なんか息苦しいと思う、 マナーの話②~マナーと作法と美徳

前回の私の記事↓

では、世間に跋扈する謎マナーや講師の方の炎上問題をテーマに、

マナーのあり方について思うところを述べてみました。

 

マナー、作法、美徳。

これらは多くの共通点を持ちます。

たとえば、

「他者への気遣い」

「礼儀正しくする」

「威儀を正す」

などがそうでしょう。

 

ネット検索で「マナー」と調べれば、端的な説明として「礼儀作法」と出るように、

しばしば、これらは同一あるいは非常に近しいものとして扱われているように思います。

一方で、これらの違いを明確にイメージできる人はあまり多くないのではないでしょうか。

正直なところ、私も「マナー」という外来の言葉が本来持つニュアンスを正しく把握しているわけではありません。

比べるにしても、あくまで私自身の経験や知識に照らしてということになりますが、

今回はマナーを、作法や美徳と比較して考えていこうと思います。

Contents

マナー、作法、美徳が目指すところ

前回の記事では、マナーが存在する意義を「相手を気遣い、人間関係を円滑にすること」であろうとしました。

では、類語として扱われる美徳や作法ではどうでしょうか。

私は、このように整理します。

 

美徳→「道徳や信念による正しさにもとづいて起こす行動」

作法→「信仰による正しさにもとづいて起こす行動」

 

作法、とはそもそも仏教の言葉で、読み下せば、

「法を作す」(法をなす)

となります。

つまり、仏の教えを体現するというのが本来の意味となります。

 

美徳や作法にもとづく行動の根底にあるのは、

その人自身の信念・信仰や、それまでに身に付けてきた道徳観・価値観となります。

そこには他者への気遣いも当然含まれますが、

信念や信条に比べ、それはあくまで二次的なものと捉えるべきでしょう。

 

美徳や作法に基づいた行動が起こされた場合、

自然と「他者への思いやり」や「関係の円滑化」は果たされる場合が多いと思います。

ただし、美徳や作法に基づいた行動は、必ずしも他者にとってプラスになるとはかぎりません

これらについて理解を持たない人にとっては、「偽善」や「不快」あるいは「嫉妬」といった感情を巻き起こす可能性もあります。

 

例を挙げて考えてみます。

W杯日本戦のゴミ拾いは「マナー」がよかったのか?

前回、「日本人のマナーの良さ」が称賛された例として、

試合終了後のゴミ拾い活動を挙げました。

しかし、私はこれが「マナーの良さ」による行動とは思えませんでした。

 

海外のサッカーでは、観衆が暴徒と化すなどして試合や運営が阻害されるという事態が起こります。

こうした事態は選手、運営、他の観客や、時に無関係な人なども巻き込む場合があり、

他者を気づかうというマナーの意義に照らせば、

そうした事態を起こさないように心がけるのがサッカー観戦の「マナー」となるのではないでしょうか。

つまり、例を挙げれば、

「試合を妨害しない」

「試合後はすみやかに会場を去る」

「暴力沙汰や騒ぎを起こさない」

などがサッカー観戦の「マナー」にあたると私は考えます。

 

では、ゴミ拾いがどうかというと、これは「美徳」にもとづく行動だと思います。

 

試合ができる環境に感謝し、

選手の研鑽を褒めたたえたい、

そうした感謝や尊敬の念が起こさせたのが日本人サポーターの「ゴミ拾い」だったのではないでしょうか。

 

これはもはや、他者への気遣いというレベルを超えています。

 

むしろ、他者がどう思うかよりも、

「自分がそうしたいからする」

「自分が正しいと思うからする」

「感謝や尊敬の念をゴミ拾いという形にすることで、自分の心が満たされるからする」

のが、W杯試合終了後のゴミ拾いのモチベーションなのではないでしょうか。

 

そして、日本人サポーターのゴミ拾いについては多くの称賛の声が寄せられる一方で、

「スイーパーの仕事を奪う」

「人によく見られたいからやっている」

「早く退場しないから、かえって混乱を招く」

といった、ネガティヴな意見もありました。

これは日本人サポーターの「ゴミ拾い」が他者のためのマナーではなく、

自らの「美徳」にもとづいた行動だったことを如実に表していると言えます。

おそらく先ほど挙げた、海外サッカーの「マナー」にもとづいて、

観戦後に何もせず、速やかに退場していれば、こうした意見は存在しなかったはずです。

マナー VS 美徳 VS 作法

さて、話は変わりますが、

僧侶たる私はしばしばマナーと美徳と作法の対立に悩まされます。

 

世間一般に広く通ずるマナーと、

僧侶となる以前から正しいとしてきた美徳と、

僧侶となってから、主に修行生活で身に付いた作法は、

必ずしも一致しないからです。

 

食事の仕方、手紙の書き方、挨拶の仕方。

世間一般に正しいとされているやり方と、

僧堂において作法として教えられたことは、

違うことが多すぎて、本当に参ってしまいます。

 

行為の優先順位について考えてみると、

個人の信仰心にもとづく行動は、ひとまず優先させるべきだと思います。

かといって、

びっくりドンキーで五観の偈を唱え、

チーズバーグディッシュのでかい皿を口元まで持ってきて食べ、

サイダーで器を洗う……

そんなことをしたら周囲はドン引きでしょう。

 

それぞれのバランスをとるなら、

食事の際には「いただきます」「ごちそうさま」を言う。

咀嚼音はあまり出さないようにする。

食べ残しは極力避け、器はなるべく綺麗にする。

これくらいが丁度いいんじゃないでしょうか。

 

やはりマナーも美徳も作法も、

それぞれに尊重し、融和を図る姿勢が必要なのだと思います。

強すぎる「マナー」が息苦しいのは

現実の世界では「マナー」の方が特に気にされることが多いように思います。

 

しかし、美徳や作法が重んずる信念や信仰に対し、

「マナー」が重んずる「他者への気遣い」は、より範囲が狭いように感じます。

もちろんマナーは広く世間一般に通ずる普遍性を備えたものだとは思うのですが、

「マナー」を優先しすぎるあまりに、こぼれ落ちてはならない大切な精神性がどこかにいってしまうような、

そんな不安に駆られることもあるのです。

 

また、例を挙げましょう。

前回の記事で、実際にテレビで放送されたというマナー講師の方の指導として、

「いただきますなんて家で言え!」

「頂戴いたします!でしょう」

というものを紹介しました。

前回は「頂戴いたします」は過剰じゃないの?と、ふんわりと疑問を呈するにとどめましたが、

それだけでなく、

「“頂戴いたします”だと、“いただきます”が持つニュアンスの大切な部分」が損なわれているような感覚になります。

 

その感覚とは、

食事を共にする相手への敬意を高めた分だけ、

食材や生産者、調理者、

そのほか目の前にある食事に関係した様々なものへの感謝や敬意が薄れてしまうのではないか、

というものです。

 

私は、

普段の食事もごちそうも、一貫して同じように感謝し、敬意を払うのが、

自然で、まっとうなことだと思います。

そのために適切な言葉は「頂戴いたします」よりも「いただきます」ではないでしょうか。

 

「頂戴いたします」のように、マナーとしてより正しいとされる行動をとることで

「いただきます」が持つ、食事の美徳がもたらす温かみや精神性が損なわれてしまう

昨今のマナー指導や謎マナーの跋扈を見ていると、そんな息苦しさを感じるのです。

まとめ

このたびは2回に分けて、マナーについて考えて参りました。

 

もちろん私はマナーの専門家ではありません。

「いや、その意見はマナーのことをちゃんとわかっていない」

という批判もあるだろうと思います。

 

その上で、

マナーを指導する講師の方に期待したいのは、

ただひとつのやり方を正解として教え込むのではなく、

様々な美徳、作法、文化、地域性などを考慮した上で、

それらの融和を図る方法を伝えてほしいということです。

 

ビジネスの場のみでしか通用しない限られたマナーを公共の電波で流すよりも、

TPOに応じてさまざまな正解があっていいということを発信してほしい。

そんな風に思うのです。

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