なんか息苦しいと思う、 マナーの話① ~おのれ謎マナー!の巻

W杯!

日本代表!

強豪ドイツに勝利!!!

いやあ、ジャイアントキリングは夢がありますね!

私も興奮してしまいました!

 

さて、勝利の熱狂の中で試合に注目が集まるのは当然のことながら、

SNSなどでは、日本人の「マナーの良さ」にも注目が集まっているようです。

サポーターによるスタジアムのゴミ拾い活動

日本代表が使用したロッカールームをきれいに清掃していくこと。

あるいは、勝利の熱に浮かされた群衆が渋谷のスクランブル交差点で大騒ぎ!

……は、していても、信号が赤になったらすみやかに車道から出ていくなど。

 

動画や画像を目にした海外のサポーターから、

「日本人は民度が備わっている」

「素晴らしい行動だ」

などのコメントがされているようです。

確かに、日本人は外国の方に比べて、マナーを強く意識する国民性を持っているのかもしれません。

 

一方で最近は、

「マナーがあることで、かえって窮屈になってしまっているんじゃないか」

と、思うこともあります。

マナーの本義は他者への気遣いだそうです。

気遣いをもとに、自らの行動を律することで、人と人の関係性を豊かにしてくれるはずのマナー。

今回は、マナーが変な方向に行っているんじゃないか、そういった目線で記事を書いていきます。

マナーにまつわる「行き過ぎ」

今回、マナーに関して考えてみようと思ったきっかけは、とあるTV番組でのマナー講師の炎上問題でした。

その講師の方はテレビなどのメディアに頻繁に登場される方で、厳しい指導で有名であるとのこと。

しかし、その番組ではあまりにも厳しい指導によって、対象の女性が泣き出してしまったそうです。

そもそも番組の演出なのかもしれませんが、

人を不快にさせないためのマナーを教える人間が、

大人が泣いてしまうほどの追い詰め方をするのは、行き過ぎじゃないのか、

そう感じてしまいます。

 

他にも、

「いただきますなんて家で言え!」

「頂戴いたしますだ!」

というような指導もあったようです。

いただきます、頂戴いたします、のどちらも敬語ですし、意味するところも同じ。

異なるのは、敬意の込め具合だけです。

正直言って、どちらでもかまわないように思いますし、

そんなことでいちいち罵られていては、落ち着いて食事もできません。

私個人の感覚で言えば、

「頂戴いたします」

を用いるべきなのは、相手がよほど目上の場合に限ります。

口調が丁寧であるのに越したことはありませんが、それも行き過ぎると「慇懃無礼」というもの。

より丁寧に、よりエレガントにという意識が、

近年のマナー界隈では暴走し、行き過ぎているのではないか?

そのようにも思えてきます。

 

確かに、

マナーというのは習慣として身に付くものだと思います。

マナー指導において、それまでの習慣を変えさえて、

新しいマナーを習慣として身に付けるためには、

時に厳しすぎるほど厳しい指導でなくてはならないこともあるのでしょう。

 

一方で、

あまりに厳格すぎるマナー指導は、

多様性や寛容さを損なわせてしまうのではないか。

このようにも思えるのです。

正解はどこ?「たったひとつのマナー」が損なわせる寛容さ

皆さんは入室の際、ノックを何回しますか?

トイレは2回?

通常は3回?

4回は多すぎ?

わが国では、3回が標準とされることが多いそうですが、

世界標準だと、基本的なノックの回数は4回だそうです。

 

また、洋食を食べる際、

ライスはフォークの背に乗せますか?

腹に乗せますか?

これも、背に乗せるのはイギリス式、腹はフランス式という説があったり。

あるいは、フォークは「すくう」か「刺す」のが本来の用途であるから、

背に乗せるのはマナー違反であるという説もあるようです。

 

こうなってくると、マナーの「正解」がどこにあるのか、さっぱりわかりません

 

洋食の例で言えば、私は背に乗せた方が「食べやすい」ので、いつもライスはフォークの背に乗せています。

そもそも、本場の洋食でステーキのおともにライスを食べることがどれだけあるというのでしょうか。

わけのわからないマナーの縛りによって、食事中、クルクルクルクルと何度もフォークを持ち替えるわずらわしさに耐えねばならないのでしょうか。

 

マナーにおける「正解」の根拠の一つは、

所作や威儀を統一することによる美しさ、エレガントさだと私は考えます。

 

確かに「所作を統一する」というのはエレガントなことです。

皆で揃って「いただきます」と言ったり、

お辞儀が揃っていたりするのも見ていて気持ちがいいものです。

 

しかし、それも行き過ぎると、窮屈です。

 

複数人で訪れた外食で、全員分の食事が提供されるのを待って「いただきます」をしていたら先に着いた料理は冷めてしまいますし、

左利きの人が「所作を統一するべき」なんていう理由で右利きに矯正されるのは行き過ぎだと私は思います。

その人の体格や性格、育った地域や環境によって、身に付く常識などが違うのは当然のことです。

あまりに目に余る場合や、所作を統一すべき明確な理由がある場合などを除いて、

マナーには「ある程度の緩やかさ」があってもいいのではないでしょうか。

これが正解だ!と、一つに限る必要はないと思います。

 

また最近では、

芸能人がテレビ番組で見せた「あまりよくないマナー」に対し、

苛烈すぎる批判が集まるということもある様子。(箸の持ち方、食べ方、飲み方など)

マナーが提供する「正しさ」が、

人を批判したり、貶めたりする道具となっている?

だとすれば、

あらためてマナーの意義を確認する必要があるのではないでしょうか。

跋扈する「謎マナー」

マナー講師の方を揶揄した「失礼クリエイター」という言葉があるそうです。

確かに講師の方が「それってホント?」というような疑わしいマナーを、

さも常識であるかのように語るのは、マナー指導ではなく、もはや失礼指導。

言い得て妙だな、と思います。

 

出されたお茶は飲んではいけないとか、

半分以上飲まなくてはいけないとか、

どちらでもよいとか。

腕時計は付けなければならないとか、でもGショックはダメとか。(ちなみに私は腕時計が好きじゃないです。)

金属製の名刺入れは使うべきでないとか。

スキンヘッドは失礼とか。

ハンコはお辞儀をしているように押すべしとか。

黒マスクに白いシャツはNGとか。

あれも失礼、これも失礼、もっと失礼、もっともっと失礼。

失礼、失礼、失礼、サイソワカ。

 

どう考えても意味があると思えないマナーを気にしながら生きるなんて、

ばかばかしいですよね。

 

ちなみに、私が経験した修行生活でも、

「これっていったい何の意味があるんだろうか」と疑問に思う作法はありました。

しかし、そのいずれにおいても、繰り返すうちに、

「ああ、この作法はこういう意味があるのか」と納得できました。

 

たとえば、私の場合、

「食事の際には肘を張る」という作法がそれにあたります。

初めは、

「何これ?食べづらいし、意味わからん」

と思いましたが、何度か食事を取っているうちに、

「そうか。肘を張らないと、衣の袖が垂れて器にかかるのか。」

と、納得できました。

袖が器にあたってひっくり返すようなことになれば、

自分だけでなく、周りにも迷惑をかけます。

 

修行道場の不思議な作法は、

「謎マナー」ではなく、

一見意味が分からなくても経験や伝統に裏打ちされた「納得の作法」だったのです。

マナーのありかた

相手を気遣い、人間関係を円滑にすることがマナーが存在する意味だと私は思います。

誰もが自分の思うままに振る舞い、他者を軽んじる世の中は、

正解が見えず、誰にとっても生きづらいものとなることでしょう。

 

一方で、

人間のありとあらゆる活動をマナーの名のもとに縛り上げていけば、この世の中は、

正解から外れることを極端に恐れなければならない、生きづらいものになると思います。

 

今、あらためてマナーについて深く考えるときなのかもしれません。

 

文章が長くなりすぎてしまいました。

このあたりでいったん区切り、次回の記事も、マナーをテーマにします。

マナーか、美徳か、作法か。

そんな切り口で書いてみようと思います。

それでは、ここまでお読みいただきありがとうございました。

この記事が気に入ったら
フォローしよう

最新情報をお届けします

Twitterでフォローしよう

おすすめの記事