お葬式での合掌に心を重ねる

「亡くなった人のことは悪く言うもんじゃない」

日本で古くから使われる言葉です。

これ以上何もできない、何も言えない人を悪く言っても、
生きている私たちにとっては損になります。

しかし、供養の過程においては、
そうとも言い切れないのではないかと私は考えています。

今回は故人へのネガティブな感情を、
合掌という行為から考えてみようとおもいます。

Contents

恨み憎しみは我慢すべき?

ご供養に携わっていると、
必ずしも故人が褒め称えられる人物であるとは限りません。

周囲に様々な悪影響や迷惑をかけて、
恨まれながら旅立っていったり、亡くなってホッとされている方もいます。

そして、ご遺族の多くはその恨みや怒りという感情を
「抱いてはいけないもの」と思って蓋をしてしまうことが多い気がします。

そうして感情に蓋をしてしまうと、お通夜・葬儀はもちろん、
その先の四十九日や一周忌を迎えても、消化不良の思いだけが燻り続けて、
故人を仏様だなんて思えないまま時間が過ぎていってしまいます。

よく、お葬式で気を張って思い切り悲しめなかった方が、
時間が経って精神的に参ってしまうというケースがあります。

そんな話があるように、亡くなってからお葬式、そして四十九日の間は、
悲しみも感謝も恨みも怒りも、あらゆる感情を故人にさらけ出して
故人と向き合った方が良いと私は考えています。

合掌に心を重ねて

以前、故人に戒授ける時に、そこに居合わせる遺族との関係の精算が伴う
という話を書いたことがあります。

これは、故人との間にある想いは綺麗なもの
ばかりではないということが前提となったお話です。

さらにそこで大きな意味を持っているのが、
一緒に合掌をするということです。

合掌には、右手を浄らかな理想の自分、左手を汚い面も含めた現実の自分、
その両方を合わせて相手の前に差し出す
というインドの考え方が根底にあります。

お葬式や供養で合掌をする時、まさに人は
故人に対して良くも悪くも嘘偽りない自分をさらけ出して向き合っているのではないでしょうか。

「故人のために」手を合わせるのではなく、
故人と自分の間に手を合わせている。

行為に心が宿ると考える曹洞宗ならばなおのこと、
そんな捉え方ができるのではないかと、最近よく思うのです。

まとめ

葬儀の捉え方は様々な角度があるわけですが、
今回は合掌という行いを心と重ねて考えてみました。

良くも悪くも全てを前に差し出すという行いであるなら
当然そこにはネガティブな感情もあっていいのではないでしょうか。

そして、そんな感情を思い切りぶつけた上で故人との関係を考えてみると、
実は恨んでいた故人の行いや人柄の中にふと学びがあったりするものです。

故人の良いところは人生の道標に、悪いところはガードレールにして、
様々な形での受け止め直し方ができていけば、
お葬式の意義も再認識されていくような気がします。

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