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日本人に馴染みのある仏教行事でありながら、その意味や由来は意外と知られていない「お盆」。

ここまで、その由来となるお経である「仏説盂蘭盆経」の登場人物と、時代背景について考えてみました。

今回は、お母様が餓鬼道に堕ちているという描写はいったい何を意味するのか、考えてみたいと思います。

餓鬼とは?

まず、餓鬼とは一体何かということについて。

餓鬼とは古いインドの言葉でプレータといい、元々は死霊という意味でしたが、当時の六道輪廻の思想に組み込まれると、救うことのできない飢えに苦しむ鬼のことを指すようになりました。

http://joshkearns.blogspot.com/2009/06/some-days-i-am-preta.html

餓鬼にはタイプによって様々な特徴がありますが、この「仏説盂蘭盆経」に登場する、お母様がなってしまった餓鬼は最も象徴的なものの一つ、「食べ物が燃えて炭になってしまう」というものです。

お経の中によっては「悪いことをした人間がなるもの」という説かれ方をすることがありますが、これは悪さをしないための一つの方便と受け取っても良いのではないでしょうか。

餓鬼はどこにいるのか

では、私たち僧侶の眼にこの餓鬼が見えるかというと、少なくとも私には見えていません。

しかし「仏説盂蘭盆経」をはじめ、様々なお経や仏教の逸話に登場する餓鬼を、架空の存在で終わらせていいのでしょうか?

そもそもお釈迦様は、誰もわからない死後のことに言及してはいけないと仰っているのに、餓鬼の存在をどう受け止めるべきなのでしょうか。

「架空の存在」が持つ意味

お経に登場する存在の中には人間の心のはたらきを具現化したキャラクターが時々現れます。

例えばマーラ(悪魔)

お経の中でお釈迦様が迷った時には、必ずと言っていいほどこのマーラが登場してお釈迦様が悪い方にいくようにそそのかします。

お分りかもしれませんが、マーラというのはお釈迦様自身の心の迷いや弱さの化身なのです。

マーラと煩悩に関しては、除夜の鐘の記事で少し触れています。

ではこのマーラと同様に考えるのであれば、餓鬼とはどのような存在なのでしょうか?

供養が届かない存在としての餓鬼

私は餓鬼が「供養の届かない(=救いの手が届かない)存在」であること、これが重要な要素だと考えています。

前回触れた「仏説盂蘭盆経」の主人公である目連尊者。

この方は長男であったということもすでにご紹介しました。

そしてインドでも中国でも、長男は年老いた父母を養い、死後には供養をする役目があったということもご紹介済みです。

目連尊者はお釈迦様の数いる弟子の中でも、舎利弗尊者と並んでツートップを張るお方でした。

しかしその心のどこかには、長男である自分が出家してしまった後、母はどうなってしまったのだろう、そんな心配があったとしても不思議はありません。

ましてや両親の供養は長男しかできないとさえ言われた中国では、修行僧にとっても心に引っかかる大きな心配事だったのではないでしょうか。

この気持ちを、先ほどのマーラと同じように考えてみたらどうでしょうか。

「仏説盂蘭盆経」に登場する餓鬼という存在は、親を置いて出家してしまったことに対する申し訳なさや負い目のような想いを具現化したものと考えられるのではないかと、私は思うのです。

餓鬼となった母への供養が意味したもの

つまり、餓鬼となった母を救う方法というのは、自分を育ててくれた親に対する供養の方法であり、恩に報いる道なのです。

つまり目連尊者がお釈迦様に相談した

「餓鬼道に堕ちた母を救うにはどうしたらよいでしょうか?」という質問は

「手の届かない存在となった母を供養し、恩返しをするにはどうしたらよいでしょうか?」という質問だったとも受け取ると、当時の中国どころか現代にも通じる切実な想いが見えてきます。

修行中の記憶

私が永平寺で2年目を迎えた年は祖父の3回忌の年でもありました。

私が僧侶になり、修行に行くことをだれよりも楽しみにしていた祖父は、その一年前に亡くなりました。

しかしそんな祖父との別れは私が僧侶として歩むうえで大きなターニングポイントとなりました。

そんな祖父にはなんとかして恩返しをしたい、そう思っていました。

しかし、実家で家族や親族、つながりの深い和尚さんが集まった法事に、修行中の私は参加することができませんでした。

そこで一緒にお経をあげることで僧侶となった姿を見せたいと思っていた私には、それが残念でなりませんでした。

他にも、修行に行っていることで友達や後輩、家族の力になれないということが何度もありました。

期間が限られたものとはいえ、修行をしている身が故に起こるジレンマは、私にとっても他人事ではないのです。

もっと広く考えるならば、仕事が忙しくて実家に帰ったりお墓参りができない、あるいは大事な人の最後に立ち会えなかったなど、故人との間に悩みや後悔がある方は、少なくないはずです。

目連尊者が餓鬼となったお母様を救いたいという想いは、決して私たちと無関係ではないのです。

そこで次回は、そんな目連尊者のSOSにお釈迦様が答えを出します。

つづく

 

 

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