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毎週月曜日9時から、インスタライブで行っているオンライン坐禅会!

坐禅が終わった後、15〜20分ほど「私のおすすめの本の紹介」というコーナーを設けて、一般の方にも親しみやすい仏教書を大体1冊4回くらいに分けて、これまで6冊ほど紹介してきました。

そこで今『今を生きるための般若心経の話』(三心寺住職 奥村正博)という本を紹介していて、最初はさらっと解説する予定だったのですが・・・・

本書に沿って話していたら、結局「般若心経」の解説になってきてしまいました!笑

せっかくなので改めてブログで般若心経の解説をしていくので、その世界を味わっていただけたらと思います!

三心寺住職 奥村正博老師

著者の奥村老師は、アメリカ、インディアナ州のブルーミントンに「三心寺」というお寺を建てて、海外の方に仏教や禅の布教活動をされている曹洞宗の僧侶です。

私も永平寺修行中に海外研鑽僧としてアメリカに行った際、3週間ほどお世話になりました。

お寺と言っても皆さんがイメージするお寺ではなく、普通の一軒家の地下が坐禅堂兼本堂になっており、坐禅会や勉強会が開かれるといつも多くの参禅者が訪れます。

これまでも道元禅師の著書や曹洞宗関係の書物の英訳を多数出版してきたばかりではなく、多くのお弟子さんを輩出しており、海外において曹洞禅の布教活動において多大な功績を残しております。
ただ、如何せん日本語の本が無いので、日本人は奥村老師の仏教観に触れることがあまりなかったように思います。

しかし、ある日たまたま近くの書店に立ち寄った時に、この奥村老師の本を目にして迷わず購入しました。

本書は1989年から1990年に、キリスト教と仏教を学ぶ「東西の会」において行った般若心経の講義の記録を、日本語訳した内容となっています。

それでは、これから本書の内容をなぞりながら般若心経の解説をしていきたいと思います。

般若心経の歴史的背景

約2500年前、現在のインドでお釈迦様はこの世の真理に目覚めて以来、45年に渡って布教伝道を続けました。

お釈迦様の教えは多くの弟子たちに伝わっていきますが、当時はそれを文字に書き表すという習慣がありませんでした。

そのため、お釈迦様の死後、残された弟子たちの間で教えをめぐって様々な疑問が行ってくるため、その度に弟子たちで集まりお釈迦様の教えに一貫性を持たせようとしました。

しかし、お釈迦様の死後100年経つ頃には、教えをめぐって教団が真っ二つに分かれてしまいます

これを根本分裂と言い、「お釈迦様の教えとはちょっと違うけれども、大方あっているからこれも仏教でしょ」というフランクな「大衆部」グループと、「お釈迦様の教えを厳格に守ることこそが仏教である」という「上座部」グループに分かれました。

なぜお釈迦様の教えを緩い解釈にしたかというと、お釈迦様の厳格な教えを守れるのは出家した一部のお坊さんだけであり、一般の人も苦しみから救われるために、教えを再解釈し直して伝える必要がありました。

その他にも様々な時代背景、民族や戦争、貧困といった問題を打破するためにも、こうした新たな流れが生まれていったと考えられます。

その後大衆部は「大乗仏教」と名乗り、シルクロードを通って中国、日本へと渡り(北伝)「上座部仏教」は、スリランカ、タイ、ミャンマー、ラオスなどへと渡っていきました(南伝)

そして、大乗仏教を発展させた人物として欠かせないのが龍樹(150頃~250頃)の仏教僧です。

彼は、お釈迦様が説かれた「縁起」「無常」「無我」を「空の哲学」として洗練させ、『般若経』をまとめあげます。

しかし『般若経』は膨大な量があり、とてもじゃ無いけれども、全てを読んで理解するには難解な書物でした。

この『般若経』を262文字に凝縮した経典が「般若心経」なのです。

般若心経は作者不明ですが、西遊記の三蔵法師のモデルとなった「玄奘三蔵」がサンスクリット語から漢字に翻訳して、中国から日本に渡ってとても親しみのあるお経へとなっていきました。

般若の智慧

般若心経は正式名称は「摩訶般若波羅蜜多心経」と言います。

「摩訶」は、大いなるとか偉大なという意味。

「般若」は、智慧という意味。

「波羅蜜多」は、完成とか彼岸(悟り)に到るという意味。

「心」は、要点をまとめたとか核心をついたという意味。

つまり、直訳しますと、大きなる智慧の彼岸に到る要点をまとめた教えとなります。

智慧

般若を漢字に直しますと、「智慧」という意味ですが、これだけでなるほどな!と思う人は少ないでしょう。

「智慧」とは別名「無分別智(むふんべっち)」とも呼ばれます

私たちが生きている中で勉強したり他者から色々聞いたりして記憶の中に蓄積されていくのが「知識」や「知恵」だと思います。

これを「分別智(ふんべっち)」と言い、分別・分類・区別することを指します

これは赤い色であるというのも、これは文字であるというのも「赤」や「文字」というのは知識によって分別されていきます。

もちろん目に見えるものだけでなく、音や香り、味、触感、5感から受ける信号は全て脳内で変換され、「これは〇〇である」と認識されます。

「わかった」という言葉が「分かった」と書くように、私たちの理解できるものは全て「分別智」によるものです。

しかし、仏教では主観と客観、自分と他者など本来分かれているように見えるものは、2つではないというのですが、これを「無分別」と言います。

しかし、そういう分別智はだめだから無分別でなければならないと思うのもまた分別していることになります。

そこで奥村老師は、次のように言われます。

分別の手放し、分別の自己否定としてしか、無分別ということは無いわけです。
だから、坐禅そのものが般若ということになる。
自分が無分別の境地になったとか、あの時自分は無分別の智慧で真実が見えたとか、そうことはありえない。49頁

無分別では言葉で表現することができないので、坐禅でしか智慧を行ずることはできない、すなわち坐禅を行じていることがすでに無分別の境地なのです

なので、坐禅に良い悪いはありません。

もし坐禅に良し悪しがあったら「分別」になってしまう。

5分でも10分でも30分でも坐禅は坐禅であり、これが無分別の行なのです。

般若心経全文

観自在菩薩〜亦復如是

(原文)
観自在菩薩(かんじざいぼさつ)。

行深般若波羅蜜多時(ぎょうじんはんにゃはらみたじ)。
照見五蘊皆空(しょうけんごうんかいくう)。
度一切苦厄(どいっさいくやく)。
舍利子(しゃりし)
色不異空 空不異色(しきふいくう くうふいしき)
色即是空 空即是色(しきそくぜくう くうそくぜしき)
受想行識 (じゅそうぎょうしき)
亦復如是(やくぶにょぜ)

(私訳)
観自在菩薩が、

深遠なる「智慧の修行」をしていた時、
この世のあらゆる存在や現象が「空」であることを悟り
すべての苦悩から解放された。

舎利子よ、
色は空に異ならず、空は色に異ならない。
色はこれすなわち空、空はこれすなわち色である。
感じる、想う、判断、認識、これらも全て空である。

観自在菩薩と舎利子

「観自在菩薩」とは、いわゆる観音さん、「観世音菩薩」と同じ菩薩です。

観自在とは、「人々の苦難(の音)を観ずること自在なるもの」を言います。

つまり、私たち生きとし生けるもの全ての悩み苦しみの声姿を聞いてくださるのです。

菩薩とは、大乗仏教でとても重要な役割を担っています。

お釈迦様をはじめとする仏様は、真理に目覚め悟っている存在ですが、菩薩とは、本当は悟りに到ることはできるけれどもまだ私たちと同じ苦しみの娑婆世界に残り、私たちと共に歩んでくださる存在のことを言います。

観音様の他にも、地蔵菩薩や文殊菩薩、普賢菩薩など様々な菩薩がいますが、菩薩というのは悟ってはいないけれども私たちを救ってくれる存在です。

大乗仏教の大きなポイントとしては、仏様だけではなく、菩薩様への信仰もあるところです。

そして、菩薩は架空の存在だけでなく、私たちの身近にもいるかもしれません。

他者の苦しみに耳を傾け、他者を救うために発願し、行動する人も菩薩と言います。

もちろん自分自身も菩薩になることができるのです。

この点が、苦しんでいる人々皆助け合って悟りの世界に到ろうと精進することが、大乗仏教の特徴であり、菩薩の存在意義なのです。
そして、般若心経はこの観自在菩薩が、舎利子という人に般若とは何か?空とは何か?を語っている描写になります。

舎利子とは、お釈迦様の2大弟子のうちの1人で、智慧第一と呼ばれていました。

個人的には、智慧第一の舎利子に「智慧」の説明をしているのがとても不思議に思ってしまいます。

上座部仏教の方が般若心経を読むと、舎利子は阿羅漢になった(悟った)存在、観自在菩薩はまだ悟る前の存在なのに、智慧や空について教えるといったことは間違っているという人もいます。
ただ単に大乗経典だから観自在菩薩という存在をピックアップしたかった思惑があるのかもしれません。

玄奘三蔵以外の翻訳では、お釈迦様の下で一緒に修行していた観音様が舎利子に尋ねられるという書き方もありますが、本当のところは定かではありませんが、色々な理由がありそうな設定だと思います。

五蘊

五蘊(色・受・想・行・識)というのは、物質的、精神的、あるいは心理的に現れるものを言います。

つまり、言い換えるとこの世のあらゆる現象と存在のことです。

色・・・「色と形あるもの」

受・・・「感覚器官で受けることのできる刺激」

想・・・「受けた刺激を頭の中で創り出すイメージ」

行・・・「イメージに基づいて心の中に起こってくるもの」

識・・・「そのイメージを定義し認識するもの」

私たちは一瞬一瞬にこの五蘊を繰り返しており、5感から入ってきた情報を脳で処理する一連の流れを五蘊と言います。

つまり、この世に存在するもの=私たちに知覚できるものであり、それられには全て名前、レッテルがつけられます。

すなわち、五蘊とは私たちが定義づけた何かであり、それはこの世のあらゆる現象と存在を指しています。

色即是空空即是色

観自在菩薩は、深く智慧(般若)の修行をしていた時、この世の存在していものは全て空だとはっきりと照らし見たわけです。

さて、ここで般若心経の「空」という概念が登場してきました。

「空」とは簡単に言ってしまえば「実体がない」ということです。

先ほど、五蘊の説明をしましたが、この世のあらゆる現象、存在は全て私たち人間によって定義づけられています。

しかし、お釈迦様は世の中は全て移ろいゆくものであるという「無常」を説かれました。

無常であるのにも関わらずその定義は変わることはありません。

例えば、私は33年前に一つの細胞から分裂を繰り返し、十月十日母のお腹の中で育ち、オギャーと生まれて両親から「深澤亮道」と名付けられて以来ずっと「深澤亮道」です。

3千数百グラムの「深澤亮道」も、ロン毛ピアスの「深澤亮道」も、お坊さんの「深澤亮道」も、見た目は全く違うのにも関わらず、ずっと深澤亮道のままです。

お釈迦様は、私たちは常に変化しているわけだから、自分自身を操作したりコントロールしたりする、固定的な何か「我」のようなものは無い、つまり「無我」を説かれました。

お釈迦様が説かれた「無常」「無我」をさらに発展させたのが「空の思想」です。

深澤亮道という肉体、精神はあるかもしれないけれども、それをさらに細分化していくと、体のパーツがあります。

体のパーツを細分化すると、細胞に分かれ原子に分かれ、最終的には素粒子になっていきます。

あくまでも私という(この世の)存在はそれらの物質が仮に融合しているだけであって、さらにこの融合しているものも刻々と変化していきます。

刻々と変化しているので、実際は言葉や文字によって定義できるものではない、つまり実体はないというのが「空」の考え方です。

本書では次のように書かれています。

物質的、精神的な無数の要素が滔々とながれており、それらがひととき「私」という個性のある「身心」を形作り、すぐさままたどこへともながれていく。(中略)
私というものは、身体だけ見ても、さまざまな物質の運動としてあるわけで、私という固定した存在としてあるわけではない。「もの」としてあるのではなく「できごと」なのです。(中略)
今、ここ、因縁和合の姿で、私なら私の身体として法位に住している、ということです。
空であるから生命として存在可能なんだ。生まれた赤ん坊が成長し、だんだん大きくなり、やがて老いて、死んで行くことが可能だということです。75頁

「色即是空」とは、存在するものは実体がないということ。

「空即是色」とは、実体がないものが存在するということです。

色を否定して空だというと、私たちはすぐこの世は夢、幻なんだからとニヒリズム(虚無主義)に陥ってしまします。

そうではなくて、空だからこそここに因縁和合して存在することなんだと実感できることもまた事実です。

悲観的でも、楽観的でもなく、どちらにも偏らない、われわれの生命の在り方を深く見極めることが般若なのです。83頁

まとめ

ここまで「色即是空空即是色」まで解説してみました。

本書をなぞりながらですが、私の主観も入っておりますので、ご注意ください。

次回は、後半部分の解説をしたいと思います。
疑問点やわかりづらかった点など、DMやコメントいただけたら返信いたします!

また、月曜日9時からのインスタライブにもご参加いただけると嬉しいです(^ ^)

次回もお楽しみに!
最後までお読みいただきありがとうございました!

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