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前回に引き続き、『今を生きる般若心経の話』(奥村正博著,2018,港の人)をもとに「般若心経」の解説をしていきたいと思います。

▼前回の記事はこちら

前回は、「般若心経の歴史的背景」「経題の意味」「般若心経の登場人物と場面」「五蘊、色即是空とは何か?」というお話をさせていただきました。

般若心経を起承転結に分けるとすると、前回お話した内容は「起」の部分になりますが、今回は一気に「承転結」のパートを解説したいと思います。

般若心経全文

生まれることも滅することもない?

(原文)
舎利子(しゃりし)
是諸法空相(ぜしょうほうくうそう)
不生不滅(ふしょうふめつ)
不垢不浄(ふくふじょう)
不増不減(ふぞうふげん)

(私訳)
舎利子よ、
この全て存在するものは「空」という姿、あり方をしている。
それは「生まれることなく、滅することなく」
「垢がつかず、浄らかではなく」
「増えることはなく、減ることはない」

ここのパートから般若心経の「承」のパートになります。

前回お話した通り、空というのは実体がないということです。

なぜ実体がないかというと、この世は常に移ろいゆくものだからです。

これを仏教では「無常」と説きます。

刻々変化していることなので、 一瞬たりも固定的なことなものはありません。

しかし、固定的なものはありませんが、私たちは全ての事象に言葉で定義して、その中で「生まれた」「減った」「垢がつく」「浄らか」「増えた」「減った」と2つに分けた物の見方をしてしまいます。

般若心経では例として、「生滅」「垢浄」「増減」のみ書かれていますが、この世の全ては「空」であるから2つに分けられるものはないと説いているのです。

そういう固定観念を見直し、自由になっていくのが、空をみる、般若の智慧だと思います。
生滅、垢浄、増減などの相対概念で計られた価値体系の呪縛から解放されるということです。
それが般若心経の主題であるし、仏教の根本的な教えです。99頁

 空であるが故に全ては無である

(原文)
是故空中(ぜこくうちゅう)

無色無受想行識(むしきむじゅうそうぎょうしき)
無眼耳鼻舌身意(むげんにびぜつしんい)
無色声香味触法(むしきしょうこうみそくほう)
無眼界乃至無意識界(むげんかいないしむいしきかい)
無無明亦、無無明尽(むむみょうやくむむみょうじん)
乃至無老死、亦無老死尽(ないしむろうしやくむろうしじん)
無苦集滅道。(むくしゅうめつどう)
無智亦無得以無所得故(むちやくむとくいむしょとくこ)

(私訳)
故にこの空の世界においては「五蘊」の色も、感じることも、判断することも、意識することも、これらの精神作用も無い。
「六根」の眼も、耳も、鼻も、舌も、身体も、意識も無い。
「六境」の感知する色も、音も、匂いも、味も、感触も意識の対象も無い。
眼で見た世界から、意識で想われた世界まで、その全てが無い。
お釈迦様が説かれた「十二因縁」も無く、「四諦八正道」も無い。
知ることもなく得るもの無い。

「空であることはつまり、この世は全て無い!」という無い無いづくしのパートです。

般若心経は262文字で構成されますが、実は「無」という字は21文字も出てきます。

般若心経においてすごく特徴的な部分だと思います。

ここでのポイントは「空から無へ」転換しているところです。

「実体が無い」から「存在しない」と論を一歩進めており、徹底的にこの世のありとあらゆるもの、物質的なものから精神的作用、お釈迦様の教えまで徹底的に「無い」と言っています。

ある仏教教団の方は、この「無」の表現に対して、

「お釈迦様が説かれた真理も無いなんて言ってしまうなんて、これは最早仏教ではない!」
と、痛烈に批判しているのをある本で読んだことがあります。

 

もちろん文字の上だけで見たらそのように捉えることができるでしょう。
前回もお伝えした通り、般若心経というのは作者が不明ですが、般若経という膨大な経典が元になって作られています。

この般若経をまとめたとされる「龍樹(ナーガルジュナ)」がここで言っている「無」というのはあくまでも、お釈迦様が説かれた、無常、無我ということをより深く考察され、「空」や「無」という言葉で表現したというところです。

この世を構成する全ての物質は、原子と原子の集合体でできています。

原子は原子核と電子という要素で成り立っており、原子核をさらに細かくすると陽子と中性子で成り立っています。

さらに細かく見ていくと最終的には素粒子で構成されます。

このようにどんどん分解していくと「確かにほとんど実体はないかもしれない。それでも最終的にはなにか有るんでしょ?」ということになってしまいます。

「空」や「無」という言葉を使っても、その対象として「有」という見方が必ず出てきます。

そういう考えをする時点で、2つに分け隔てることになるので、それを否定している言葉としての「無」なのです。

一方的にそんなものは無いと言っているのではなく、われわれが常識として、有ると思っているから、その常識的な考えを否定するために「無」をつけているのであって、仏教はいつも「有に非ず、無に非ず」と言います。
(中略)仏教は、本当は「有」とか「無」とかいう理論を言っているのではなく、有見、無見などの「見」を否定しているのです。105頁

大乗仏教が起こったこの時代、お釈迦様が亡くなられて500年ほど経った頃のインドでは、お釈迦様の教えや仏教教団の方針に対して大きな論争が起きていました。
こちらが正しい経典である、こちらが正しい教えであるという主張や、論文などが山のように積み重なっていって、この世の苦しみから解放されるための仏教から、学問仏教へと転換していったことが考えられます。

こうした論争に終止符を打つために、龍樹は「全ては無い」という大胆な表現をしたのではないかと思います。

これは有とか無とかだけではなく、いかなる肯定的、楽観的考えにも、否定的、悲観的考えにも捉われないで、物事をできるだけ、そのまま、ありのまま、見ていこうという姿勢です。それが「観自在」です。107頁

 完全なる安らぎの境地へ

(原文)
菩提薩埵依般若波羅蜜多故(ぼだいさったえはんにゃはらみったこ)
心無罜礙無罜礙故(しんむけいげむけいげこ)
無有恐怖遠離一切顛倒夢想(むうくふおんりいっさいてんどうむそう)
究竟三世諸仏(くぎょうさんぜしょぶつ)
依般若波羅蜜多故(えはんにゃはらみったこ)
得阿耨多羅三藐三菩提(とくあのくたらさんみゃくさんぼだい)

(私訳)
菩薩たちは、「智慧に到るための修行」をしているから、心にこだわりがない。
こだわりが無いから、恐れも無い。
この迷いの世界から遠く離れ、安らぎの境地に達している。
過去、現在、未来の全ての仏たちは、
この「智慧に到るための修行」により、完全なる悟りに達するのである。

さて、ここが般若心経の「転」の部分になります。
先ほどまで「無い!無い!」と言ってきたのも関わらず、一転して主張を変えてここでは「安らぎの境地に到ることができる」と言っています。
ここでポイントとなるのは「智慧に到るための修行」をしているというところになります。
前回もお話しましたが、「智慧」とは「無分別智」のことです。
これまで見てきたように、この世の全てが実体があると見てしまう理由として言葉で定義した世界を頭の中で分別しているからです。
その言葉や定義が存在しない状態を「無分別」と言います。

しかし、なるほど!無分別とはそういう状態か!と、思ってしまうのも分別になってしまいます。

般若心経の冒頭は次のような一文で始まります。

(私訳)
観自在菩薩が、
深遠なる「智慧(無分別)の修行」をしていた時、
この世のあらゆる存在や現象が「空」であることを悟り
すべての苦悩から解放された。

ここで大切なことは「智慧(無分別)の修行」をしていた時の「時」というところがポイントです。
つまり観自在菩薩がこの世の全ては「空」であることを悟り、全ての苦悩から解放される時は、「無分別の修行をしている時」しかあり得ないのです。
だから、知識や経験の中では、「無分別智」や「空」を悟ることはできない。
先ほどまでのパートと全く違うことを言っているように感じますが、有るとか無いとか2つに物事を分別してしまう見方がこの世の苦悩の原因であり、その苦しみから解放されるというのは「行」でしか無いと言っているのです。

謎の呪文

(原文)
故知般若波羅蜜多(こーちーはんにゃはらみった)
是大神呪(ぜだいじんしゅ)
是大明呪(ぜだいみょうしゅ)
是無上呪(ぜむじょうしゅ)
是無等等呪(ぜむとうどうしゅ)
能除一切苦(のうじょいっさいく)
真実不虚(しんじつふこ)
故説般若波羅蜜多呪(こせつはんにゃはらみたしゅ)
即説呪曰(そくせつしゅわつ)
羯諦羯諦(ぎゃーてーぎゃーてー)
波羅羯諦(はーらーぎゃーてー)
波羅僧羯諦(はらそうぎゃーてー)
菩提薩婆訶(ぼうじそわか)
般若心経(はんにゃしんぎょう)

(私訳)
ゆえに知るべきである。
「智慧の修行」の偉大なる神秘的な真言を、
明らかなる真言を、並ぶものなき真言を。
それは全ての苦しみを取り除き、真実であり、偽りなきものである。
行けよ、行けよ、彼岸へ行けよ
彼岸へ行ったものこそ、完全な悟りである。

般若心経の「結」のパートです。

最後の最後にびっくりするような展開をみせます。
これまで「この世は全て実体が無く、ありとあらゆるもは何も無い!」と言ってきたのにも関わらず、いきなり「偉大な真言があるよ!」と言っているのです。

そしてその真言も「彼岸へ行きなさい!彼岸へ行ったものが、それが悟りである!」という意味があるようであまり意味が無い文章です。

しかし、この「意味があまり無い」ものをとにかく唱えることが大切だと般若心経は教えてくれているのです。

私たちは普段の生活で、必ず「何かのために」動いています。

お金を稼ぐために、ご飯を食べるために、綺麗になるために、かっこよくなるために、健康になるためになどなど・・・

もちろん生きていく上では「何かのために」ということが必要になのですが、必要以上に求めてしまうのが人間の性です。

必要以上に求めてしまうからこそ、私たちは悩んだり苦しんだり迷ったりします。

この悩み苦しみ迷いから解放された境地が「彼岸(悟り)」と言い、「彼岸」に到るには「何かを必要以上に追い求めてしまう心」を払拭する必要があります。

それはどうすればいいかと言いますと「何も求めないという姿勢」です。

道元禅師はこの「何も求めない姿勢」が大切であると説き、これを無所得、無所悟(得るところ無く、悟るところも無い)と言います。

苦しみから解脱したいというのも、形を変えた渇愛に過ぎないということがわかってくる。
それではどういう態度で生きていけばいいのか。
無所得で生きるしかないと思います。
これが般若心経の結論です。
これを道元禅師は「只菅」と言われる。「ひたすら」とか「ただ」ということです。
「只管打坐」ただ坐る。
何が得られるから、どういう効果があるから、というのではなくて、どんな思いも手放しにして、ただ坐る。
坐禅だけではなくて、毎日の生活を、今、ここの行として、ただひたすらに生きる。143頁

つまり、無所得の姿勢こそ安らかな境地に到るための姿勢であると説いているのです。

曹洞宗で言えば、坐禅のことを言いますが、般若心経であれば最後の「羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶」をとにかく一心に唱えることが無所得の行です。

この真言は、古代インドで使われていたサンスクリット語を漢訳せずにそのまま漢字を当てはめています。

般若心経を漢訳した、玄奘三蔵があえて訳さなかったのは、真言を唱えることがこのお経の大切な部分だと強調したからに他なりません。

宗教学者の佐保田鶴治氏も、般若心経は全体の内容よりも、とにかくこの真言を繰り返し唱えることが大切であると言っています。

なのであれこれ言葉を尽くして、「空」や「無」について説明してきたお経になりますが、最終的には「無所得の修行」を行なっている時こそが「彼岸(悟り)に至っている時」であると説いてるお経が、般若心経なのです。

般若心経のまとめ

般若心経を大きくまとめると以下のようになります。

1(起):観自在菩薩が「智慧の彼岸に到る修行」を行なっていた時、この世は全て実体が無いと悟って苦しみから解放された。

2(承):実体が無いということは「有る」とか「無い」とか二元論の話ではなく、この世の真理である。

3(転):実体が無いということを自在に観じることができたら、彼岸(安らかな境地)に到ることができる。

4(結):その彼岸に到るための方法とは「無所得の姿勢」で一心に真言を唱えることである。

 

般若心経が成立してから約1000年の時が経った今でも、多くの仏教教団、各宗派で信奉されています。

こうして伝わるのには伝わるだけの理由があると思います。

仕事や人間関係、過去に起きた出来事の後悔や、将来への不安など・・・

今も昔も私たち人間は、必要以上に富や名声、美貌などを求めてしまったり、その中で頭の中でぐるぐると不安や悩みなどの考え事をしてしまい苦しんでしまいます。

そういう思いや心を一旦手放しにする姿勢が、お経を読んだり、写経をしたり、坐禅をしたりといった無所得の行であり、今を生きる私たちにとって、「般若心経」はとても大切なことを教えてくれるお経なのです。

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