2024年2月まで毎月開催していた精進料理&食作法体験ワークショップ「禅活しょくどう」では、
現在月替わりでメンバーの一人が法話を担当していました。
今回掲載するのは、2023年12月13日の回で渡辺秀憲がお話しした法話です。
Contents
これからのために食べる
前回までに引き続き、「五観の偈」をテーマにしたお話をしたいと思います。
今回は五つ目
五つには成道の為の故に今此の食を受く
についてのお話です。
五観の偈について簡単におさらいします。
曹洞宗の大本山永平寺を開かれた道元禅師が著した書物に『赴粥飯法』というものがあります。
「五観の偈」とは、その書物の中で紹介された、仏道修行における食に対する五つの心構えが示された詩です。
ここまで毎月一つずつ、四つ目までお話しし、その五つ目が本日のテーマである
五つには成道の為の故に今此の食を受く
です。
現代語に訳すと、「成道のために、今目の前にある食事の供養を受ける」になります。
ここでキーワードとなるのが「成道」です。
「成道」というと、毎年この時期に禅活しょくどうにお越しの皆さんにはなじみ深いかと思います。
そう、十二月八日の「成道会」ですよね。
成道について、仏教語辞典にはこのように書いてあります。
サンスクリット語は、完全に悟るの意。
〈悟り〉を完成すること。とくに釈尊のそれを指す。
〈得道〉〈成仏〉に同じ。『岩波仏教辞典』
「とくにお釈迦様の」とある通り、「成道会」はお釈迦様がお悟りを開かれたことをお祝いする行事ですので、ここではお釈迦様のお覚りのことです。
では「五観の偈」の「成道」はどうでしょうか。
食事に対する心構えですので、この成道は自分のことになります。
では、私たちが「悟りの完成」のために食事をいただくとはどういうことなのでしょうか。
今回は、お釈迦様の成道のお話から、そのヒントを学びたいと思います。
お釈迦様の成道
お釈迦さまは、今のネパールの西南部にあったという、釈迦国という国の王子でした。
王族として豪奢な生活を送っていたそうですが、その性格はとても繊細な内向的だったそうです。
お釈迦様は何不自由ない生活を送る中で、人が老いるということ、病気になること、死ぬということから逃れられない、ひいては生まれるということも思い通りにならないと気づき、思い悩みます。
そして二十九歳の時、ついに生老病死の苦しみから離れる方法を探すために、王族としての地位や、妻や息子という家族を捨てて、出家修行の道を歩み始めました。
出家を果たしたお釈迦様は、当時修行者が多く集まっていた、現在のインドにあるマガダ国の都、ラージャガハというところに赴きます。
ほかの修行者と同じく、托鉢で食べ物を供養してもらう生活を始めました。
そこで当時、瞑想の修行者として名高かった二人の仙人の弟子となります。
しかし、すぐにそれぞれの瞑想法をマスターしてしまいます。
そして、その二つの瞑想法では、生老病死の苦しみへの解決策は見出せませんでした。
次にお釈迦様は、ウルウェーラーと呼ばれる地方に赴いて、「苦行」という修行を勤めます。
仲間の修行者と励ましあいながら、六年もの間苦行に励んでいたとされます。
最終的に、息を止める苦行、食事を摂らない苦行に打ち込み、命を落とす一歩手前まで自分を追い込みますが、それでも生老病死の苦から離れることはかないませんでした。
そこで苦行にも見切りをつけ、ネーランジャラーという河のほとりにて、弱った体を癒すことにします。
苦行の前に行っていた托鉢の修行を行い、体調を整えることから始めたのです。
そのあと、坐禅の修行によって心を静め、生老病死の苦から離れるための方法に思いをめぐらせるのです。
そして、菩提樹という木の下での坐禅の末に、お釈迦様はお悟りを開かれたのでした。
四諦八正道という、生老病死の苦から離れる実践方法を見出されるのです。
この成道の前に、食の供養に関する有名な逸話が残っています。
ある日、お釈迦様がニグローダーという大きな木の下で坐禅をしていると、近くの村に住むスジャータという娘から乳がゆを捧げられました。
当時のスジャータは神様の存在を信じており、木の下で座るお釈迦さまを神様だと思って供養したのだそうです。
またもう一つ、供養の逸話があります。
今度はサーラ樹というという木の下で坐禅をしていると、ソッティヤという農夫が通りかかり、お釈迦様に草の束を供養したといいます。
草の束をお尻の下に敷いてもらって、坐禅の助けにしてもらおうとしたのです。
お釈迦様は、苦行から離れてすぐに成道に至ったわけではありません。
まず出家した当初と同じように、托鉢の修行によって食事の供養を受けました。
坐禅のさなかも、乳がゆや干し草の供養を受けました。
俗世の快楽や苦行による禁欲から離れた状態で、供養を受けて生活を整えたうえで坐禅をすることで初めて生老病死の苦へと向き合えたといえるのです。
食事の先にある「これから」
お釈迦様の成道からは、ご供養を受けた後に自分はどうするのかということを考えさせられます。
私が今までこの禅活しょくどうでお話したことの中で「これから」自分がどうするのか、という話をいくつかいたしました。
たとえば四月にした、福井県の大本山永平寺から福島県の自分のお寺に帰った時のお話です。
福島まで歩いて帰ってこいと言われたことへの反抗心から、法衣というしかるべき格好があるというのに、道中を私服で歩いたという、まったく胸を張れないお話でした。
その道中、見ず知らずのおばあさんからみかんのご供養を受けました。
その時は、自分はこんなに不真面目に歩いていて、供養なんて受ける資格なんてないのにもったいないなと感じる一方、おばあさんの供養の心に、これから少しでもこのみかんに見合うようになろうと思ったことを覚えております。
九月には、永平寺での修行僧時代の話をしました。坐禅に身が入らず、お勤めもきちんと勤められない中で、ストレスで食い意地を張ってばかりいたことの話でした。
今も「立派な修行をしてきました」と胸を張ることはできません。
同じ日に、祖母が脳出血で倒れ、要介護者として寺に戻ってきた話もしました。
先日三度目の手術を終え、歩行器が手放せない生活を送っております。
福島の寺に残っている父と母が介護生活をしています。
二人だけでは手が足りず、時には叔母が手伝いに来ております。私は電話で両親の愚痴を聞くか、土日の休みに寺に戻ることくらいしかできておりません。
これは今でも状況は変わっていません。
それでも、行いの結果や良し悪しで自分を卑下して終わるのではなくて、食事が自分のそれまでの行いに見合うのか反省をして、次の行動に活かすのが大事だ、とお話をしました。
お釈迦様の成道のお話は、私の今までの体験にも通じてくるのだと思います。
見ず知らずのおばあさんからもらったみかんを、今までの自分に見合わないからと言って食べないことは、私に対して供養をしてくれたおばあさんを無下にする行為です。
そのみかんを糧に、これから供養に見合うよう修行していくのです。
永平寺の修行生活が自信を持てるものではなかった、自分の寺の現状に対して何も助けになれていない、だから目の前のご飯を食べない、ということにはなりません。
自分は至らない、だから自分の修行のために食事を頂き、次の行動に活かしていくのです。
お釈迦様が、供養を受けて生活を整え、生老病死の苦へと向き合ったように、私たちもまた食事を頂き、体の健康を整えた上で、食べた後自分がどう生きるか考えていくことが大切なのです。
これまでの自らを省みた上で食事を頂き、これからお釈迦様の教えを実践していくこと、つまりお釈迦様のお悟りとつながる「道を成す」ということが、私たちの成道なのではないでしょうか。
ご清聴ありがとうございました。