なぜお葬式をするのか〜遺族としての経験から考える〜vol.1

近年注目を集め、今も話題の絶えない「終活」

禅活-zenkatsu-は坐禅や精進料理を中心とした活動を続けていますが、メンバー全員が週末には葬儀や法事に携わっています。

葬儀や法事と言っても現在は形態が多様化し、遺族や故人の様々なニーズに応えられるようなものが数多くあります

一方では地域によって戒名の問題があったりと、葬儀などの儀礼は現代社会の中でいわばメリットデメリットのある存在となっているのです。

そんな中でTwitterの質問箱に、シンプルかつ深いご質問をいただきました。

なぜお葬式をするのか…。

「伝統だから」「そういうものだから」では済まさず、何事にも意義や価値が求められる現代に生きるからには、僧侶側はそれぞれ自分の中に一つの答えを持っておくべきだと思います。

そこで今回、私はあえて僧侶としてではなく、一人の遺族としての経験から「お葬式をする理由」を考えてみたいと思います。

まだ何もわからない頃に経験したお葬式は、私にとってどんな意味があったのでしょうか。

 

Contents

祖父の葬儀と家族の姿

これは6年前、私がまだ大学生で、僧侶として歩き出す前のお話です。

以前、6月の命日にちなんで、祖父についての記事を書きました。

頑固で真面目で情に厚く、僧侶でもあり小学校の校長まで勤め上げた祖父は、我が家の法の番人でした。

働きものでジッとしていられない性格の祖父が体調を崩したのは、私が大学3年生の頃、私の父である師匠が永平寺で指導役の任期を終えて帰ってきた直後のことでした。

その後の様子は以前の記事で書いた通りで、一年とわずかで体調は下降線を下り、祖父は亡くなりました。

私が生まれてから高校を卒業をするまで生活を共にした祖父は、両親以外ではもっとも同じ時を過ごした肉親であり、ここまで近しい人を亡くしたのは初めてのことでした。

納棺とお経

母からの連絡を受けて、東京から実家に戻ると、祖父は驚くほど穏やかな顔で眠っていました。

体調を崩してからは見ることのなかった祖父の穏やかな顔に、私の中にはまだ現実として受け止めきれない気持ちと、「よかったね、お疲れ様」という気持ちが入り混じっていました。

そして祖父を送リ出す中で、私には忘れられない瞬間があります。

それは親族だけで集まって納棺をした時のことです。

祖父の遺体と共に棺に入れる遺品の一つに、付箋がたくさん貼られた本がありました。

それを見た途端に、いつも机に向かって勉強していた祖父の姿が思い出されたのです。

そして身内で出家をした人全員でお経を唱え始めると、そこから数珠つなぎのように思い出が蘇り、涙が止まらなくなりました。

私はそれまで、人の死というものが現実として実感することができず、お葬式に行っても涙を流したことがありませんでした

しかし、祖父を送り出す一つ一つの儀式の中で、生まれた時から愛情を注いでくれた人との別れを実感したのです。

 

テクノロジーの中に残ってきたもの

近年、お葬式はなるべくコンパクトに行うという傾向が強まってきて、私の地元でも省ける儀式は省くというケースが増えてきています。

確かに、テクノロジーの進歩した現代にあっては、お葬式は手間や費用がかかりすぎる部分があるのかもしれません。

しかし、祖父を亡くした時、枕経や納棺といった一つ一つの儀式が、私を祖父の死という現実に向き合わせてくれたのだと思います。

今まであった体温がなくなり、肉体がなくなっていく過程は、人間の理解を超えた「死」というものを肌で感じさせる為の道しるべなのかもしれません

突然であろうと徐々にであろうと、人が死と向き合うのは容易なことではありません。

ただ、一見何をやっているかわからない作法でも、「丁寧に見送る」という過程を踏んでいくことが、現実として死と向き合うことに繋がっていくのです。

そして、枕経と納棺を終えると、次に通夜と葬儀・告別式を迎えるのです。

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