法話「自分は食べるに値するのか?」by渡辺秀憲(2023/9/27禅活しょくどうにて)

毎月開催している精進料理&食作法体験ワークショップ「禅活しょくどう」では、
現在月替わりでメンバーの一人が法話を担当しています。

今回は2023年9月27日の回で渡辺秀憲さんがお話しした法話です。

Contents

法話「自分は食べるに値するのか?」

前回に引き続き、食事を五つの視点から見つめる「五観の偈」をテーマにお話しいたします。

前回は、一つめの視点として、その食事がどのような過程を経て目の前にやってきたかを推し量る、

一つには功の多少を計り 彼の来処を量る

という一節について、原山さんがお話ししました。

今回は五つのうちの二つ目です。

二つには己が徳行の全欠ぜんけつはかって供に応ず

「全欠」というのは「十全であるか欠けているか」という意味なので、簡単に現代語に訳すと、
「二つには、自らの徳行が足りたものであるか欠けているかを振り返り、食事の供養を受ける」
ということになります。

ここで難しいのが「徳行」です。

「徳」というのは簡単に言うと「プラスになるもの」とでもいうような、非常に広い意味があります。

そのため、人の道なら「道徳」、美しさや矜持を保つことは「美徳」、
信仰の功労には「功徳」といった、それぞれ徳があるのです。

では徳行とは何を指すかといいますと、それは「仏道の上で徳のある行い」ということになります。

つまり、仏道を生きる自らの行いに十分な徳が伴っていたかを振り返るのが、この一節なのです。

そしてこの一節は、前回原山さんがお話しした「一つには〜」と対になっていると考えることができます。

今目の前にある食事は、計り知れないほどの人や環境や食材とのご縁があってここに来たことを確認するのが
「一つには功の多少を計り 彼の来処を量る」という言葉です。

一方で、それを食べる自分の行いはどうだろうか?と自を省みるのが、「己が徳行の全欠と忖って供に応ず」ということなのです。

皆さん、これはすごく厳しい言葉だと思いませんか?私はそう思います。

自分の行いが目の前の食事に見合っているか?なんて考えたらなかなか自信をもって「はい」とは言えないような気がしてしまいます。

修行中の経験

永平寺での修行中、私はあまり優秀な修行僧ではありませんでした。

まず、曹洞宗の修行の要である坐禅が好きではなかったんです。

仏教や曹洞宗について何も知らないまま上山したため、坐禅の意義や魅力なんてわからないから全くモチベーションが上がらない。

坐禅をするたびに眠ってしまって、仲間や先輩に起こされるのが日常茶飯事でした。

さらには坐禅以外の、与えられた役のお務めも自信が持てませんでした。

今でも忘れられないのは、物品やお金を管理する役を任されたときです。

永平寺にお参りされたことがある方はいらっしゃいますか?

ある方はご存じかもしれませんが、永平寺には参拝者の方へ屋根瓦を補修するための寄付を募るカウンターがあります。

そのカウンターに一日立って、参拝時間が終わるとお金を数えて、金庫を管理している従業員さんにお渡しするというのが当時の私の務めの一つでした。

私はお金を数えるということが苦手でした。

指で弾くようにするお札の数え方などはここで初めて習ったくらいで、手元がおぼつかなかったことを覚えています。

カウンターの裏の事務所でお金を数えるのですが、そそっかしい私は小銭をよく床に落とすのです。

横で指導してくれる先輩や、事務所に詰めている従業員さんが呆れて、だんだん冷たくなっていった視線が忘れられません。

坐禅も一生懸命にやっているとはいえず、普段の務めでも周囲の足を引っ張っている。

自分の修行生活の惨めさに落胆していましたが、それでもおなかは減るんですよね。

むしろ私の場合、抱えたストレスを食べて発散しようとする傾向があって、おかわりのできるご飯を山盛りにしたり、余っているおかずをもらいに行ったりと、相当に食い意地が張っていました。

当時は食事だけが楽しみであった一方、そんな自分に嫌気がさしていました。

本当は自分に、このご飯を食べる資格などないのではないか、と心のどこかで感じている。

でもそれを考えるとストレスになるから、さらに食い意地が張る。

抜け出せない悪循環に陥っていました。

実家のお寺との間で

また、今年の六月にも大きな出来事がありました。

お寺の留守番などをしてくれていた、父方の祖母が倒れたのです。

二度の入院を経て、つい先日お寺に要介護者として帰ってきました。

幸い認知機能には障害が残らず、言葉や思考は入院前と同じくはっきりしているのですが、歩行器なしでは歩くことができなくなってしまいました。

今は師匠が主に祖母の介護をしつつ、母と二人でお寺の務めを担っている状態です。

私は現在、福島にあるお寺のことを家族に任せて東京に勉強しに来ている立場です。

来年春まではカリキュラムが残っていて、お盆やお彼岸などのでないと、なかなかお寺に帰ることはできません。

祖母が倒れたあと、お寺のことや祖母を迎える準備を手伝うことができず、無力さを感じました。

祖母が倒れるのがあと半年後だったら…。

そもそも、自分が東京に来ていなければ…などとあれこれ考えてしまいます。

生まれ育ち、修行後も東京へ送り出してくれたお寺が大変な時に何もできない自分の現状を考えると、それこそ自分には徳行のかけらもないように思えて、とても大きな負い目を感じています。

そのせいか最近両親と電話した時、自分の口からこんな言葉が口をついて出てきました。

「こんな時にそっちにいられなくてごめんね。東京に行かなければもっと二人が楽になったよね」

そういうと、二人はそれぞれ異口同音にこう言ってくれるのです。

「それは違う。こうなることだって覚悟して送り出している。お前は今の自分のやるべきことに集中しなさい」

こういわれて、改めて自分の今の生活がいかに両親に支えられているか、いかに自分が恵まれているかを思い知らされました。

正直「今自分はこの生活をしていていいのか、このご飯を食べるに値するのか」という考えを捨てられたわけではありません。

でも、二人がこう言ってくれている以上、自分の勉強や、禅活しょくどうでの自分のやるべきことを頑張らなければならないなと思うようになりました。

至らなさを背負って

二つには己が徳行の 全欠と忖って供に応ず

お釈迦様の時代から、仏教では至らない点があったらご飯抜き!というような罰はなく、それは永平寺を開かれた道元禅師にも通じています。

つまり、徳行に欠けていた、至らなかったからといってご飯を食べないというわけではないのです。

それなのに自分を振り返ることに何の意味があるのでしょうか。

仏教では、自らの教えを省み、反省する「懺悔」というものを大切にしています。

過ちを犯したならばなぜそれをしてしまったのか、どのような心理がそうさせてしまったのか、それをしっかりと振り返り、同じことを繰り返さないようにと肝に銘じます。

余程道を外れたことをしない限り、至らないところがあったからあなたは仏道脱落です、というようなことはありません。

逆に、優れた行いをしたからといって、それを鼻にかけて慢心することも戒められます。

ここには、卑下せず慢心せずに自らの行いを見つめて歩んでいくという非常に重要な心構えがあるのです。

修行道場にいた頃の私は、振り返ると「自分はこのご飯を食べる資格はないな」と自分を卑下して、そこで止まっていたように思えます。

自分はこのご飯を食べるに見合ったことをしていないなと思ったときに、じゃあ自分の修行態度を見直そう、役目をしっかり果たせるようにしようと考えるべきでした。

祖母が倒れてからのことでもそうです。

自分が役に立てていないことに後ろめたさを感じて目の前のことをおざなりにするのではなく、今ここで為すべきことを為そうと努めるべきだったのです。

祖母が倒れる前だって、私は両親や祖母にささえられて生きてきました。

自分はたくさんの縁に支えられながら生きていると改めて気づかされ、自身の至らなさや不甲斐なさを感じたのなら、今ここから、目の間にある務めをしっかりと果たすことが必要だったのです。

食べるということは生きることです。

多くのご縁が紡がれた食事に相対する自分の生き方はどうであったか、それを振り返る。

そしてそれが足りていたなら慢心することなく、足りなかったなら精進することを誓って、そうして食事をいただく。

「己が徳行の全欠と忖って供に応ず」

とは、結果や貢献度などの良し悪しで食べて良いか悪いかを判断するのではなく、客観的に自らを振り返って、ここからまた生きていくことを確認する言葉なのではないかと、私は捉えています。

自分はこの食事を食べるに値しないんじゃないか、どうせ自分なんて、と考えてしまうことはあると思います。

自分は食事に見合う行動をしている、できていると自信を持って言える人は果たしているのでしょうか。

だれしも何かしら「こうすればよかった」「今のままでいいのか」という後悔や後ろめたさを持っているものではないでしょうか。

私は、この一節を通して自らを省み、次の行動に活かすことが大切なのだと受け止めています。

食事をする前に、自分のそれまでの行動を振り返って、今目の前にある食事に見合うか考える。

自分が到らなくて卑下してしまうこともあるけれど、その上で自分の目の前のことと向き合い、為すべきことを全うする。

つまり、次の行動を徳行にする。

それこそが、今至らない自分が目の前の食事を頂くことへの責任を果たすことになるのだと思います。

ご清聴ありがとうございました。

 

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