2024年2月まで毎月開催していた精進料理&食作法体験ワークショップ「禅活しょくどう」では、
現在月替わりでメンバーの一人が法話を担当していました。
今回掲載するのは、2024年2月7日の最終回で渡辺秀憲がお話しした法話です。
Contents
法話「顔もみたくなかった人」
改めまして、こんばんは。
一年間続いてきた現在の禅活しょくどうの最後の法話を担当させていただきます渡辺秀憲です。
よろしくお願いいたします。
皆さんは嫌い、あるいは苦手な人やものとの関係に悩んだことはないでしょうか。
おそらくほとんどの方にその経験がおありかと思います。
仏教では、人生で避けることのできない八つの苦の一つに、自分が憎いと思うものと出会う苦「怨憎会苦」を説きます。
人に限らず、嫌いな食べ物や嫌いな仕事、嫌いな環境などもそうです。
好ましくないものとの会うことが人生の苦しみの大半と言っても過言ではないでしょう。
私ももれなくそれに苦しんでいる人間の一人です。
中でも今回は、嫌いな人との関係についてのお話をさせていただきます。
修行中の出来事
私には、永平寺での修行中にどうしてもそりの合わない、同期の修行僧のAさんという人がいました。
彼は私と同じ日に上山した、同期の中でも特別な同日上山の仲間です。
そんな彼とは出身地も近く年齢も一つ違いだったので、修行生活の初めの頃からすぐに打ち解けることができました。
私と経歴が似ていたということも仲良くなった大きな要因だったと思います。
永平寺の修行僧は、大学で仏教の勉強をしてから上山する人が大多数でした。
そんな中で私と同じく、仏教以外の分野を勉強してきた人だったのです。
お互いの大学の分野は全く異なりましたが、自分と同じように仏教をほとんど知らない人がいることは、修行生活を送る上での励みのように感じました。
ところが集団生活を共に過ごす中で、彼に対してあれ?と思うことが増えました。
A君は、他人の間違いや不備をよく指摘する人でした。
同期の仲間の応量器の作法の間違いや、掃除のやり残しを見つけると、強い口調で指摘するのです。
「間違ってるって言わないと、秀憲のためにならないと思ってさ」
指摘の後に決まってこう付け足すのが彼の決まり文句でした。
私もよく彼から指摘を受けました。「まあ、言っていることはその通りだし…」と、最初の頃こそ素直に忠告を聞いていました。
しかし釈然としなかったのはA君本人も作法を間違ったり、お勤めのうっかりミスしたりということが多いということです。
朝のお勤めで必要な、お線香を立てる香炉を用意するのを忘れていたことなど、些細ではあるものの細かいミスをします。
そしてそんなミスをして落ち込んでも、次の日には立ち直って、堂々と他人のミスを注意するのでした。
そんなところが気になってくると、今度は他にも嫌なところが目につくようになります。
私は彼の他人との距離感が苦手に感じ始めました。
それを顕著に感じたことがあります。
永平寺では少ないながら個人の衣装ケースなどで私物を管理するのですが、彼は私の荷物から勝手に爪切りを取り出して使ったのです。
別に貸すのは構わないのです。
集団生活で、自分の荷物を開けられても気にしない人がいることも知っています。
でも私は、自分の知らないところで荷物を開けられるのを許せる人間ではありませんでした。
そんな出来事を経て、私はA君をそりが合わない人と思うようになりました。
もっとも、そう考えていたのはA君も同じようでした。
私はA君のことを大きな声で言えない程度には、大雑把な性格でうっかりも多いです。
上山したての頃は、鐘を鳴らしに行くことそのものを忘れたこともあります。
また掃除が苦手で、先輩からもA君からも、埃の拭き残しや落ち葉の掃き残しをよく指摘されました。
他にも私は知らず知らずのうちに、Aくんを失望させていたのかもしれません。
実際に「秀憲はもう少ししっかりした人だと思っていたのに」
と言われたことを覚えています。
当時は「自分のために言ってくれることだ。気に入らなくても聞いておかないと」
と自分を言い聞かせていましたが、A君のできていないこと、至らないことが目に付き、徐々に耐えられなくなってきました。
ある時、A君からのお小言の後に言われました。
「俺がこんなにうるさく言うのはさ、秀憲のためを思ってのことなんだ。反省して、次に活かしてくれよ」
私も我慢の限界でした。
先輩ならいざ知らず、自分だって完璧じゃないのに何でこんなに上から目線で言われなきゃならないのか。
至らないのはお互い様じゃないか。
とうとう言い返してしまいました。
「いい加減にしてくれよ。そっちだってお勤めをしっかりできてないじゃん。人のことをいう前に、しなきゃならないことがあるんじゃないの?」
A君はまさか言い返されるとは思っていなかったのでしょう。
「ああいや、俺の悪いところはなおすから…」
と彼は急にしどろもどろになってしまいました。
ここまでなら、私が言いたいことをいってスカッとした話で終わるのかもしれません。
しかし修行生活はそれからもずっと続いていくもので、何度も何度も彼と顔を合わせるわけです。
彼はそのあとも気になったことは指摘してきます。
しかし私は、もう言われっぱなしは我慢ならなくなってしまいました。
私も彼のお勤めの粗を見つけては指摘するようになってしまいました。
そうすると、A君の態度もどんどん頑なになり、お互いに言っても聞かないからあまり話さないようになりました。
その内に彼の顔を見るのも嫌になってしまって、朝のお勤めや坐禅で彼の隣に座るたびに気になって、嫌で嫌でたまらず、まったく集中できなくなってしまいました。
私と彼は、最終的に顔を合わせても挨拶するだけの、気まずい関係になってしまいました。
私は彼より早く、二年半で永平寺を後にしましたが、結局最後までそんなぎこちない間柄のままになってしまいました。
永平寺から帰ってきて少し経った頃、自分と彼はもっと仲良く修行できたのではないかと考えるようになりました。
振り返ると、私にもA君にも至らないところがあったのは間違いありません。
日々のお勤めに間違いやいい加減さが許されない以上、相手の間違っているところ、足りてないことを指摘し合うことはいいことのはずです。
でも結果的に、お互い顔を見るのも嫌な、憎しみに近い関係になってしまいました。
「苦」どこにあるのか
今回の禅活しょくどうでの法話はそれぞれ好きなテーマで、ということになり、私は彼とのことが思い浮かび、自分はどうすべきだったのかを考えてみることにしました。
そこで改めて「怨憎会苦」という言葉について調べなおすと「苦」という言葉が単なる苦しみという意味ではないことに気づきました。
「苦」という言葉は、インドの古い言葉で「ドゥッカ(dukkha)」というものが中国で翻訳されて日本に伝わりました。
この「ドゥッカ」という言葉は、思い通りにならなくて不満足な様子を意味しているそうです。
そうすると怨憎会苦とは単に「嫌いな存在と会うのが苦しい」ということではなく「会いたくなくても嫌いな存在と会うことへの不満」というのが本来の意味に近いのかもしれません。
さらに踏み込んで考えると、人に対して嫌いとか憎いと思うのは自分の心に他なりません。
つまり、怨憎会苦とは「嫌いという心が起こることが思い通りにならない不満足さ」なのではないでしょうか。
修行中私の気を散らし、不快にさせていたのはAくんという人ではなく、彼に対する自分自身の心であり、その心が思い通りにならないということだったのです。
自分の心が思い通りにならないように、A君の行動もまた、私の思い通りにすることはできません。
そうであれば、こちらの考え方と行動を変えるしかないのです。
私はA君に対してどのように接すればよかったのか、考えておりました。
その答えを探しているうちに、永平寺を開かれた道元禅師のお言葉を見つけました。
『正法眼蔵随聞記』という書物の中で、お弟子様の懐奘禅師に説かれた言葉です。
道元禅師は、たとえ修行僧の中に悪人がいても、むやみに憎んで非難してはならないというのです。
その上で、懐奘禅師にこのように示されました。
他の非を見て、わるしと思て、慈悲を以てせんと思はば、
腹立つまじき様に方便して、傍の事を言ふ様にして、こしらうべし
「他人の過ちを見て、悪いことだと思って慈悲の心で説得しようと思ったら、相手が腹を立てないように工夫して、間接的に他のことに託して、それとなくわかってもらうように導くのがよいのである」。慈悲とは、相手に安心を与えることと、相手に苦しみに同情して、それを取り除こうとすることをいいます。
思い返せば、私がA君に指摘するときは、あいつの粗を探してやろう、相手を言いくるめてやろうという気持ちが強かったように思えます。
これを続けることはA君のためにならないからという慈悲の心ではなく、あいつが気に食わないという恨み、憎しみのままに相手を非難していたのです。
A君の間違いを指摘するときに、慈悲の心のもとに、相手の非を直接あげつらうのではなく、より遠回しな言い方をすれば、彼との関係が少しは変わっていたのかもしれません。
何か指摘するにしても、相手に腹が立っていたとしても、怒りのままに指摘するのではなく、相手が嫌な思いをしないように指摘するには、と考えをめぐらせるべきだったのです。
実は、永平寺での修行が終わっても、彼との僧侶としての付き合いは続いております。
最初にお話ししたように出身地が近いこともあって、つかず離れずの距離感を保っております。
自分でも驚いたのですが、永平寺を離れてみると意外にも抵抗なく彼と話せるのです。
先日は、曹洞宗主催の勉強会のお誘いを頂いて、一緒に受講することになりました。
修行道場という環境では彼の言動が気になってしまいましたが、環境が変わってみればお寺同士、副住職同士という境遇の近さから分かり合えることがたくさんあります。
これからのA君との付き合いの中でまた立場が変わり、お互いの悪いところが再び目に付くことは起こりうると思います。
その時は、感情のままに非難することはしないようにしようと思います。
A君とのご縁を、再び憎しみ合う関係にしないために、そしてお互いがよりよい刺激を与えあえる関係でいるためにも、「他の非を見て、わるしと思て、慈悲を以てせんと思はば、腹立つまじき様に方便して、傍の事を言ふ様にして、こしらうべし」この教えを胸に生きていまいります。
今日こうしてお話しする機会を頂いて、過去の自分を見つめなおすことができました。
ご清聴ありがとうございました。