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先週執筆公開した記事「電車でのイライラを抑える仏教的乗車テクニック」が、ありがたいことにたくさんの反響を呼び、当ブログ開設以来アクセス数1位となりました。
やはり、日常生活の中でイライラを抱えている方は多くいらっしゃるんですね。
そう考えると、みんながそれぞれ辛かったり大変な思いをして電車に乗っているのだから、「自分さえよければ」と考えるのはナンセンスだとわかりますね。
さて、今回はその記事を読んだ方なのか、Twitterの質問箱にこんな投稿がありました。
バスや電車で列に割り込んでくるおばさんとか、電車の中でマナーの悪いおじさんとか、歩行者が危険を感じるほどの距離感や速度で自転車を運転をする主婦とか、注意したほうがいいんでしょうか?
逆恨みも怖いですし...
関わらず、反面教師にしたほうがいいんですか?
どちらがあるべき姿なのか悩みます。
でもほんとは注意というか、文句いいたいのかもしれません。
なるほど、前回の記事は自分の中で感情をどう処理するか、というお話だったのでこうした疑問も出てくるのも納得です。
では今回は人間関係ごとに「人を注意する」ということについて考えてみたいと思います。
Contents
心構え①:他人には「注意」ではなく「お願い」をすること
公共の場所でたまたま出会っただけの人。
正直なところ、注意しようがしまいがそれっきりの存在です。
この場合は「注意」ではなく「お願い」をしましょう。
相手がどんな性格で、注意をしたら何を言われるかわからない…。
ご質問にもある通り逆恨みも怖いですよね。
じゃあどうしたら良いのかと考えると、ご本人の心の余裕と状況次第としか言えない部分があります。
ただし、その人は本当に無意識のうちに周りに迷惑をかけてしまっていて、言ってみたらすんなり納得してくれる、場合によっては感謝すらされることもあるかもしれません。
そこで「こうしちゃダメなんですよ!」というのではなく「こうしてもらえるとありがたいんですが…」という形で伝えてみてはいかがでしょう。
断られればそれまで、仕方ありません。
ただ、誰だって知らない人から怒鳴られたり、吐き捨てるようにものを言われれば気持ち良くはありません。
言葉には細心の注意を払う必要があるという点でも、非常に骨の折れるケースですね。
解説
仏教は、お釈迦様の教えによって人々を悩みから救おうという宗教です。
しかしその中で、実は救うことができない存在を認めています。
一闡提という仏教語がありますが、これは仏教をけなし、最初から一切聞く耳を持たない人のことです。
今、自分の力で何でも思い通りになっている人や、欲望のままに生きてそれが思い通りになっている人に多いかもしれません。
しかしそんな人もちょっとしたきっかけで大きく変わる場合もあるので、それを願って注意、というかお願いをしてみるのもアリかもしれません。
「縁なき衆生は度し難し(縁のない人を救うのは難しい)」と言ったりするように、ゆっくり腰を据えて話せない人を変えるのはかなり大変なことです。
その人が変わる一つのきっかけとなることを願って声をかけてみてもいいと思いますし、声をかけたら身の危険を感じるような相手であれば、反面教師でいきましょう。
心構え②:職場では、「今は」伝わらなくて当然と思うこと
今度は好き嫌いに関わらず付き合っていかなければならない上に、利益が関わってくる関係です。
注意ということなので今回は後輩に対しての場合に限定します。
ここで大切なのは「今は」伝わらなくて当然と思うことです。
職場という環境に関しては注意をしないと後々支障が出ることもあるので、嫌でも言わなければならない。
しかしその言うのが負担で仕事自体が嫌になってしまうなんていうこともあるかもしれません。
そこには、現代の人間関係が必要以上に踏み込まないものになっているという背景があります。
人間として深い付き合いをするつもりは毛頭なく、仕事だけの関係で自分の注意を聞かせようというのはかなりの無理難題です。
自分が新人の頃、先輩が自分をただの労働力として見ていたか、一人の人間としてみてくれたか、その違いを肌で感じ取った経験はありませんか?
実は右も左もわからない新人さんは、先輩が自分を見る「目」の違いはわかっています。
特に自分を「使えない」と思いながら見下している人の目にはすごく敏感です。
自分がすぐに出来た仕事がなかなか出来ない人や、自分が新人の頃に持っていたやる気を持っていない人もいるかもしれません。
一番良いのは、一対一でご飯でも食べながらその人の人となりを知り、自分の言葉を聞く耳を持ってもらえるような関係を築くことです。
しかし、職場での人間関係にも色々あり、プライベートで深く関わるということが出来るとは限りませんし、出来なければいけないと言うつもりもありません。
そこで、初めから自分の一言が相手に響くという前提を捨てて、「今は」伝わらないという覚悟を持って声をかけてみましょう。
その覚悟があれば、今は響かなくても、いつかこちらの想いに気づいてくれることがあるかもしれません。
解説
行いの結果というのはは必ずしもすぐに出るとは限らないものです。
その場ですぐに気づいて変わる人もいれば、何十年もかかって「あの時先輩はこんな思いで言ってくれていたのか」と気づく人もいるでしょう。
生涯気づかない人だっています。
人間は経験を積むと、どこかで自分の言葉に妙な自信を持ってしまいがちです。
そこで、100伝えて1伝わったら大成功と思ってみましょう。
残りの99は、うまくいけば一生をかけて伝わり、あとは生涯伝わらないと思えば少し楽になるはずです。
そして何より、そんな後輩に対するイライラや注意することへの悩みも、お給料の中に含まれているということを、忘れてはいけませんね。
ケース3:家族とは「分かり合えて当然」と思わないこと
実はこれが一番厄介です。
それは一番距離が近いから。
ここで大切なのは「分かり合えて当然」と思わないことです。
家族というのは、実はとても複雑な関係性です。
全てを知っているようで、実はそうでもなく、思い通りになるようでならない、そんな関係です。
余程のことがない限り「これでおしまい」とならない関係性だからこそ、他人より感情をむき出しにしてしまう相手でもあります。
だからこそ、感情まかせに言葉をぶつけるのではなく、冷静になれる時に「なぜ、どこを直して欲しいか」を伝える必要があります。
家族の間だからこそ、言葉を交わすことが大切なんです。
ただ、これがなかなか出来ないのが家族なんですよね。
親には親。子どもには子どもの気持ちやプライドがあります。
ただ怒り悲しみをぶつけるのではなく、より良い関係を築くための注意ができるといいですね。
解説
仏教ではこの世界を「一切皆苦」と言います。
ここで言う「苦」という言葉は、大元のインドの言葉をたどれば「思い通りにならないこと」という意味があります。
つまり、この世界は全て(一切皆)思い通りにならない(苦)のです。
たとえ家族であろうと、この世に思い通りになるものはないと考えてみましょう。
思い通りになると思っていた家族が、思い通りにならないから余計に頭にくる。
言うことを聞くと思っていた子どもが言うことを聞かなかったり、願望を叶えてくれると思っていた親が叶えてくれないから、他人以上に納得できないのです。
「家族なんだから」という前提を一旦横に置いて、「なぜ自分がそう思い、なぜそうして欲しいのか」を順序立てて話してみましょう。
相手が親でも子どもでも、祖父母でも孫でも兄弟姉妹でも、もしかしたら思いが伝わるかもしれません。
まとめ
人に注意をするというのは本当に骨の折れる事です。
一人一人にそれぞれ歩んできた人生や積み重ねてきたものがあるからこそ、一筋縄ではいきません。
注意をするというのは相手が構えているグローブに丁度良い強さで丁度良いコースのボールを投げてあげるキャッチボールのようなもの。
相手が捕れなければ成立しません。
たまにいる、ただ人を叱りつけ、罵声を浴びせるのが好きな人は一人でノックをしているだけです。
言葉によってその人を根底から変えることは、どんなに優れた僧侶でもなかなかできることではありません。
今回触れたケースは本当にごく限られた関係で、実際は人の数だけ人間関係は存在します。
この心構えは単なるイチ意見として、眺めていただければ幸いです。
また、現在人を注意をするということで悩んでいる方は、そもそも今すごく難易度の高いことをしているんです。
うまくいかないことをご自分や相手のせいにせず、ダメもとの精神でいくと少し気が楽になるかもしれませんね。