娑婆世界にいるという前提

春のお彼岸も今日で終わりを迎えます。

お盆ほど世間の動きに影響しない行事なので、
言われるまで気づかなかった
という方もいらっしゃるかもしれません。

私は例年通り、お彼岸の入りの前はお寺の草むしりや掃除をし、
お彼岸に入ってからは山梨と東京のお寺のお手伝いをしてきました。

今回は今年のお彼岸に気づいた、仏教が説く一つの「前提」のお話です。

Contents

この世は辛いもの?

「彼岸」という言葉は、私たちが普段暮らす「此岸」に対して説かれたものです。

彼の岸、つまり向こうの岸は苦しみのない世界として描かれ、
此の岸は悩み苦しみに耐え忍ばなければならない世界とされます。

この「耐え忍ぶ」という言葉を、古いインドの言葉では「サパー」、
漢字を充てると「娑婆」となり、此岸=耐え忍ぶ世界=娑婆世界となります。

つまり仏教は前提としてこの世界を辛いものと捉えているわけです。

しかしそれは悲観的に、ネガティブなわけではなく、
ある意味冷静に、客観的に捉えた結果なのです。

なぜ娑婆というのか?

では、なぜお釈迦様は冷静に、客観的に見てこの世界を「娑婆」としてのでしょうか。

それは私たちの人生は自分ではコントロールできないことだらけだからです。

生まれる場所や時代、性別、持って生まれる特性、
老い方やかかる病、そして時期や死因も含めた死に方。

さらには愛着の対象との別れ、嫌悪の対象との出会い、
欲しいものが手に入るか否か、そして感覚器官の働き。

生まれてから死ぬまでが思い通りにならないことだらけで、
それに悩まされ、苦しめられるのが人生です。

そんな中で一時的に叶ったいくつかの願望や、
辛くはない出来事を幸せと呼んだりするのかもしれません。

娑婆だからこそ

ただし、「娑婆に生まれたのは運が悪かった、諦めるしかない」
というのが仏教ではありません。

辛く苦しいからこそ自分のあり方を考えることができる、
コントロールは聞かなくても舵をとることはできる、
ならば死というゴールが辛いものにならないように舵をとろう!
というのが仏教だと、私は捉えています。

曹洞宗の『修証義』には「願生此娑婆国土しきたれり」という、
法華経の一節を引用した箇所があります。

お釈迦様の教えに出会い生き方を見つめるために、
願ってこのこの辛く苦しい世界に生まれたんだ、
という意味の言葉です。

「生まれてきてよかった」と思える人は、
時代を遡るほど少なかったはずです。

食べ物がない、争いが絶えない、
救いのない世の中に生まれた人たちもまた、
「願って生まれたんだ」と自分に言い聞かせていたのでしょう。

生まれることがコントロールできないからこそ、
自分の意思で生まれてきたんだ!ということが、
人生を歩み始めてしまったこと受け止める智慧だったとも考えられます。

つまり、仏教にとっては生まれたこの世界や人生というのは、
思い通りにならないが故に苦しみ、耐えなければならないもので、
だからこそ安らかであるための教えが光るということになるのです。

みんな娑婆を生きている

ここからがお彼岸の話。

この2月から、私はお葬式や法事、お彼岸のお手伝いを通して、
色んな方の悲しみや辛さ、悩みに接してきました。

ご身内の突然の死に悲しむ方、
時間は経てど傷が癒えない方、
弱っていくペットの姿に心を痛める方、
形や事情は違えど、誰もが何かしらの辛さ苦しさを抱えていました。

そんな中で、思い出したのが、経典にあるキサーゴータミーの話です。

お釈迦様が立ち寄ったある村で、
亡くなった赤ちゃんを抱えたキサーゴータミーという女性が
「どうかこの子を生き返らせてください」と懇願してきました。

そこでお釈迦様は
「死人を出したことのない家から芥子粒をもらってきたら生き返らせることができますよ」
というと、キサーゴータミーは早速村中を探し回ります。

しかし、死人を出したことのない家などありません。

誰もが死や別れを経験しながら生きている、
自分だけに起きた出来事ではないことに気付いたキサーゴータミーは出家をし、
後に立派な尼僧になりました。

このお話の重要なところは、キサーゴータミーが
誰もが同じ苦しみの中で生きていると気づいたことでしょう。

人というのは大きな悲しみや困難に直面すると、
「なんで私ばかり…」「私が今世界で一番辛い」
と思ってしまうものです。

そうすると人のことが妬ましく思たり、
心から差し伸べられた手やかけれられた言葉を
振り払ってしまったりします。

だれもが何かしらの悲しみ苦しみを抱えているという前提は、
自分の生き方と同時に他者を見る目も変えるのもしれません。

此岸の中にある彼岸

曹洞宗ではそんな前提の上で、
この娑婆世界を此岸を彼岸にしていこうと説きます。

みんなが辛い世界だからこそ少し周囲のことを考え合う中に、
生きながら彼岸を現前させていくのです。

どう足掻いても辛い世界なのだから、
辛さを無視せずに、辛さ由来の安らかさを求めていく、
彼岸会にはそんな生きる智慧があるのかもしれません。

現実を見る仏教だからこそ、この世界は娑婆であり、
娑婆だからこそ彼岸がある。

そんな風に考えると、「みんなで娑婆に生まれたんだ!」
という前提は非常に大切なことなのではないかと、このお彼岸に思いました。

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