「曹洞宗には厳格な食事作法がございまして…。」
「たくあんも音を立てずに食べるんですよ。」
「お茶と漬物で器を洗うんですよ。」
曹洞宗の僧侶が食事の作法を紹介する時、よくこんな風に言うことがあります。
確かに意外性があって、珍しくて、厳しい感じがして格好はつきます。
しかし、これが日常生活でどれくらい活かせるか?というと微妙なところです。
そこで禅活では、毎月のワークショップなどを通して曹洞宗の3つの食作法を、普段の食事でも活かせる形にアレンジしてお伝えしてきました。
今回は、この後の食事からすぐに活かせる3つの食作法をご紹介します。
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そもそも、作法とは?
現代で作法というと、寺社仏閣のお参りや冠婚葬祭など、その世界やその道で定められたルール、あるいはタブーのような認識をされているのではないでしょうか。
しかし、作法という言葉を見てみると「法を作す」と書きます。
法とは、その道の教えや精神性のことと言っていいでしょう。
作すというのは、ある状態や形を作り上げる、という意味です。
そうすると、法を作すというのは、教えや精神性がそこに形作られるということになります。
つまり作法とは、定められた規則や禁止事項というよりも、教えや精神性を体に現すための実践方法なのです。
曹洞宗の食事作法
それでは、曹洞宗の修行生活に定められる作法は何を実践する方法かというと、それはお釈迦様の教えです。
お釈迦様の教えの実践というのは「お釈迦様の言いつけを守る」という意味ではなく、どちらかというと「お釈迦様のように生きよう」と、生き方の指針にすることです。
つまり曹洞宗の生活の作法というのは、「お釈迦様の生き方を実践する方法」ということになります。
それは、食事作法でも同じことです。
永平寺を開かれた道元禅師は『赴粥飯法』という著書に食事のうえでお釈迦様の教えを実践する作法をこと細かく示されました。
そしてその食事作法はそれから800年近く経つ今も曹洞宗の修行道場で実践されています。
ただしこの作法は応量器という特殊な器を使う上、準備なども含めて家庭でそのまま行うには難しい部分があります。
そこで、禅活では『赴粥飯法』に示される食事作法の中から、特に重要な3つの精神を取り上げ、普段の食事でも活かせる形にアレンジをしました。
家庭でできる3つの作法
①食器は必ず両手で扱う
1つめの作法は、「食器は必ず両手で扱う」。
お茶碗やお皿はもちろん、お箸も必ず両手で扱います。
少し具体的に見ていきましょう。
例えばお茶碗のご飯を食べる時。
まずは両手でお箸を取り、持ちます。
すると、片手がお箸で塞がってしまいますが、このようにお箸を握り込めば両手で持ち上げることができます。
つまり、お茶碗のご飯を食べる時はお箸→お茶碗の順に取り、置く時はお茶碗→お箸の順にすれば、ずっと両手で器を扱うことができます。
作法の意味
この作法は簡単なようですが、非常に重要な仏教の精神が込められています。
僧侶が自分で食材を手に入れたり調理をすることが許されず、托鉢で食事を得るインドでは、食事を入れてもらう器である鉢を非常に大切に扱いました。
それはその鉢によって食事を得られる、つまり鉢によって僧侶としての命を支えられているということに他ならないからです。
『赴粥飯法』では、この食器を丁寧に扱うことは非常に重視されていて、こんな一節があります。
鉢を把り、鉢を放き、兼ねて匙莇を拈ずるに声を作さしむること勿れ。
(鉢を持ち上げたり、鉢を追いたり、または匙や箸を扱う時には音を立ててはならない。)(『赴粥飯法』私訳)
「食器を扱う時に音を立ててはいけない」というのは本来、静寂を守るという意味であるかもしれませんが、禅活では食器を雑に扱ってはいけないという風に解釈しました。
食器がカチャカチャと音を立てるような雑な扱い方をすれば、食べ物をこぼしたり、落として割ってしまうこともあるかもしれません。
そこで、音をさせない=丁寧に扱うという意味で、禅活では作法のはじめに「食器は必ず両手で扱う」ということをお伝えしています。
②箸先を人に向けない
2つ目の作法は「箸の先を人に向けない」です。
そんなこと言われなくても箸先を人に向けたりしないよ、というそこのあなた。
飲食店などでよく見かけるこの形、やってしまうことはありませんか?
特に汁碗でやってしまいがちなのですが、ここで箸先を前に向けないよう、①の作法で行った箸を握り込む持ち方で、箸先が前に向かないようにしましょう。
箸置きが無い環境で、取り皿の上に置く場合などでも箸先を手前に向けるだけで印象が変わります!
作法の意味
仏教では、共に実践する仲間を敬うことを信仰の要の一つにします。
それは僧侶も一般も境目なく、仏教の実践者全てを指します。
この実践者を「僧宝」といい、仏宝・法宝と合わせて仏法僧の三宝と言います。
『赴粥飯法』には、仏法僧の三宝に誓い・見守られることで食事を仏教の実践とするためのお唱えがこのように示されます。
即ち槌を白ちて曰く、仰惟三宝咸賜印知 [仰惟れば三宝、咸く印知し賜え] (直ちに槌を打って唱えるには、「どうか仏法僧の三宝が、この食事を仏行としてお認めくださいますよう。」)
『赴粥飯法』私訳
食べる物、作ってくれた人はもちろん、その場を共にする人もまた、食事を仏行にしてくれているかけがえのない存在なのです。
そこで、お互いが共に仏道を歩む僧宝であるという敬意を表す作法の一つが、この箸先を人に向けないというものです。
口に入れた物、尖った物を人に向けることは立場の上下に関係なく失礼にあたります。
こうした他者への敬意を示すことも、大切な仏教の実践なのです。
③器は口元まで持ち上げる
最後の作法は、読んでお分かりになる通り「食べる時は器を口元まで持ち上げる」というもの。
ご飯茶碗や汁物のなどを持つというのは皆様にも馴染みのある食事マナーだと思います。
ただ、定食などではつい片手にご飯茶碗を持ちながらおかずに手を伸ばしてしまいがちです。
しかし、先ほどの食器を両手で持つという作法と合わせて、ちゃんと器を口元まで持ち上げるようにしましょう。
大きな器などで無理をする必要はありませんが、小鉢やお漬物など、可能な範囲で実践することが重要です。
作法の意味
『赴粥飯法』にはこのような一節があります。
須らく盋盂を擎げて、口に近づけて食すべし。
(必ず器を持ち上げて、口に近づけて食べなくてはばらない。)『赴粥飯法』私訳
ここで申し上げた作法がそのまま書いてあるわけですが、その意味を考えてみましょう。
食事というのは、よく「食べ物のいのちをいただく」と表現されます。
しかし、曹洞宗ではさらにその元を辿って、調理をした人、その食材を作った人、さらにはその食事の食材や調味料が手元に至るまでに関わった、あらゆるいのちとのご縁をいただいていると考えます。
曹洞宗で食前にお唱えしている「五観の偈」に「功の多少を計り、彼の来処を量る」という一節があるように、計り知れないご縁をいただいて生きていくこと、これが食の本質です。
今目の前にある食事には、その一皿一皿に計り知れないご縁が詰まっています。
そしてその計り知れないご縁をいただくにあたって、『赴粥飯法』ではお釈迦様の言葉を引用します。
憍慢にして食すべからず。恭敬して食せ。
(見下した態度で食べてはならない。慎み敬いの心をもって食べなければならない。)『赴粥飯法』私訳
つまり、食事に凝縮されたたくさんのご縁に対する敬意を表す作法、これが「口元まで器を持ち上げる」という作法なのです。
生活の指針としての食作法へ
曹洞宗の食作法は、僧侶が厳しさや難しさ、非日常性を強調してしまった為か、食事の「縛り」として認識されやすいという現状があります。
しかし、その意味合いをきちんと見てみると、その一つ一つが仏様の教えの実践に他なりません。
作法が細かく定められるのは、「窮屈さに耐える」という消極的な理由ではなく、むしろ「生活の一コマ一コマをお釈迦様のように送ろう」という非常に積極的な理由があります。
お寺に行った時、ワークショップやイベントの時だけではなく、日常生活で活かされてこそ、作法に意味があります。
頑なにどこへ行ってもこれを貫く、という必要はありませんが、思い出した時だけでも今回ご紹介した作法を実践しみてはいかがでしょうか?
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