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一連のコロナウィルス騒動。
中国、イタリア、スペイン、イランなど、すでに甚大な被害が出ている国が多くある中、
当初ウィルスの爆発的感染が懸念された日本では、比較的緩やかに事態が進行してきた感があります。
しかしここに来て東京でも連日新規感染者が増加し、状況は緊迫してまいりました。
情報が錯綜する中で確かに言えることは、
手洗い、うがい、消毒など自分がかからないための取り組みに加え、
咳エチケット、移動の自粛など、ウィルスを広げないための努力が必要とされているということです。
今回は、こうしたコロナウィルス騒動のなか、
オンライン会議アプリを使ってみて気づいたことをもとに記事を書いていこうと思います。
Contents
会議アプリを使ってみて
携帯電話とパソコンにカメラとマイクが標準装備されている時代。
どれだけ距離を隔てていようとも、オンライン環境さえあれば、対面している時と変わらぬレベルでコミュニケーションが取れるようになりました。
今回会議アプリを使うことになったのは、コロナウィルス感染防止に伴う在宅ワーク導入のため。
試してみると、初めのうちこそ画面に向かって話すということに抵抗も覚えましたが、
ややもすれば慣れてしまって、気軽に会話を楽しめている自分がいました。
ホワイトボード機能、背景変化機能なども試してみて、その便利さを実感できたのですが、
ノートパソコン付属のマイクと、イヤホン使用という環境のために「自分の声が遅れて聞こえてくる」という不便さもありました。
自分の声が遅れて聞こえてくるということ自体は、やや間をあけて話せばそれほど気にはならないのですが、
たった一つ、どうしても気になることがありました。
それは、自分の笑い声。
アッハッハ!と笑った後に、一呼吸おいてアッハッハ!と聞こえてくる。
自分の発した間の抜けた笑い声に居心地の悪さを覚えつつ、ふと気付いたことがあります。
それは
「ちょっと、あまりにも笑いすぎじゃないか?」
ということ。
会話の端々で、事あるごとにハッハ!、フフ!、エヘヘ!と笑っている自分に気付いたのです。
よくよく考えてみると、これまでに
「え?今、なんか面白かった?」
「笑いすぎじゃない?」
と指摘を受けたことが何度もありました。
その時は「そうかなあ?」とさして気にも留めなかったのですが、
こうして自分で聞いてみると、確かにやたらめったら笑っています。
なくて七癖ということわざがありますが、会議アプリの使用を通じて、私にも「つい笑う」という癖があることに気が付きました。
思ってたのと違う!自分
「つい笑う」という癖に、自分では気づくことができていなかった私ですが、
自分が思う自分の姿と、本当の自分の姿が異なっているという経験は、
これまでに何度も繰り返してきました。
たとえば、幼い頃の私は、自分の声を「声優並みにかっこいい最高の美声」だと思っていました。
「将来は声優を目指してみるのもいいかもしれない……」
そんなことを考え始めたころ、ふとした拍子に録音された自分の声を聴いて愕然としました。
「こんなの自分の声じゃない!」
スピーカーから聞こえてくるおちゃらけボイスが自分の声だとは到底信じられず、
何度も録音しなおして、それこそ精一杯「かっこいい声」を出そうとマイクに向かって話しました。
しかし、聞こえてくるのはどこまでもおちゃらけた「自分の声」。
この自分の声はおちゃらけているという現実を理解したこの瞬間、
久保田少年の声優になるという夢は儚くも砕け散ったのです。
これら「つい笑ってしまう癖」も「おちゃらけた声」も、自分が想定していた自分の姿とはかけ離れたものでした。
こうした例に限らず、自己評価と他者からの評価が随分違っているなんてことがいくらでもあるように、
人はどこかで自分の姿を誤解していたり、把握できていないものなのでしょう。
自分とは何なのか?ではなく、どう生きるかが問題
幼い頃の私が、「素晴らしい声の持ち主」でありたいと思ったように、人間が、素晴らしい自分でありたい!と思うのは当然のことだと思います。
かつて「自分探し」という言葉が流行したのも、
今の自分ではない「素晴らしい自分」に出会いたいという意識が理由なのかもしれません。
素晴らしい自分でありたいというのは、実は仏教も同じです。
しかし、それを学歴や財産などの世間的な価値に求めてしまうと、話は違ってきます。
それらを目標として据え、努力の指針にすること自体は間違っていません。
ただし、それらは人生の最終目標とはなりえず、いくら追い求めたところで、本当の意味で「素晴らしい自分」になることはできません。
あるはずのない自分を求め続ければ、それは苦しみのもととなります。
仏教の言う人間の素晴らしさとは、
「人間は生き方を変えられる存在である」というところにあります。
それは誰かと比べて優れているとか劣っているとかいうものでもなければ、
他者からの評価によって得られるものでもありません。
仏教はお釈迦様が老・病・死の苦を出発点に、苦から離れる生き方を追求した結果として説かれた宗教です。
つまり大切なことは、何を持ってどこに生まれたかではなく、
自分がどう生きるか、ということなのです。
今の状況の中で私たちがすべきこと
さて、今、世界は未知のウィルスに脅かされ混乱の只中にあります。
いつ感染爆発が起きてもおかしくないと言われる中で、私たち一人一人の行動が問われています。
人通りの多いところへの外出は避ける。
清潔を心掛ける。
買いだめはしない。
体調の不良を感じたら、人との接触を避ける。
早寝早起きを心掛ける。
食事に気を遣う。
ざっと例を挙げただけでもこれだけの、すべきこと、すべきでないこと、があります。
感染のリスクを抑え、いたずらに不安を抱かぬためには、
自らの生活を見つめなおし、行動をひとつひとつ考えていくことが必要です。
大変な状況下ではありますが、ともに乗り越えていきましょう。