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これは私、深澤亮道が福井から岩手までの700Kmを無一文で歩いて帰った物語である。
Contents
前回までのあらすじ
前回は、10日目の柏崎市にある寿慶寺さんまでの道のりをお送りました。
道中にあったクジラの地下道や、柏崎刈羽原子力発電所などについて綴っています。
前回の記事は以下から読むことができます。↓
バックナンバーは以下から読むことができます↓
ついに!ついに?
vol.20まできました!
日数的にも、ようやく中間地点といったところでしょうか?笑
まだまだ先は長い旅日記ですがどうかお付き合いいただけたら幸いです。
さて、今回は11日目、柏崎市から燕市までの道のりをお送りします!
しかし、内容はほとんど江戸時代の禅僧、良寛さんのことを書いていますので、悪しからず。
それではどうぞお楽しみください!
本日の目的地
11日目 7:30〜
本日の目的地は、柏崎市「寿慶寺」から燕市のどこか野宿できるまでの、おおよそ35kmくらいを予定しています。
その次の目的地が、加茂市になるので、この日から新潟の内陸に向かって歩く予定になります。
野宿の場所は決めずに、疲れたら適当な公園を見つけて寝ようと思い、出発しました。
国道116号線と越後線
11日目 10:00〜
昨日までの海沿いの景色から一転、ほのぼのとした越後平野の中を歩きます。
実家近くの景色と、とても似ていて親近感が湧きます。
この日のルートほど、地図を見なくても大丈夫な日はありませんでした。
なぜなら、この日は国道116号線をただひたすら真っ直ぐ歩いていたからです。
柏崎駅から新潟駅まで伸びる越後鉄道線と並行するように、同じく柏崎市から新潟市まで続く道路が国道116号線です。
おそらく2〜3時間に一本ほどでしょうか?
道を歩いていると、2〜4両編成の越後線がカタンコトンと走る姿を目にすることができます。
田園風景に単線が続くこの光景は、永平寺近くを走る「えちぜん鉄道勝山永平寺線」を彷彿とさせます。
10日前に通ったえちぜん鉄道の路線上がとても遠い過去のように感じますが、それも1日1日がとても思い出深い旅になっている証拠なのでしょう。
柏崎市から出雲崎町、そして出雲崎町を通り、昼の12時頃に長岡市に入りました。
新潟と言えば・・・
11日目 12:00〜
ちょうどお昼時だし、どこか休憩できる場所はないかなーと、歩いているとそこには「3km先、道の駅」の看板が私の目に飛び込んできました。
しかし、道の駅の看板というのは、数キロ手前からその存在を知らせる看板が現れるものです。
車で走っていると、すぐついてしまうのですが、歩きだとそうも行きません。
あと数キロ先の看板を見つけてから、今すぐにでも休憩したい気持ちを心の中で押し殺しながら、13時頃ようやくの思いで道の駅にたどり着きました。
ここは「道の駅 良寛の里」。
「あ、そっか!新潟と言えば良寛さんか!」
知らない人はピンとこないかもしれません。
ここは、江戸時代の有名な曹洞宗の禅僧、大愚良寛の出身地でもあり、晩年過ごした場所でもあったのです。
良寛さんとは?
「良寛さんって何をした人?」と聞かれると、俳句や和歌を残したことも有名ですが、一番有名なエピソードとして挙げられるのは、村の子供達とかくれんぼや手まりで遊んでいる姿かもしれません。
ちょっとだけ良寛さんの生涯をご紹介したいと思います。
良寛の生涯(1758~1831 本名は山本栄蔵)
江戸時代の後期に、出雲崎町に生まれた良寛さんは、大変裕福な家柄の長男として生まれますが、家督を継がずに18歳の時に出家します。
岡山県の円通寺に赴いて仏道修行に励み、34歳の時から諸国を行脚し、38歳頃越後に帰ります。
生涯寺を持たず、粗末な草庵に住み、日々托鉢で暮らし、貧しいながらも清らかな生き方を通しました。
多くの詩や歌を詠み、それを書き遺した作品は、日本美の極致とまで絶賛されて、今に伝わっています。
また、子供達と遊んだ等の逸話から慈愛に満ちたお人柄は現代の人達にも広く親しまれています。
74歳の時に示寂。
良寛さんの素晴らしさ
「子供の純真な心こそが誠の仏の心」として、懐には手毬を常に携帯しており、子供たちにせがまれれば日暮れまでまりつきをしたり、かくれんぼをしていて、子供たちに見つけてもらえず、次の日まで藁の中に隠れていたというエピソードも残されています。
このように聞くと「なんだ遊んでいるだけじゃないか」と思われそうですが、私はこの子供にも遊びにも分け隔てない姿が良寛さんの素晴らしさだと思うのです。
私たちが一般的に認識する「遊び」とは、遊びではないなにか、例えば仕事や家事など社会的に必要であるとされる行為があって、それ以外の個人の欲望や楽しみの一つとされるのが遊びだと思うかもしれません。
しかし、子供にとって「遊ぶ」とは真剣そのものであり、私たち大人が思っている以上に混じり気のない行為が遊びになります。
つまり、良寛さんの言われる「誠の仏の心」とは、子供達の遊びとか遊びではないとかの分別を超えた姿が仏の心であり、子供達と遊ぶというのが良寛さんにとって「純粋なる遊び」という悟りの境地だったのかもしれません。
災難を逃るる妙法
また良寛さんが71歳の時に、死者1500人を超える「越後三条地震」と呼ばれる大地震が起きました。
幸いにも良寛さんは、被害に遭わずにすんだそうなのですが、親友から安否を気づかう手紙が届きます。
しかし、その良寛さんの無事を心配し見舞いの手紙を送った親友は、この地震で子供を亡くしていたそうなのです。
良寛さんはその親友に次の言葉を送ります。
災難に遭う時節には災難に遭うがよく候
死ぬ時節には死ぬがよく候
是はこれ災難をのがるる妙法にて候
そのままの意味ですが、「災難に遭うときは災難に遭い、死ぬときには死ぬ。これこそが災難を逃れる正しい理法なのです。」という手紙です。
被災した方に、このような言葉を投げかける良寛さんってなんて非情な人間なんだろうと思う人もいるかもしれません。
しかしこの言葉は、ただ現実を受け入れなさいと言っているのではなく、親友という間柄があって良寛さんが愛語として伝えた言葉なのです。
「自然」は「自ずから然らしめる」と書くように、あるがままの状態を指す言葉です。
「災害」「地震」あるいは「疫病」もそうかもしれませんが、全ては森羅万象の営みであり、災いと決めつけているのは私たち人間の思い計らいによるものです。
それこそが、自然であり、災難を乗り越える正しい教えだと、良寛さんは綴ったのでしょう。
もちろんこれは親友という、信頼関係があって成り立つ言葉です。
しかし、現代にもこの言葉が伝わっているということは、親友が良寛さんの手紙を大事に保管し、苦難の中で自身を支えてくれた言葉だったことが伺えます。
有名なお坊さんというと、何か偉業を成し遂げた人がイメージされますが、そんな中で良寛さんは清貧な暮らしの中で、分け隔てなく人々に寄り添った素朴な禅僧であったと言えるでしょう。
それが良寛さんの素晴らしさであり、現代でも人々から親しまれている理由なのでしょう。
本日の野宿先
さて、本編に戻りましょう。
11日目 17:30〜
「道の駅 良寛の里」からおよそ10km。
長岡市から燕市に入ったすぐのところに、野宿にとっておきの公園がありました。
本日の野宿先は「大河津分水さくら公園」。
公園近くの橋の上からは、空に吸い込まれそうなほど綺麗な夕焼けが輝いていたのでした。
続く
次回予告
今回もちょっと脱線してしまいましたが、どうしても良寛さんのことを紹介したくて綴ってしまいました。
ただ、生涯托鉢で生活をした良寛さんのその姿は、托鉢行脚をしていた私にとって励みになりましたし、とても学ぶ(真似ぶ)べき禅僧でもあります。
男の子が生まれたら「良寛」って名前もいいなと、ふと思ったのでした。笑
さて、次回は燕市から加茂市「東龍寺」までの道のりをお送りします。
「vol.20 良寛の里」をお読みいただきありがとうございました(^ ^)
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