<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?><rss version="2.0"
	xmlns:content="http://purl.org/rss/1.0/modules/content/"
	xmlns:wfw="http://wellformedweb.org/CommentAPI/"
	xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/"
	xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom"
	xmlns:sy="http://purl.org/rss/1.0/modules/syndication/"
	xmlns:slash="http://purl.org/rss/1.0/modules/slash/"
	>

<channel>
	<title>諸行無常 - 禅活-zenkatsu-</title>
	<atom:link href="https://zenkatsu.site/archives/tag/%e8%ab%b8%e8%a1%8c%e7%84%a1%e5%b8%b8/feed" rel="self" type="application/rss+xml" />
	<link>https://zenkatsu.site</link>
	<description>禅を活かして、ちょっといい一日を</description>
	<lastBuildDate>Thu, 04 Aug 2022 13:03:55 +0000</lastBuildDate>
	<language>ja</language>
	<sy:updatePeriod>
	hourly	</sy:updatePeriod>
	<sy:updateFrequency>
	1	</sy:updateFrequency>
	<generator>https://wordpress.org/?v=5.8.9</generator>

<image>
	<url>https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2018/06/cropped--32x32.jpg</url>
	<title>諸行無常 - 禅活-zenkatsu-</title>
	<link>https://zenkatsu.site</link>
	<width>32</width>
	<height>32</height>
</image> 
<atom:link rel="hub" href="https://pubsubhubbub.appspot.com"/><atom:link rel="hub" href="https://pubsubhubbub.superfeedr.com"/><atom:link rel="hub" href="https://websubhub.com/hub"/>	<item>
		<title>「諸行無常＝儚い」ではないという話</title>
		<link>https://zenkatsu.site/archives/3013</link>
					<comments>https://zenkatsu.site/archives/3013#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[西田稔光]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 10 Sep 2019 15:00:42 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[コラム]]></category>
		<category><![CDATA[仏教]]></category>
		<category><![CDATA[曹洞宗]]></category>
		<category><![CDATA[永平寺]]></category>
		<category><![CDATA[諸行無常]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://zenkatsu.site/?p=3013</guid>

					<description><![CDATA[祇園精舎ぎおんしょうじゃの鐘の声　諸行無常しょぎょうむじょうの響ひびきあり。 沙羅双樹さらそうじゅの花の色　盛者必衰じょうしゃひっすいの理ことわりをあらはす。 法話や本などで、僧侶に使い古されたと言ってもいいくらい使われた『平家物語』の冒頭…]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><strong><em><ruby>祇園精舎<rt>ぎおんしょうじゃ</rt></ruby>の鐘の声　<ruby>諸行無常<rt>しょぎょうむじょう</rt></ruby>の<ruby>響<rt>ひびき</rt></ruby>あり。</em></strong></p>
<p><strong><em><ruby>沙羅双樹<rt>さらそうじゅ</rt></ruby>の花の色　<ruby>盛者必衰<rt>じょうしゃひっすい</rt></ruby>の<ruby>理<rt>ことわり</rt></ruby>をあらはす。</em></strong></p>
<p>法話や本などで、僧侶に使い古されたと言ってもいいくらい使われた<strong>『平家物語』</strong>の冒頭の一説。</p>
<p><strong>「諸行無常」</strong>という言葉は、<strong>仏教の根本であり大前提であり出発点でもある</strong>要チェックなワードです。</p>
<p>ただ、<strong>「仏教の根本」</strong>とか言われると、どうしても身近なものには感じにくいもの。</p>
<p>そこで今回は私が最近経験した「諸行無常」を振り返りながら、この言葉の本質を考えてみたいと思います。</p>
<h2>お釈迦様印の４つの証明</h2>
<p>インドでお釈迦様が説かれ、アジア、アメリカ、ヨーロッパと、世界中に広がっていく仏教。</p>
<p>しかし、これまで<strong><a href="https://zenkatsu.site/archives/tag/%e8%82%89%e3%82%92%e9%a3%9f%e3%81%b9%e3%82%8b%e3%81%a8%e3%81%84%e3%81%86%e3%81%93%e3%81%a8">【肉を食べるということ】</a></strong>などでも触れたように、<strong>仏教徒は国によって生活のスタイルや形式が大きく異なります。</strong></p>
<p>さらには宗派なども細分化され、日本の中ですらお互いの宗派の教えを全て把握している、という人はなかなかいないでしょう。</p>
<p>では、<strong>そこまで細分化されていきながら、各宗派各僧侶はどうやってお釈迦様が説かれた「仏教」を保ってきたのでしょうか。</strong></p>
<p>実は仏教には、そ<span class="sc_marker red"><strong>の教えがお釈迦様の教えに沿っているかを確認するための４つ、あるいは３つの証明があります。</strong></span></p>
<p>これは<span class="sc_marker red"><strong><ruby>四法印<rt>しほういん</rt></ruby></strong></span>、あるいは<span class="sc_marker red"><strong><ruby>三法印<rt>さんぼういん</rt></ruby></strong></span>と言って、<span class="sc_marker red"><strong>その教えが</strong><strong>これを満たしていれば仏教ですよという、いわばお釈迦様ブランドの認定印</strong></span>です。（４つでセットの説と３つでセットの説があるので）</p>
<p>その印のうちの一つが<span class="sc_marker red"><strong>「諸行無常」</strong></span>というわけです。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/09/ea9f13d9b9f398fb7b27ed41ba74afdb_s-min-300x200.jpg" alt="" width="300" height="200" class="alignnone size-medium wp-image-3022" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/09/ea9f13d9b9f398fb7b27ed41ba74afdb_s-min-300x200.jpg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/09/ea9f13d9b9f398fb7b27ed41ba74afdb_s-min.jpg 640w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>諸行無常とは？</h2>
<p>では、諸行無常とはどういう意味かというと、簡単に言えば<span class="sc_marker red"><strong>「あらゆる物事は移り変わる」</strong></span>ということ。</p>
<p>まあ、これだけ聞いても新鮮さはありませんよね。</p>
<p>このページをご覧になっている皆様はとっくにご存知のはずです。</p>
<p><strong>楽しかった時間が終わること</strong>、<strong>咲いた花が枯れること、人が亡くなること</strong>、そんな諸行無常を誰もが少なからず味わい、身を以って知っているからです。</p>
<p>ただ、冒頭で出した平家物語の一文の影響なのか、<span class="sc_marker red"><strong>日本では諸行無常は「儚さ」を表す言葉として使われることが多くあります。</strong></span></p>
<p>四季の移ろいの中で、花びらや木の葉が散っていく、あるいは海に日が沈んでいくような景色に対して「諸行無常」を感じるような感覚が、文学作品や和歌などからも見て取れます。</p>
<p>しかし、実はこれは<span class="sc_marker red"><strong>諸行無常のある一面に過ぎません</strong></span>。</p>
<p>諸行無常という言葉には、<strong>本当はもっと大きくて、人生のテーマともなる意味が含まれているのです。</strong></p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/09/a4c6828d97f14b2d02c6819e8ff767b3_s-min-300x200.jpg" alt="" width="300" height="200" class="alignnone size-medium wp-image-3020" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/09/a4c6828d97f14b2d02c6819e8ff767b3_s-min-300x200.jpg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/09/a4c6828d97f14b2d02c6819e8ff767b3_s-min.jpg 640w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>祖母と親友</h2>
<p>最近、<strong>93歳になる祖母</strong>が、貧血で入院をしたことで体力が落ち、いよいよ立つことができなくなりました。</p>
<p>トイレに行くことも難しくなり、以前は好きだったテレビやラジオにも興味を示しません。</p>
<p>食欲はあるものの、<span class="sc_marker red"><strong>一度の食事で食べる量は私が一口で食べられるくらいのごく少量</strong></span>。</p>
<p>これをゆっくりと噛みながら、少しずつ少しずつ飲み込むのです。</p>
<p>私が生まれた時からずっとそばにいた祖母が、今まさに目の前で老いていき、確実に命の灯が小さくなっていくのを肌で感じ、私はどんな言葉をかけるべきかわからなくなります。</p>
<p><span class="sc_marker red"><strong>そして、人間が年老いていくという光景は、自分がこうして文章を書くのさえ無駄な気がしてしまうくらい、私の心に影を落としました。</strong></span></p>
<p>そんな中、一年ぶりに親友とその奥さんと会う機会がありました。</p>
<p><strong>奥さんは妊娠中で、出産予定日をすでに5日過ぎ、いつ生まれるかわからない状態で、お腹に触れるとコルセットをしているかと思うくらいパンパンに張っていました。</strong></p>
<p>久しぶりの再会で話も弾み、私は終電で帰宅。</p>
<p>家に着いてお風呂に入ったり翌日の準備を済ませて床に就こうとした深夜２時過ぎ、親友からLINEのメッセージが。</p>
<p><span class="sc_marker red"><strong>「破水したから病院行ってくる！！」</strong></span></p>
<p>二人と別れて3時間後の出来事です。</p>
<p>驚きと共に二人にエールを送り、眠りについた私が６時頃に目を覚ますと、LINEに「生まれた！」という一言と共に赤ちゃんの写真が届いていました。</p>
<p><span class="sc_marker red"><strong>私が会った６時間後、新たな生命が無事にこの世に生を受けていたのです。</strong></span></p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/09/c2fbb3e20d8f37e7da55111948326ea1_s-min-300x199.jpg" alt="" width="300" height="199" class="alignnone size-medium wp-image-3021" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/09/c2fbb3e20d8f37e7da55111948326ea1_s-min-300x199.jpg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/09/c2fbb3e20d8f37e7da55111948326ea1_s-min.jpg 640w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>諸行無常をどう受け止めるか</h2>
<p><strong><span class="sc_marker red">体が弱り、命の灯が弱まっている祖母</span>と、<span class="sc_marker red">この世に生を受け、今まさに命の小さな灯がともった赤ちゃん</span>。</strong></p>
<p>この二人の命は、私に改めて<strong>諸行無常とはどういうことか</strong>を教えてくれています。</p>
<p><strong>花が枯れることも諸行無常。</strong></p>
<p><strong>しかし花が咲くこともまた、諸行無常です。</strong></p>
<p>人間がそれを見て嬉しいとか悲しいとかは関係なく、とにかく<strong>「物事が移ろいゆくこと」。</strong></p>
<p>これが諸行無常というこの世界の法則なのです。</p>
<p>そして何より忘れてはならないのが、<span class="sc_marker red"><strong>今こうして文章を読んでいるあなたも、書いている私自身も諸行無常であるということです。</strong></span></p>
<p>どれだけ真面目に生きてこようとも、次の瞬間の行動一つで犯罪者になることだってできます。</p>
<p>逆に、過去に犯してしまった過ちも、次の瞬間の行動一つで償えるか同じことを繰り返すかが変わってきます。</p>
<p><strong>私たちの命は常に諸行無常という法則の中で、常に変化し続けています。</strong></p>
<p>そこで、<span class="sc_marker red"><strong>そんな人生なら良い方に変わり続けていこうじゃないかというのが、仏教の示した生き方です。</strong></span></p>
<p>曹洞宗の大本山永平寺を開かれた<strong>道元禅師</strong>は<span class="sc_marker red"><strong>『学道用心集』</strong></span>という書物の中でこのように仰っています。</p>
<blockquote><p><strong><em>誠に其れ無常を観ずるの時、<ruby>吾我<rt>ごが</rt></ruby>の心生ぜず、<ruby>名利<rt>みょうり</rt></ruby>の念起こらず、<ruby>時光<rt>じこう</rt></ruby>の<ruby>太<rt>はなは</rt></ruby>だ速やかなることを<ruby>恐怖<rt>くふ</rt></ruby>す、<ruby>所以<rt>ゆえ</rt></ruby>に<ruby>行道<rt>ぎょうどう</rt></ruby>は<rubu>頭燃<rt>ずねん</rt>を救う。</rubu></em></strong></p>
<div class="blockquote_ref">
<div><strong>『学道用心集』ー菩提心を発すべきこと</strong></div>
</div>
</blockquote>
<p><strong>本当に人が無常を知った時、自己中心的な心や、富や名声を求める思いは起こらず、ただ時がすぎる速さに恐怖する。それゆえに修行は頭に点いた火を払うように必死に励むのだ。</strong>（西田私訳）</p>
<p>諸行無常なこの命を、<strong>自分の欲を満たすためだけに生きて、自分の死とともに全て失うか</strong>、<strong>他者との関わりの中で自他の幸福のために生きるか</strong>は、私たち一人一人にかかっています。</p>
<p>諸行無常という言葉は単に儚い、悲しい、もしくは美しい、嬉しいという感情を表す言葉ではなく、<span class="sc_marker red"><strong>変化し続けるこの命を、あなたはどう生きますか？という問いかけでもあるのです。</strong></span></p>
<p>仏教の根本的な考え方の一つ「諸行無常」。</p>
<p>これをどう受け止めるかで、仏教の見え方が大きく変わってくるはずです。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/09/8cd090a945d6a6d3b3107eb28265711f_s-min-300x200.jpg" alt="" width="300" height="200" class="alignnone size-medium wp-image-3023" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/09/8cd090a945d6a6d3b3107eb28265711f_s-min-300x200.jpg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/09/8cd090a945d6a6d3b3107eb28265711f_s-min.jpg 640w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
]]></content:encoded>
					
					<wfw:commentRss>https://zenkatsu.site/archives/3013/feed</wfw:commentRss>
			<slash:comments>0</slash:comments>
		
		
			</item>
		<item>
		<title>なぜお葬式をするのか〜遺族としての経験から考える〜vol.2</title>
		<link>https://zenkatsu.site/archives/2210</link>
					<comments>https://zenkatsu.site/archives/2210#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[西田稔光]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 17 Jul 2019 14:52:47 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[コラム]]></category>
		<category><![CDATA[お経]]></category>
		<category><![CDATA[仏教]]></category>
		<category><![CDATA[仏教の行事]]></category>
		<category><![CDATA[曹洞宗]]></category>
		<category><![CDATA[諸行無常]]></category>
		<category><![CDATA[連載]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://zenkatsu.site/?p=2210</guid>

					<description><![CDATA[「なぜお葬式をするのか」。 僧侶である私が、あえて遺族としての経験からその理由を考えるこちらのコラム。 前回は祖父のお葬式の前の枕経と納棺の中で私に起こった心境の変化について書きました。 今回は私自身が葬儀の中で経験した「別れの形」を振り返…]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><span class="sc_marker red"><strong>「なぜお葬式をするのか」。</strong></span></p>
<p>僧侶である私が、あえて遺族としての経験からその理由を考えるこちらのコラム。</p>
<p>前回は祖父のお葬式の前の枕経と納棺の中で私に起こった心境の変化について書きました。</p>
<div class="sc_getpost"><a class="clearfix" href="https://zenkatsu.site/archives/2061" ><div class="sc_getpost_thumb post-box-thumbnail__wrap"><img src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/07/76b6799c8f020f308cb7eb5ba2e9490a_s_Fotor-min-150x150.jpg" width="150" height="150" alt="なぜお葬式をするのか〜遺族としての経験から考える〜vol.2"></div><div class="title">なぜお葬式をするのか〜遺族としての経験から考える〜vol.1</div><div class="date">2019.7.16</div><div class="substr">近年注目を集め、今も話題の絶えない「終活」。 禅活-zenkatsu-は坐禅や精進料理を中心とした活動を続けていますが、メンバー全員が週末には葬儀や法事に携わっています。 葬儀や法事と言っても現在は形態が多様化し、遺族や故人の様々なニーズに応えられるようなものが数多くあります。 一方では地域によって...</div></a></div>
<p>今回は私自身が葬儀の中で経験した「別れの形」を振り返ります。</p>
<h2>僧侶のお葬式</h2>
<p>現在は、一般の方は斎場でお葬式をすることが多くなりましたが、僧侶の場合は今でもお寺で行います。</p>
<p>ご縁のあった寺院のご住職様をはじめ、教員だった祖父には学校関係などからもたくさんの方がご参列くださり、私の想像をはるかに超える多くの方々とのつながりを知りました。</p>
<p>生前には知ることのなかった<span class="sc_marker red"><strong>故人とたくさんの方々のご縁を知ることも、お葬式の大切な要素であるような気がします。</strong></span></p>
<p>また、私もその時に知ったことなのですが、<strong>僧侶のお葬式は弟子が勤めることはできません</strong>。</p>
<p>つまり<strong>父親が師匠の場合は弟子である子は自分で送ることができないのです。</strong></p>
<p>今になってみれば、お葬式は亡くなった方を導き送り出す儀式なので、弟子が勤められないのは当然なのですが、当時はどこか残念な気がしました。</p>
<p>いくら師匠とはいえ、自分が送り出すことが父親への恩返しになるような気がしたからです。</p>
<p>私は当時「お父さんは今どんな気持ちでいるんだろう」と思いながら父を見ていました。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/07/113d5ed7b9224ab6f1e0df14c3e2338c_s-min-300x200.jpg" alt="" width="300" height="200" class="alignnone size-medium wp-image-2217" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/07/113d5ed7b9224ab6f1e0df14c3e2338c_s-min-300x200.jpg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/07/113d5ed7b9224ab6f1e0df14c3e2338c_s-min.jpg 640w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>涙を見せなかったワケ</h2>
<p>しかし、その時の父の気持ちが、私には全く読み取れませんでした。</p>
<p>お手伝いに来てくれた地域のお寺の皆さまや遠方から駆けつけてくれた方々に挨拶をしたり、お葬式の段取りをまとめたりと、休みなしで動き続け、<strong>涙一つ見せない父の姿に悲しみが見えてこなかったのです。</strong></p>
<p>私は、父はたくさんのお葬式に関わる中で死に慣れてしまったのではないかと、不安になりました。</p>
<p>そこで父の弟であり、僧侶でもある叔父に<span class="sc_marker red"><strong>「お父さんは悲しくないのかな？」</strong></span>と聞いてみました。</p>
<p>すると叔父からは<span class="sc_marker red"><strong>「そりゃ悲しいさ。あれでかなり頑張ってるんだよ。」</strong></span>という答えが返ってきました。</p>
<p>そうなのかなあと、少し納得がいかないながらも、私は再び動き回る父に視線を戻したのでした。</p>
<h3>告別式で</h3>
<p>当時の私はろくにお経も読めない状態でお葬式に参加したので、その時にどんなことをして、それがどんな儀式だったのかは覚えていません。</p>
<p>しかし、今でもはっきり覚えている場面があります。</p>
<p>それは葬儀も終わり、告別式でのこと。</p>
<p>父は遺族を代表して、ご参列いただいた方への最後の挨拶を述べます。</p>
<p>人前で話す機会の多い私の父は、いつも通り原稿もなくスラスラと挨拶をします。</p>
<p>しかし、祖父との過去を振り返ったところで<span class="sc_marker red"><strong>声が震え、わずかに沈黙したのです</strong></span>。</p>
<p>ほんの数秒の沈黙の後は、最初と変わらない様子で言葉が続きました。</p>
<p>私はこの時、父は悲しかったのではなく、それ以上に大切にしたことがあったことに気づきました。</p>
<p>それは祖父との間で築いてきた<span class="sc_marker red"><strong>師弟という関係</strong></span>です。</p>
<p>私の祖父はお寺に生まれたわけではなく、様々な不条理や苦労の果てに僧侶となった人でした。</p>
<p>それだけに、<strong>僧侶として生きることをとても大切にしていました。</strong></p>
<p>そんな<span class="sc_marker red"><strong>祖父を送り出すところに必要なのは涙ではなかったのです。</strong></span></p>
<p>僧侶として、<strong>感情ではなく仏教の教えの中で毅然とした態度で送り出すこと、それが父から祖父への最大の恩返しの形だったのです。</strong></p>
<p>この時の<strong>祖父と父の師弟としての関係性は、私の仏教の原体験であり、その道を志すきっかけにもなりました。</strong></p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/07/IMG_6108-min-300x225.jpg" alt="" width="300" height="225" class="alignnone size-medium wp-image-2216" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/07/IMG_6108-min-300x225.jpg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/07/IMG_6108-min-768x576.jpg 768w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/07/IMG_6108-min-1024x768.jpg 1024w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>「最後の説法」をどう受け止めるか</h2>
<p>祖父のお葬式が終わって数日後、大学でお世話になっていた先生が、私の事情を知って飲みに連れていってくださいました。</p>
<p>その先生は当時まだ30代で、私にとっては先生というより頼れる先輩のような方でした。</p>
<p>入った居酒屋で先生は言います。</p>
<p><span class="sc_marker red" style="font-size: 14pt;"><strong>「死っていうのはね、その人の最後の説法なんだよ。」</strong></span></p>
<p>とおっしゃいます。</p>
<p>その時知ったのですが、<strong>先生自身も様々な辛い別れを経て、仏教を学んでいるとのことでした</strong>。</p>
<h3>遺教経と人の死</h3>
<p>当時は知らなかったのですが、先生の言った<strong>「人の死は最後の説法」という言葉は、実は仏教の死に対する向き合い方でした。</strong></p>
<p>曹洞宗ではお通夜で<strong>「<ruby>佛垂般涅槃略説教誡経<rt>ぶっしはつねはんりゃくせつきょうかいきょう</rt></ruby>」</strong>通称<span class="sc_marker red"><strong>「<ruby>遺教経<rt>ゆいきょうぎょう</rt></ruby>」</strong></span>というお経を読みます。</p>
<p>これは仏教を説いた<span class="sc_marker red"><strong>お釈迦様が亡くなる様子を描いたお経</strong></span>です。</p>
<p>実は、お通夜というのは、このお経で描かれる<strong>お釈迦様が亡くなった時の様子を再現した儀式</strong>です。</p>
<p>「遺教経」にはこんな描写があります。</p>
<p>体調を崩し、死が近づいたお釈迦様は、周りで心配をする弟子たちに<strong>「何か聞いておきたいことはないか？」</strong>と問いかけます。</p>
<p>しかし、まだお釈迦様の死を受け入れられず沈黙する弟子たちに、お釈迦様は自分がいなくなってからはこう生きなさいと、道しるべを示します。</p>
<p>そして最後に、お釈迦様は<strong>「これが私の最後の説法だから、よく見ておきなさい」</strong>と言い残し、ついに息を引き取りました。</p>
<p>お釈迦様の死は、<span class="sc_marker red"><strong>残される弟子たちにこの世が無常であることを伝える最後の説法だったのです。</strong></span></p>
<p>また、このお経の中には描かれていませんが、一番近くでお釈迦様に仕えてきた<ruby>阿難<rt>あなん</rt></ruby>尊者というお弟子さんが悲しみうろたえる様子を見て、お釈迦様はこう諭します。</p>
<p><span class="sc_marker red"><strong>「阿難よ、汝が信じ、頼るべきは私のこの身体ではなく教えです。悲しむのをやめなさい。」</strong></span></p>
<p>消えてしまった肉体ではなく、<span class="sc_marker red"><strong>故人が残してくれた教えや意志を受け継いでいくこと</strong></span>、これが仏教の死との向き合い方なのです。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/07/68551893a99e4162112dc186dc0c830e_s-min-300x169.jpg" alt="" width="300" height="169" class="alignnone size-medium wp-image-2219" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/07/68551893a99e4162112dc186dc0c830e_s-min-300x169.jpg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/07/68551893a99e4162112dc186dc0c830e_s-min.jpg 640w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>「良い別れ」となるお葬式を目指して</h2>
<p>私がまだ何もわからない頃に立ち会った祖父のお葬式は、時間が経つと共に今でも新たな気づきをくれます。</p>
<p><strong>初めは実感がなくて、そのあとに悲しさが追いついてきました。</strong></p>
<p><strong>そして葬儀によって僧侶の師弟関係の在り方を知りました。</strong></p>
<p>それから、<span class="sc_marker red"><strong>祖父との思い出を振り返ると、実はちょっとした考え方や物事に対する姿勢といったことまで、本当に多くのことを教えられていたことに気づくのです。</strong></span></p>
<p><strong>時が経つにつれて、温もりや声や匂いは遠くへいってしまいます。</strong></p>
<p>しかし一方で、<span class="sc_marker red"><strong>「じいちゃんが見てたらなんて言うかな」と思えば自然と正しい方向へ身体が向かうようになります。</strong></span></p>
<p><strong>生きている時とは違った形で、<span class="sc_marker red">自分を正しい方向導いてくれる存在</span>へと変わっていくのです。</strong></p>
<p><span class="sc_marker red"><strong>常に自分の心のどこかにいて、迷った時には正しい方向へ導いてくれる存在になること、これこそが仏様に成るということだと、私は思います。</strong></span></p>
<p>人は、死によって<strong>「終わる」</strong>のではなく<strong>「変わる」</strong>のかもしれません。</p>
<p><span class="sc_marker red"><strong>生きていた頃とは違う関係を結び直し、ピリオドではなくターニングポイントしていくということ。</strong></span></p>
<p>そこにお葬式の意義あるのはないでしょうか。</p>
<p>私が経験したお葬式は、自分にとって「良い別れ」となり、今の自分を支える大きな柱になっています。</p>
<p>今後も多様化していくであろうお葬式。</p>
<p>自分の感覚を人に押し付けることはできませんが、私にとって意義があったということを、これからも大切にしていきたいと思っています。</p>
<div id="attachment_2220" style="width: 310px" class="wp-caption alignnone"><img aria-describedby="caption-attachment-2220" loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/07/IMG_0356_Fotor-min-300x225.jpg" alt="" width="300" height="225" class="size-medium wp-image-2220" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/07/IMG_0356_Fotor-min-300x225.jpg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/07/IMG_0356_Fotor-min-768x576.jpg 768w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/07/IMG_0356_Fotor-min-1024x768.jpg 1024w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/07/IMG_0356_Fotor-min.jpg 1936w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /><p id="caption-attachment-2220" class="wp-caption-text">祖父が境内に残した句碑</p></div>
]]></content:encoded>
					
					<wfw:commentRss>https://zenkatsu.site/archives/2210/feed</wfw:commentRss>
			<slash:comments>0</slash:comments>
		
		
			</item>
		<item>
		<title>「おれの頃は〜」と言う人の心を仏教的に考えてみた</title>
		<link>https://zenkatsu.site/archives/1929</link>
					<comments>https://zenkatsu.site/archives/1929#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[西田稔光]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 19 Jun 2019 15:25:17 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[コラム]]></category>
		<category><![CDATA[仏教]]></category>
		<category><![CDATA[諸行無常]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://zenkatsu.site/?p=1929</guid>

					<description><![CDATA[スポンサードリンク 私は平成３年生まれのいわゆる「ゆとり世代」。 小学校が土曜日も全休みになったのが、確か小学校中学年の頃だったでしょうか。 私がいる僧侶の世界は一般企業に比べて年齢層の幅がとても広い世界です。 お寺の息子さんで小学生の頃か…]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>スポンサードリンク</p>
<script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script>
		<ins class="adsbygoogle"
     		style="display:inline-block;width:310px;height:280px"
     		data-ad-client="ca-pub-2669743989558143"
     		data-ad-slot="8855209824"></ins>
		<script>
		(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
		</script>
<p>私は平成３年生まれのいわゆる<strong><span class="sc_marker red">「ゆとり世代」</span></strong>。</p>
<p>小学校が土曜日も全休みになったのが、確か小学校中学年の頃だったでしょうか。</p>
<p>私がいる僧侶の世界は一般企業に比べて年齢層の幅がとても広い世界です。</p>
<p>お寺の息子さんで小学生の頃からお経を読んでお盆のお手伝いをしている子もいれば、かなりお年を召しているにも関わらずバリバリお葬式や庭掃除をする方もいらっしゃいます。</p>
<p>極端な話、<strong>還暦からが本番</strong>といってもいいくらい、若い僧侶からご老僧までそれぞれの立場でちゃんと役割があって、なかなか引退ということができない世界でもあります。</p>
<p>そうなると大変なのが<strong>世代間ギャップ</strong>です。</p>
<p>それも、我々ゆとり世代の僧侶と団塊の世代の僧侶のギャップは凄まじいものがあります。</p>
<p>そこでよく言われるのが<span style="font-size: 18pt;" class="sc_marker red"><strong>「おれの若い頃はもっと違ったけどな〜」</strong></span>です。</p>
<p>必ずしも否定的な意味で使われるわけではありませんが、多くはがっかりしたようなニュアンスで、ため息混じりに言われるのです。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/06/publicdomainq-0011546zcj-min-193x300.jpg" alt="" width="193" height="300" class="alignnone size-medium wp-image-1939" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/06/publicdomainq-0011546zcj-min-193x300.jpg 193w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/06/publicdomainq-0011546zcj-min.jpg 451w" sizes="(max-width: 193px) 100vw, 193px" /></p>
<h2>ゆとられた覚えはないけれど世代</h2>
<p>すごく、本当にすごく正直なところ、そんなことを言われても<strong>「そうですか」</strong>としか言えませんよね。</p>
<p>こちらは運動を起こしてゆとりを勝ち取ったわけでもなければ、なんならどれがゆとり教育だったのかすら自覚はないんですから。</p>
<p>ゆとられた覚えはないのに「ゆとり世代」と一括りにされ、挫折や弱音も世代のせいにされるのは、決して良い気分ではありませんでした。</p>
<p>ところが最近、私の中に変化がありました。</p>
<p>それは永平寺から帰ってきて、どこに行っても最年少だったのが、少しずつ後輩ができてきた最近のこと。</p>
<p><span class="sc_marker red"><strong>ふと気づけば「おれの時は〜」と口にしてしまっている自分がいるのです。</strong></span></p>
<p>ああ、今は偶然自覚できたけど、<strong>無意識のうちに「あの頃」を語るおじさんになっていくんだな</strong>、とどこか切ない気持ちになりました。</p>
<p>いや、待てよ…。</p>
<p>今なら「あの頃は〜」と言う人の気持ちが少しはわかるんじゃないか？そう思いました。</p>
<p>そこで、仏教の視点から「あの頃は〜」という人の気持ちを考えてみることにしました。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/06/bab96f91608f7af78b8c0872f3891f0d_s_Fotor-min-1-300x225.jpg" alt="" width="300" height="225" class="alignnone size-medium wp-image-1938" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/06/bab96f91608f7af78b8c0872f3891f0d_s_Fotor-min-1-300x225.jpg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/06/bab96f91608f7af78b8c0872f3891f0d_s_Fotor-min-1.jpg 640w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>「おれらの若い頃は〜」の深層心理</h2>
<h3>状況分析</h3>
<p>まず私が「おれの頃は〜」と言った状況をよく考えてみます。</p>
<p>相手は後輩。</p>
<p>そして後輩は自分が一度経験した課題を今やっている。</p>
<p>それも、<span class="sc_marker red"><strong>新しいやり方で</strong></span>。</p>
<p>この、<span style="text-decoration: underline;">自分の時と違うやり方をしている、</span>というのは大きな要因なのではないでしょうか。</p>
<p>例えば、通信手段や、飲食店の種類、学校の勉強、飲み会の付き合いや飲み方。</p>
<p>こうした、<strong><span class="sc_marker red">自分が経験した、もののやり方や向き合い方が変わっている時</span></strong>に、つい「おれの頃は〜」と言いたくなるのかもしれません。</p>
<h3>思い出と懐かしさと</h3>
<p>私たちは誰もが思い出をもち、その思い出はなるべく綺麗なもの、誇れるものでありたいと大切にしています。</p>
<p>特に大変な思いをして達成した成功や成績、乗り越えた試練の数々は、思い出の中で永久保存版として保管されています。</p>
<p>しかし、時の流れは残酷で、当時は必要だからと言われて大変な思いで身につけたことや、耐えてきた理不尽が、次の若者には引き継がれていないとなったらどうでしょうか？</p>
<p><span class="sc_marker red"><strong>「あれは無駄だった」と思うのが一番怖いでしょう。</strong></span></p>
<p>その次には<span class="sc_marker red"><strong>その良さを知って欲しいという思いもあるかもしれません</strong>。</span></p>
<p>とにかく、<strong>当時の自分が大切であるほど</strong>つい「あの頃」語りが出てしまうのです。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/06/6d8228d16950c62637141cd09dc257cf_s-min-300x225.jpg" alt="" width="300" height="225" class="alignnone size-medium wp-image-1935" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/06/6d8228d16950c62637141cd09dc257cf_s-min-300x225.jpg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/06/6d8228d16950c62637141cd09dc257cf_s-min.jpg 640w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h3>仏教から考える深層心理</h3>
<p>では、「あの頃」という言葉が出る時、自分の中でどのような心の動きがあるのでしょうか。</p>
<p>実は、これは仏教のとても基本的な教えの部分です。</p>
<p>まずは<strong><span class="sc_marker red">諸行無常</span></strong>という現実があります。</p>
<p><span style="text-decoration: underline;">あらゆる物事は移ろいゆく</span>というこの世の道理で、これによって生まれるのが<span class="sc_marker red"><strong>「苦」</strong></span>です。</p>
<p><span class="sc_marker red"><strong>四苦八苦</strong></span>という言葉がありますが、これは人間が出会う８つの「苦」のことです。</p>
<p>「<ruby>生苦<rt>しょうく</rt></ruby>」「<ruby>老苦<rt>ろうく</rt></ruby>」「<ruby>病苦<rt>びょうく</rt></ruby>」「<ruby>死苦<rt>しく</rt></ruby>」「<ruby>愛別離苦<rt>あいべつりく</rt></ruby>」「<ruby>怨憎会苦<rt>おんぞうえく</rt></ruby>」「<ruby>五蘊盛苦<rt>ごうんじょうく</rt></ruby>」「<ruby>求不得苦<rt>ぐふとくく</rt></ruby>」のうち、四苦という時は前の４つ、八苦という時はこの８つのことを言います。</p>
<p>そして「あの頃」という言葉を口にする時、心が直面しているのはこのうちの<span class="sc_marker red"><strong>「愛別離苦」</strong></span>なのではないかと思います。</p>
<p>愛着があるものが別離する苦が「愛別離苦」です。</p>
<p>ここで「苦」を苦しいとしてしまうと「愛着があるものと別離するのは苦しい」ということで、ウンウン、わかるわかると共感だけで終わってしまいます。</p>
<p>しかし、この<span class="sc_marker red"><strong>「苦」という言葉をちゃんとインドの言葉までたどると<span style="font-size: 14pt;">「思い通りにならない」</span>という意味がある</strong></span>のです。</p>
<p>つまり、「愛別離苦」とは<strong><span class="sc_marker red">「愛着があるものが別離するのは思い通りならない」</span></strong>ということなんですね。</p>
<p>つまり、自分より年下の人に「あの頃は〜」と言っていしまう時は、教訓や親切心と一緒に、<span class="sc_marker red"><strong>自分が愛した環境やシステムや状況が変わり、なくなってしまうことに対する切なさが含まれているのではないでしょうか。</strong></span></p>
<p><strong>自分が学生時代に住んでいたアパートが取り壊された時の、当時の自分の面影まで消え去っていくような喪失感。</strong></p>
<p>これが「おれの頃は〜」のに含まれる成分のような気がします。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/06/53854da3356988dc283d1ce9ccedbb8a_s-min-300x225.jpg" alt="" width="300" height="225" class="alignnone size-medium wp-image-1936" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/06/53854da3356988dc283d1ce9ccedbb8a_s-min-300x225.jpg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/06/53854da3356988dc283d1ce9ccedbb8a_s-min.jpg 640w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>巡り巡る「あの頃」語り</h2>
<p>私は、自分の世代に対して自分の若い頃の話を延々とする年上が嫌いでした。</p>
<p>それは、<strong>「おれらと比べてお前らはだめ。おれらみたいになれ」と押し付けられている気がした</strong>からです。</p>
<p>しかし、その根底には、<strong>「あの頃はこんな思いをしたんだけど、それももう必要ないなんてなあ、寂しいなあ。」</strong>という本音が隠れていることもあるのかもしれません。</p>
<p>仮に、本当に怒りながらそれを押し付けてきたとしても、実はその人も<span class="sc_marker red"><strong>愛別離苦に悩まされているのです。</strong></span></p>
<p>諸行無常を受け入れるというのは、頭ではわかってもなかなか難しいことです。</p>
<p>もちろん、「温故知新」という言葉があるように<strong>先人たちの知恵や経験には学ぶことがたくさんあります</strong>。</p>
<p>我々僧侶の世界なんてその最たるもので、<strong>仏教という秘伝のタレをずーっと継ぎ足してきた</strong>からここまで残っています。</p>
<p>ただ、その言葉の中には、時が経って世の中が変わり、思い出がセピア色になっていくことへの切なさがあることもわかっておくと良いかもしれません。</p>
<p>良いところは吸収、悪いところは反面教師にして、実りがあれば最高です。</p>
<p>最初から、「うわ始まったよ…」と思わず、一旦聞いておきましょう。</p>
<p>なぜなら、<strong>私たちゆとり世代も<span class="sc_marker red">なんだかんだ「あの頃」を語る日がくるんですから</span>。</strong></p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/06/53854da3356988dc283d1ce9ccedbb8a_s-min-300x225.jpg" alt="" width="300" height="225" class="alignnone size-medium wp-image-1936" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/06/53854da3356988dc283d1ce9ccedbb8a_s-min-300x225.jpg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/06/53854da3356988dc283d1ce9ccedbb8a_s-min.jpg 640w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
					
					<wfw:commentRss>https://zenkatsu.site/archives/1929/feed</wfw:commentRss>
			<slash:comments>0</slash:comments>
		
		
			</item>
		<item>
		<title>棟梁さんのお話</title>
		<link>https://zenkatsu.site/archives/129</link>
					<comments>https://zenkatsu.site/archives/129#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[西田稔光]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 09 Jul 2018 04:11:03 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[コラム]]></category>
		<category><![CDATA[諸行無常]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://zenkatsu.site/?p=129</guid>

					<description><![CDATA[スポンサードリンク &#160; 諸行無常ー。 これは仏教が説かれる際の大前提となる物事の捉え方です。 あらゆる存在は必ず何かしらの変化をしていくということー。 じゃあその上でどう生きるべきか、というのがお釈迦様の説いた教えです。 今回はこ…]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>スポンサードリンク</p>
<script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script>
		<ins class="adsbygoogle"
     		style="display:inline-block;width:310px;height:280px"
     		data-ad-client="ca-pub-2669743989558143"
     		data-ad-slot="8855209824"></ins>
		<script>
		(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
		</script>
<p>&nbsp;</p>
<p><span class="sc_marker red"><strong>諸行無常ー</strong></span>。</p>
<p>これは<strong>仏教が説かれる際の大前提となる物事の捉え方</strong>です。</p>
<p><strong>あらゆる存在は必ず何かしらの変化をしていくということー</strong>。</p>
<p>じゃあその上でどう生きるべきか、というのがお釈迦様の説いた教えです。</p>
<p>今回はこの<strong>「無常を生きる」</strong>ということのヒントをもらったお話です。</p>
<h2>大工の棟梁さん</h2>
<p>ある日、法事の手伝いのために実家のお寺に帰った日のこと。</p>
<p>その日の法事に、お寺を建ててくれた大工の棟梁さんが参列されていました。</p>
<p>職人気質の棟梁さんは昔から恐くもあり、無骨な優しさもある、私の中で<strong>「かっこいい大人」</strong>の一人でした。</p>
<p>しかし10年ぶりに会った棟梁さんは、<strong>背中が曲がって一気におじいちゃんになってしまったように見えました。</strong></p>
<p>すると棟梁さんはそんな私を見透かしたように、</p>
<p><span class="sc_marker red"><strong>「背中曲がったんね〜って言われるけど、曲がるべき方向に曲がってんだからなんの問題ありゃしねえよ！反ったんじゃ困るけどな！」</strong></span></p>
<p>と笑い飛ばしていました。</p>
<p>一瞬呆気に取られた私でしたが、大工さんという職業を考えると納得できました。</p>
<p>名工っと言われる大工さんは<strong>木材が年月とともに縮んだり曲がったりすることも計算して建物を建てる</strong>そうです。</p>
<p>さらには<strong>木が生えていた土地や向いていた方向まで、木材の一本一本の個性を見極めること</strong>まで求められます。</p>
<p>そんな仕事をずっとしてきた棟梁さんだからこそ、自分の体が変わっていくことは何も不思議ではないし、当然のことと笑い飛ばせるのかもしれません。</p>
<p>「無常を生きる」というのは、<strong>実はこんな生き方なのかもしれないなあ</strong>と、私は考えさせられました。</p>
<p>歳をとっていくことを嘆くのではなく、<strong>年輪を重ねてどっしりと構える棟梁さん</strong>は、やはり私にとっての<strong>「かっこいい大人」</strong>でした。</p>
<p><span> </span></p>
<script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script>
		<ins class="adsbygoogle"
     		style="display:inline-block;width:310px;height:280px"
     		data-ad-client="ca-pub-2669743989558143"
     		data-ad-slot="8855209824"></ins>
		<script>
		(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
		</script>
]]></content:encoded>
					
					<wfw:commentRss>https://zenkatsu.site/archives/129/feed</wfw:commentRss>
			<slash:comments>0</slash:comments>
		
		
			</item>
	</channel>
</rss>
