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今回のミーム考、テーマは「誰得」(だれとく)。
これは「誰が得するのか」を略した言葉で、たとえば……
「この法案の意味わからん。誰得……」
「その記事、ニッチ過ぎて笑うわ。誰得(笑)」
というふうに、物事の意味のなさや価値のなさを指摘する際に使われます。
(※「誰得」に対して「俺得(俺が得する)」という略語もある)
禅活の記事の中でも、誰得感の強いインターネット・ミーム考。
今回もお付き合いいただければ幸いです。
Contents
「誰得」への反発
「誰得」が使われ始めたころ、ちょうど私は遅めの大学生活を満喫しておりました。
ツッコミを入れる、という行為がコミュニケーションの一形態として認知されたということもあって、言葉の響きも良く、使いどころも多い「ダレトク」は、当時、爆発的に広まったように思います。
しかし、そんな「誰得」の流行を、私はかなり冷ややかな目で見つめていました。
というのは、「得」か否かで物事の是非を判断するという行為が、とてもみみっちく感じたからです。
こんな風に思っていました。
「誰得」と聞くたびに、ひとつひとつの行いが、見返りや対価を求めたもののように感じられて、つまらなくなっていくような気がしていたのです。
さらに言えば、人の心を本当に動かす芸術や文化は、損得を離れたところで形作られると私は考えています。
(根拠はありませんし、ウケを狙って良いものができる場合もあるでしょうが)
「理由」を求めてしまうクセ
「誰得」に現れているのは、損だとか、得だとかいう価値判断もそうですが、私たちが行動にいちいち理由を求めているという状況もあると思います。
私たちは普段の生活の中で、
「〇〇は理屈にかなっているから正しい」
「△△をする理由は見当たらない」
そんな判断をごく当たり前のこととして繰り返しています。
失敗しないように……危険を回避するために……確かに、事前に結果を予測するのは、重要なことです。
しかし本来、理由や理屈は「こういう結果になったのは、このような理由があったからだ」という風に、後から結果として明らかになることのほうが圧倒的に多いものです。
行動を起こす前に理由ばかり求めても、無数に存在する理由の中から自分に都合のいいもの(あるいは悪いもの)を引っ張ってくるばかりで、詮ないことではないかと私は思います。
私自身、何かにつけ理屈をこねてしまう性質なのですが、最近は「あ、これじゃあ理屈バカだ」と思えるようになりました。
予測はほどほどに、行動を重ねていく。
こうした姿勢が必要なのだと思います。
「損得」に支配されている
言うまでもなく、私たちは経済活動によって集積した「得」による物質文明の恩恵にあずかりながら生きています。
それは間違いなく、人を幸福にさせる要因のひとつであると言えるでしょう。
例を挙げれば、人間の寿命は延び、20世紀初頭に15~20%あった新生児死亡率は2017年は1,9%になりました。
また、しかるべき手続きさえ踏めば、最低限の生活は国が保障してくれます。
経済は常に発展しており、私たちの生活は、年々豊かさを増していると言うこともできるでしょう。
しかし、こうした生活の向上を支えた経済発展は、結果的に「損か得か」の二元論が意思決定を左右する指標として必要以上に重視される原因にもなっているような気がします。
「誰得」という言葉が、多くの人に理解され、使われているのは、無意識のうちに「得がなければ正しくない」と思い込まされていることの証明ではないでしょうか。
しかし、すでに多くの議論で言われているように、物質的な豊かさが必ずしも人間の幸福につながるわけではありません。
豊かさを追い求めること自体が間違っているとは思いませんが、一方で人間に精神的な充足をもたらすには片手落ちであることもまた事実なのでしょう。
「得」から「徳」へ
仏教には「徳」という考え方があります。
「徳」とは、ざっくばらんに言えば「善行ポイント」。
その人の善い行いによって「徳」が積まれ、それが積まれれば積まれるほど、人は仏に近づいていくと考えます。
仏は、仏教の説く人間の理想の姿。
「得」を求めるのではなく、善行を重ねて「徳」を積み、さらにその「徳」を自分以外に振り分けていくのが、仏教の説く生き方です。
机上の空論に聞こえてしまうかもしれませんが……
一つ一つの行いが「誰徳」なのかを考えて実践していけば、自らも周りも自然と幸福になっていく。
私はそう信じています。
<インターネット・ミーム考~「誰得」 終>