<p><span style="font-size: 14pt;">ラジオが好きだ。</span></p>
<p>私の人生は、テレビよりもラジオを聴いてきた時間の方が長いかもしれない。</p>
<p>少なくとも、中学生以降は確実にテレビを見るよりラジオを聴いてきた。</p>
<p>今回は、<span class="sc_marker red">私の大好きなラジオの魅力と、そこから学んだこと</span>についてお話ししたいと思います。</p>
<h2>ラジオとの出会い</h2>
<p>私のラジオとの出会いは中学生の頃。</p>
<p>当然、ラジオそのものは車で耳にすることもありました。</p>
<p>ただ、「この番組を聞こう!」と思って周波数を合わせ、MDコンポに張り付いたのは、中学の定期テストの勉強中が初めてでした。</p>
<p>テスト期間中、居間にしかテレビがなかった我が家では、親の目を避けてテレビを見ることは叶いませんでした。</p>
<p>そこで、携帯電話も持っていなかった当時、自分の部屋で触れることのできる唯一のメディアが、ラジオだったのです。</p>
<p>きっかけは、北関東を中心にネットするFM79.5MHz、NACK5で月〜金曜の21:00~23:00に放送していた<span class="sc_marker y">「The Nutty Radio Show鬼玉」</span>という番組でした。</p>
<p>パーソナリティーの<strong>バカボン鬼塚</strong>さんや<strong>玉川美沙</strong>さんと、ゲストやリスナーの掛け合いが面白く、コーナーのお便りをまとめた本まで出版された、長寿番組でした。</p>
<p>その後、受験などで「鬼玉」も終わった深夜まで起きているようになると、ここで次なる出会いがありました。</p>
<p>それはAM954MHz TBSラジオの<strong>「JUNK」</strong>でした。</p>
<p>月〜土曜日深夜1:00~3:00、各曜日を異なる芸人さんが担当するTBSラジオの超人気番組です。</p>
<p>私がこの時出会ったのが「<span style="color: #ff0000;"><strong>月曜JUNK 伊集院光深夜の馬鹿力</strong></span>」でした。</p>
<p>伊集院光さんといえば、当時の私には「クイズ番組でニコニコした大柄な男性タレント」という程度の認識でした。</p>
<p>しかし、JUNK聴いた伊集院さんは毒を吐き、下ネタを飛ばし、脱線しまくるしゃべりのモンスター。</p>
<p>タイトルコールをするまで、伊集院さんだとは気づかないほどのギャップがあったのです。</p>
<p><span class="sc_marker red">テレビでは聴けないような刺激的な話と、自分しか聴いていないような秘密基地感。</span></p>
<p>テレビが観られないから代わりに何か面白いラジオ番組ないか、という感じでチューニングしたが最後、見事にハマってしまったのです。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/01/835047_s-min.jpg" alt="" width="640" height="427" class="alignnone wp-image-6773 size-full" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/01/835047_s-min.jpg 640w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/01/835047_s-min-300x200.jpg 300w" sizes="(max-width: 640px) 100vw, 640px" /></p>
<h2>ラジオの魅力</h2>
<p>そんなラジオとの出会いから早十余年。</p>
<p>iPhoneやパソコンから常にラジオ番組を流し続けています。</p>
<p>今聴いている番組は</p>
<p><strong>・月曜JUNK伊集院光深夜の馬鹿力</strong><br />
<strong>・アルコ&amp;ピース D.C.GARAGE</strong><br />
<strong>・CreepyNutsのオールナイトニッポン0</strong><br />
<strong>・オードリーのオールナイトニッポン</strong></p>
<p>などが中心ですが、私のラジオの好みには傾向があることに、最近気付きました。</p>
<p>それは、パーソナリティーが<span class="sc_marker y"><strong>シンプルな話を遠回りして話すということ</strong></span>。</p>
<p>ある時、伊集院光さんはパンダの赤ちゃんが可愛かったというお話しを１時間近くされていました。</p>
<p>あるいは、オードリーの春日さんは旅行に行く話の1/3が出発前の家での話だったりします。</p>
<p><strong>テレビやYouTubeでは、エピソードはなるべく最短ルートで、ポイントのみを抑えて話すことが求められている</strong>ように私は感じます。</p>
<p>一方ラジオでは、<strong>映像がない分いかに聞き手が鮮明にその様子を想像し、感情移入するかということが求められるため、蛇足のような話すら、そのエピソードの重要な要素になっている</strong>のです。</p>
<p>実際に、私はその遠回りの部分に声を殺して笑ったり、イヤホンをしながら一人でニヤニヤしていました。</p>
<p>この、あえて遠回りしたエピソードを聴けることこそが、ラジオの魅力の一つだと、私は思います。<img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/01/2018054_s-min.jpg" alt="" width="640" height="407" class="alignnone wp-image-6777 size-full" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/01/2018054_s-min.jpg 640w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/01/2018054_s-min-300x191.jpg 300w" sizes="(max-width: 640px) 100vw, 640px" /></p>
<h2>法話に求められる「ラジオ感」</h2>
<p>私は、この<strong>遠回りは法話にも求められる要素である</strong>と感じています。</p>
<p>映像がメインとなった現代では、私たちは情景や人や物を思い浮かべながら話を聴く機会がずいぶん減ったと思います。</p>
<p>これはメディアに限らず、近しい人との会話でも、スマホさえあれば簡単に人の顔も景色も見せることができ、想像しながら話を聴くことも、想像させる話し方もあまりしなくなってしまっています。</p>
<p>ところが、法話は基本的に身一つですることが多く、あったとしてもホワイトボードくらいのものです。</p>
<p>ただ、私はこの形が法話の大切な要素であるような気がします。</p>
<p>法話は、<strong>聴いた方がその内容をご自身の人生と重ねていただくことの大きな意味があります</strong>。</p>
<p>そこで、例えば私が自分の祖父母の話をする時、顔の写真を見せながら話をした場合、それは聞き手にとって「西田稔光の祖父母の話」になります。</p>
<p>ところが写真などがないことで、聞き手は自然とご自身の祖父母像を重ねて想像するようになるはずです。</p>
<p>そうすることで、<span class="sc_marker y"><strong>私が仏教の教えを体感した話が、聞き手の人生と重なって、より仏教の教えが心に染みるものになるのではないか</strong></span>、と私は思います。</p>
<p>もちろん、それは下ネタや毒を吐くような形で、芸人さんと同じ遠回りの仕方をすればいいというわけでありません。</p>
<p>その時の情景や自分の心の動きを細かく思い浮かべ、より鮮明にイメージしていただけるような遠回りをすることです。</p>
<p>そんな、ある種のラジオ感が、今だからこそ法話には求められるのではないでしょうか。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/01/ca2721fecd0bb81aa6530ca394d602660_25642925_210129-min.jpg" alt="" width="1566" height="1046" class="alignnone wp-image-6774 size-full" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/01/ca2721fecd0bb81aa6530ca394d602660_25642925_210129-min.jpg 1566w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/01/ca2721fecd0bb81aa6530ca394d602660_25642925_210129-min-300x200.jpg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/01/ca2721fecd0bb81aa6530ca394d602660_25642925_210129-min-768x513.jpg 768w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/01/ca2721fecd0bb81aa6530ca394d602660_25642925_210129-min-1024x684.jpg 1024w" sizes="(max-width: 1566px) 100vw, 1566px" /></p>
<h2>まとめ</h2>
<p>インターネットが発達した今、私たち一般人にとってラジオは聴くだけでなく、放送することもできるものになりました。</p>
<p>見えないからこそ繰り広げられるその世界に、私は「話す」ということの奥深さを日々感じています。</p>
<p>スライドや映像を駆使するのもわかりやすくていいですが、法話ではそんなラジオらしさも大切にしていきたいですね！</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/01/名称未設定のアートワーク-8-min.jpg" alt="" width="1059" height="630" class="alignnone wp-image-6776 size-full" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/01/名称未設定のアートワーク-8-min.jpg 1059w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/01/名称未設定のアートワーク-8-min-300x178.jpg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/01/名称未設定のアートワーク-8-min-768x457.jpg 768w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/01/名称未設定のアートワーク-8-min-1024x609.jpg 1024w" sizes="(max-width: 1059px) 100vw, 1059px" /></p>
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