祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響あり。
沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす。
法話や本などで、僧侶に使い古されたと言ってもいいくらい使われた『平家物語』の冒頭の一説。
「諸行無常」という言葉は、仏教の根本であり大前提であり出発点でもある要チェックなワードです。
ただ、「仏教の根本」とか言われると、どうしても身近なものには感じにくいもの。
そこで今回は私が最近経験した「諸行無常」を振り返りながら、この言葉の本質を考えてみたいと思います。
Contents
お釈迦様印の4つの証明
インドでお釈迦様が説かれ、アジア、アメリカ、ヨーロッパと、世界中に広がっていく仏教。
しかし、これまで【肉を食べるということ】などでも触れたように、仏教徒は国によって生活のスタイルや形式が大きく異なります。
さらには宗派なども細分化され、日本の中ですらお互いの宗派の教えを全て把握している、という人はなかなかいないでしょう。
では、そこまで細分化されていきながら、各宗派各僧侶はどうやってお釈迦様が説かれた「仏教」を保ってきたのでしょうか。
実は仏教には、その教えがお釈迦様の教えに沿っているかを確認するための4つ、あるいは3つの証明があります。
これは四法印、あるいは三法印と言って、その教えがこれを満たしていれば仏教ですよという、いわばお釈迦様ブランドの認定印です。(4つでセットの説と3つでセットの説があるので)
その印のうちの一つが「諸行無常」というわけです。
諸行無常とは?
では、諸行無常とはどういう意味かというと、簡単に言えば「あらゆる物事は移り変わる」ということ。
まあ、これだけ聞いても新鮮さはありませんよね。
このページをご覧になっている皆様はとっくにご存知のはずです。
楽しかった時間が終わること、咲いた花が枯れること、人が亡くなること、そんな諸行無常を誰もが少なからず味わい、身を以って知っているからです。
ただ、冒頭で出した平家物語の一文の影響なのか、日本では諸行無常は「儚さ」を表す言葉として使われることが多くあります。
四季の移ろいの中で、花びらや木の葉が散っていく、あるいは海に日が沈んでいくような景色に対して「諸行無常」を感じるような感覚が、文学作品や和歌などからも見て取れます。
しかし、実はこれは諸行無常のある一面に過ぎません。
諸行無常という言葉には、本当はもっと大きくて、人生のテーマともなる意味が含まれているのです。
祖母と親友
最近、93歳になる祖母が、貧血で入院をしたことで体力が落ち、いよいよ立つことができなくなりました。
トイレに行くことも難しくなり、以前は好きだったテレビやラジオにも興味を示しません。
食欲はあるものの、一度の食事で食べる量は私が一口で食べられるくらいのごく少量。
これをゆっくりと噛みながら、少しずつ少しずつ飲み込むのです。
私が生まれた時からずっとそばにいた祖母が、今まさに目の前で老いていき、確実に命の灯が小さくなっていくのを肌で感じ、私はどんな言葉をかけるべきかわからなくなります。
そして、人間が年老いていくという光景は、自分がこうして文章を書くのさえ無駄な気がしてしまうくらい、私の心に影を落としました。
そんな中、一年ぶりに親友とその奥さんと会う機会がありました。
奥さんは妊娠中で、出産予定日をすでに5日過ぎ、いつ生まれるかわからない状態で、お腹に触れるとコルセットをしているかと思うくらいパンパンに張っていました。
久しぶりの再会で話も弾み、私は終電で帰宅。
家に着いてお風呂に入ったり翌日の準備を済ませて床に就こうとした深夜2時過ぎ、親友からLINEのメッセージが。
「破水したから病院行ってくる!!」
二人と別れて3時間後の出来事です。
驚きと共に二人にエールを送り、眠りについた私が6時頃に目を覚ますと、LINEに「生まれた!」という一言と共に赤ちゃんの写真が届いていました。
私が会った6時間後、新たな生命が無事にこの世に生を受けていたのです。
諸行無常をどう受け止めるか
体が弱り、命の灯が弱まっている祖母と、この世に生を受け、今まさに命の小さな灯がともった赤ちゃん。
この二人の命は、私に改めて諸行無常とはどういうことかを教えてくれています。
花が枯れることも諸行無常。
しかし花が咲くこともまた、諸行無常です。
人間がそれを見て嬉しいとか悲しいとかは関係なく、とにかく「物事が移ろいゆくこと」。
これが諸行無常というこの世界の法則なのです。
そして何より忘れてはならないのが、今こうして文章を読んでいるあなたも、書いている私自身も諸行無常であるということです。
どれだけ真面目に生きてこようとも、次の瞬間の行動一つで犯罪者になることだってできます。
逆に、過去に犯してしまった過ちも、次の瞬間の行動一つで償えるか同じことを繰り返すかが変わってきます。
私たちの命は常に諸行無常という法則の中で、常に変化し続けています。
そこで、そんな人生なら良い方に変わり続けていこうじゃないかというのが、仏教の示した生き方です。
曹洞宗の大本山永平寺を開かれた道元禅師は『学道用心集』という書物の中でこのように仰っています。
誠に其れ無常を観ずるの時、吾我の心生ぜず、名利の念起こらず、時光の太だ速やかなることを恐怖す、所以に行道は
頭燃を救う。 『学道用心集』ー菩提心を発すべきこと
本当に人が無常を知った時、自己中心的な心や、富や名声を求める思いは起こらず、ただ時がすぎる速さに恐怖する。それゆえに修行は頭に点いた火を払うように必死に励むのだ。(西田私訳)
諸行無常なこの命を、自分の欲を満たすためだけに生きて、自分の死とともに全て失うか、他者との関わりの中で自他の幸福のために生きるかは、私たち一人一人にかかっています。
諸行無常という言葉は単に儚い、悲しい、もしくは美しい、嬉しいという感情を表す言葉ではなく、変化し続けるこの命を、あなたはどう生きますか?という問いかけでもあるのです。
仏教の根本的な考え方の一つ「諸行無常」。
これをどう受け止めるかで、仏教の見え方が大きく変わってくるはずです。