オードリーのライブに行ったら、最近の虚しさの理由がわかった

正直なところ、YouTubeもブログもSNSも含め、ネット上での活動に虚しさを感じていた私。

もちろんこのコロナ禍においては、Zoomをはじめとする配信ツールがあったおかげで
禅活の活動を継続し、認知度も上がりました。

ただ、なぜか最近は以前ほどの熱意ややりがいを感じることができていなかったのです。

しかし先日、とある出来事をきっかけにその理由や折り合いのつけ方が見えた気がするので、
そのお話をします。

初のお笑いライブ

私には感覚を信頼している芸能人が3人います。

一人は伊集院光さん。これは度々お話しています。
次に星野源さん。歌詞をご紹介させていただいたこともあります。

そして今回私に気付きをくれたのが最後の一人、オードリーの若林正恭さんです。

若林さんは以前本をご紹介させていただきましたが、
ラジオを聴くようになって以来、その視点や考え方に大変感銘を受けてきました。
(若林さんのnoteの有料記事はぜひ皆さんに読んでいただきたい)

そんな若林さんリスペクトな私が、ついに生でオードリーのネタを見る機会がありました

11月27日、ダメ元で抽選に応募したオードリー主催の「1Hネタライブ」に当選した私は、
北千住に降り立ちました。

オードリーのお二人をはじめとした5組がネタを披露するこのライブで、
私は人生で初めてお笑いライブを目の当たりにすることになったのです。

画面との違い

出演したヤーレンズルシファー吉岡ゾフィーザ・ギース

正直なところ、オードリー以外の4組は生で見てみたい!という方々ではありませんでした。

しかし、どの組も本当におもしろい。

笑えなかったらどうしよう…なんていう不安は全く必要ありませんでした。

気づけば声を出して笑っていました。

これが自分でも意外で、普段画面で観ていても一人でニヤッとすることはあっても
こんなに笑うことはありません。

心から楽しめたのと同時に、この違いはなんだろう?という疑問が湧きました。

画面を超えることができないもの

帰り道、私はお笑いを見るうえで画面と生で何が違うのかを整理していました。

以下に、そこで気づいたことまとめてみました。

①五感

まずは五感です。

映像では視覚と聴覚は伝わっていて、嗅覚味覚触覚は伝わらない。

これが私の認識でした。

しかし実際に芸人さんのネタを生で見た時、
視覚的には正面でも近くもなく、聴覚的にはイヤホンで聴くよりも遠いのに、
なぜあんなに自然と笑いがこみ上げたのか。

それは、想像の倍くらい厚い春日さんの胸板や、4Kどころではなく躍動感あふれる動き、
となりでよく笑っていた女性のお客さんの声や、若林さんが春日さんを叩く音など、
映像には収まらない情報が会場にあったことが一つの要因だったと思います。

さらに、会場の匂いや、飲食禁止だったので開演前に口にしたお茶の後味、
笑い声や拍手による空気の振動など、五感全てに笑いがはたらきかけてきていました。

この感覚は初めて生でブレイクダンスを見た時の感覚に近かったかもしれません。

映像は映像、生は生という全くの別物であることに気づかされました。

「自分に向けられている」という感覚

そしてなにより大きな気づきがこれでした。

私は集中力がなく、動画なども"ながら"で観ていたり、
今一つだと思うとすぐに別の動画に切り替えてしまいます。

しかし会場では、オープニングトークからネタ、エンディングトークに至るまで、
全てが自分に向けられているという強い感覚があり、
60分の間全く注意が逸れることがありませんでした。

この、目の前の人が作り上げたものを私に向けて披露しているという感覚、
ここに画面上との圧倒的な差を感じました。

視聴者ではなく参加者としての自分がそこにいて、
その自分に向けられている言葉や芸というものの、
逃れようのない迫力や思いがかなり強く私の心にはたらきかけてくれていたことに気づきました。


*開演前

虚しさの正体

この気づきによって、私はネット上での活動に感じていた虚しさの正体に気づきました。

一つは、どれだけ工夫をしても画面を超えて届けることができないものがあるということ。

もう一つは、画面を隔てることで、人は人を消費できるということに気づいたことです。

一つめについては度々感じる機会がありました。

言葉や編集によって8割くらいのものが伝わる思っていましたが、
反応を確認しながら伝えることの半分にも及ばない…。

そんな自分の実力不足を痛感しながら続けることの辛さだったのかもしれません。

そして二つ目は、特にTiktokを使い始めてから感じていたことです。

感想や意見はほとんどなく、挨拶のようなものもなく
「〇〇お願いします」というコメントが多く寄せられます。

それが悪いわけではありません。

ただ、画面を隔てると、人は直接しないようなコミュニケーションをとれる
ということを改めて感じてしまったのです。

自分の望む内容になるように、注文をするような、機械的なコメントが積み重なると、
私はいつのまにか義務感に駆られたり強制されながら発信している気持ちになってきました。

自分が娯楽の中で消費されているような感覚は、それを覚悟していなかった私にとっては
非常に虚しく感じられたのだと、今回気づいたのです。

だからこそ見えたこと

ここまで非常にネガティブな内容に見えてしまったかもしれませんが、
私はこの気づきによって非常にポジティブになれました。

なぜなら、それによって現場の重要性を再確認できたからです。

元々現場で活動してきた私が、ネットを主戦場としたことで、
いつの間にか虚しさを感じていました。

しかし、今一度現場に立つ機会を増やすことで、
ネットと現場を両輪として再スタートできる気がしたのです。

これは不立文字ふりゅうもんじや面授という、曹洞宗が大切にしてきた、
体感することの意義を見つめ直す機会だったのかもしれません。

ネットで届けることができないものがあるから現場の魅力があり、
現場では届かないところまで届くからネットの魅力がある。

そんな、自分が持っている活動の場、そして自分の足元を見つめ直すきっかけを
オードリーのお二人がくれました。

 

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