
霊感と呼ばれるものを持っておらず、心霊の類も信じていない私が、若気の至りで経験した夏の終わりの出来事。
今回は後編。
ご覧になる方は前編からどうぞ。
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Contents
「自分の名前を強く念じて」
居酒屋の外に出ると、私は先輩に背中を向けて立つように促され、その背中に先輩の手がかざされます。
「今から、自分の名前を強く念じ続けて」と言うと、先輩は私の背中にかざした手を撫でるように動かしているようです。
「一旦力抜いていいよ」そう言われると同時に先輩の方を向くと、先輩は両手でバレーボールくらいの球体を両手で潰すような動きをし、その見えない球は段々小さくなっていくようです。
そして完全手の平ですり潰すような動きをしたあと、疲れた顔で「もう一回」と言います。
再び「自分の名前を強く念じて」と言われ、背中に手をかざされます。
すると今度は「少し引っ張られる感覚あるからちゃんと立ってて」と言われ、私が驚いていると、
グンッ
背中を紐で引っ張られたような感覚があり、思わずつま先が浮きます。
そして次には、腰にぶら下げていた鍵が、動いていない私の腰元でチャリチャリと音を鳴らすのです。
私は一心に自分の名前を念じ続けました。
ようやく「はい、力抜いていいよ」という言葉と共に再びバレーボール大の見えない球体を両手で潰す動きをする先輩。
手の平が合わさり、最後まですり合わせると、ようやく先輩は口を開きます。
「これで全部ではないけど、あとはちゃんとした生活をすれば取れると思う。今日は疲れてるから申し訳ないけど、もう大丈夫だから」
私は今自分が経験したこと、向けられた言葉、そのどれもが信じ難く、とても現実とは思えませんでした。
換気と食事とエネルギー
居酒屋の店内に戻ると、先生と先輩は私にそれからの生活でどのようなことに注意すべきかを教えてくれました。
よく換気をすること、ちゃんとご飯を食べること、自分の熱中できることをすること。
体から良いエネルギーを発するのが何より大切であることを教わり、その日の居酒屋はお開きとなりました。
それから私は教わった通りに、掃除をし、換気をよくしたり、ご飯の栄養に気を配り、ダンスなど、自分の好きなことに熱を注ぐように意識しました。
それからは、いつの間にか体調も良くなり、新しいバイト先も楽しく、大学卒業の頃には大きな不運などは起こらなくなりました。
仏教が無記と説いたわけ
私は、この体験を通して、仏教では目に視えない存在や死後の世界が存在しないと言っているのではなく、証明できないから論ずるなと言っていることの意味を改めて考えるようになりました。
人間の目にはこの世の全てが視えているなんて誰がいったわけでもないのに、私は自分に視えない=存在しないという勘違いをしていました。
そう、視えるものがあるなら視えないものがあっても不思議じゃない。
だけどそれを全員が同じく認識することはできないから、証明もできない。
あることを証明できないのと同時に、無いこともまた証明できない、それが無記です。
それなら、どれだけ考えても解決しようのない世界に頭を悩ませるのではなく、この世界での生き方を正していこう、というのが仏教だったのです。
肝試しで私が座っていた森では、過去に交通事故が起き、雪のせいで遺体の発見が遅れたということもあったそうです。
あの時私に霊が憑いたとか、呪われたとか、自分の身に何があったのかはわかりません。
また、自分に起きた不運は、自分で防げたことかもしれないし、ほんの偶然にすぎないのかもしれません。
さらに、先輩がしてくれたことやアドバイスだって本当に人間以外のものと関係のあることだったのかもわかりません。
考え方によっては、規則正しく、活動的な生活が私の心身を癒してくれたと受け取ることだってできます。
しかし、私はこの出来事をきっかけに、肝試しや心霊スポットなどに関わるのはやめようと心に決めました。
自分には視えも感じもしないが、バカにしたり冒涜したりはしないと誓ったのです。
こちらに視えようが視えまいが、お釈迦様が無記と説いた範囲が存在するのです。
このお盆で地元に帰って心霊スポットに行こう!なんて思っているあなた。
お盆という行事は、生きている人が日頃より一層亡き人に想いを寄せる日でもあります。
世間がそんな想いに満ちている今、そこは本当に行くべき場所ですか?
一度冷静になってみてはいかがでしょう。
霊感があるかないかではありません。
あなたからは視えなくても、あなたを視ている何かがいてもおかしくはないんです。
後日談
この出来事から3年後、永平寺での修行から帰ってきた私は、何かのきっかけで師匠にこの出来事を話しました。
昔から心霊の類に対しては疑っているように見えた師匠。
そんな師匠から返ってきた言葉は
「まあ、人間一つや二つ憑いてたっておかしくないよ。」
師匠は決して視えないものや死後の世界を否定しているわけではない、あくまでも無記の立場に立っていたのだと、ようやく気づいたのでした。
お盆中のお出かけはくれぐれもお気をつけください。