ミスコンとスパダリ~「しんどい」はどこから来るのか

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現在、週に2回更新している禅活のブログ記事。

今回はNHKのWEB特集記事を題材にします。

テーマとして取り上げる記事はコチラ↓

WEB特集 私たちはなぜミスコンがしんどいのか

幾人もの女性がきらびやかな衣装に身を包み、いかにもなフェスティバル感を演出する、ミスコン。

それが「しんどい」とは、一体どういうことなのでしょうか?

Contents

ミスコンに対する印象調査

記事の書き出しはこのようなもの。

秋の大学祭のミスコンテスト。
あなたの感想にいちばん近いのはどれですか?
A:「好き」
B:「時代遅れだ」
C:「興味ない」
D:「しんどい」

ちなみに私自身は、ミスコンに興味を抱いたことがないので、回答はCの「興味ない」になります。

しかし、きらびやかな衣装に身を包んだ見目麗しき女性を誉めそやすことに悪い気はしません。

私の生まれ故郷でも、お祭りの際に「シンデレラコンテスト」なる、ミスコンに近い催しが開かれていました。

一方で、時代遅れという意見にも頷けます。

記事はこのように続きます。

Dの「しんどい」は「どういう気持ちなのかピンとこない」と話す人が少なくない一方で、激しく同意する人がいました。

私もいまいち共感できなかったのですが、この「しんどさ」とは何なのでしょうか。

「らしさ」に苦しむ

おそらく「しんどさ」の正体は一方的な「らしさ」の押し付けによって生まれるものだと思われます。

つまりミスコンに感じる「しんどさ」とは、「女性らしさ、男性らしさ」という価値観に振り回されるのが「しんどい」ということでしょう。

男は度胸、女は愛嬌なんて言葉が跋扈していた時代もありましたが、

美しさを価値に還元しようとすることは、いまだに私たちの身近で起きています。

「美」の輪郭がはっきりするということは、逆に言えば「醜」についても同様です。

「痩せている」「目鼻立ちが整っている」「足が長い」が「良い」とされるということは、

「太っている」「目鼻立ちが整っていない」「足が短い」が「悪い」ということに繋がります。

生活圏にごく近いところでミスコンが開催されるということは、自らの容姿について外野からあれこれと言われているかのような、居心地の悪さを感じてしまうこともあるでしょう。

スパダリの「しんどさ」。

さて皆様は、スパダリ、という言葉をご存じでしょうか。

最近、若い女性の間で流行っている造語だそうですが、私ははじめてこの「スパダリ」という言葉を聞いたとき、

「スパカツみたいなものだろうか。ということはスパゲッティと何かを合わせたB級グルメのことだろうな……」

(※説明しよう!スパカツとは北海道釧路地方のB級グルメのことである。熱い鉄板の上にスパゲッティと豚カツを乗せて、その上からミートソースをかけるというカロリー爆弾をいう。うん、おいしい!)

こんな風に考えていました。

しかし、スパダリの本当の意味を知ったとき、私は想像以上にげんなりさせられました。

スパダリとは、

「スーパーなダーリン」の略であるとのこと。

高収入、高身長、高学歴というような、かつての「三高」を彷彿とさせる内容に加えて、家事もできる、優しい、顔もいいといった、理想の男性像を表す言葉であるそうです。

……

そんなにいろいろと求められても、無理だよ!こっちは!

……と。

ミスコンを「しんどい」と感じる人の気持ちが少しだけわかったような気がしました。

新しいコンテスト

紹介した記事の要旨は、人間を「外見で評価すること」に問題があるという指摘だと思います。

記事の中で、これまでのような外見ばかりを重視する従来のミスコンを廃して、

多様性に配慮した上で、出場者の性別を問わずスピーチや社会問題に対しての発信力を審査基準とするコンテスト開催の取り組みが紹介されていました。

外見に囚われず、社会問題に対する姿勢を問う内容のコンテストは、たしかに学びの場である大学で行われるものとしては、ふさわしい内容であるように思えます。

この「新しいコンテスト」への取り組みは、まだまだ模索中であるそうで、様々な意見が寄せられているようです。

記事を読み進めていくと、学生から寄せられた一つの意見が目を引きました。それは、

「多様性を重視するといいながらグランプリを決めている。個性を認めることと順位付けする事はもともと矛盾している」

というものです。

人間ひとりひとりの特徴は何も「外見」だけに現れるものではありません。

順位をつけてしまう以上、たとえば口下手であるとか、あがり性であるという人は、こうしたコンテストによって「しんどさ」を感じてしまうのではないでしょうか。

比較で自分らしさはあぶり出されるのか

確かに私たちが社会生活を送るうえで、「比べる」という行為は大きな意味を持ちます。

安全面や学問、あるいはスポーツなどの競技においても、他との比較の上で議論を進め、様々な分野での向上を図ることもできます。

しかし、比べるというやり方が常に正しいとは限りません。

私が思うのは、特に人が自分自身を把握しよう、自分のことを深くわかろうとした際に「比べる」という方法を取ることは、大きな間違いを生みかねないということです。

アイデンティティの喪失という問題のもと、自分探しという言葉が流行したこともありましたが、

誰かに比べて自分はこの点で優れている、劣っている。

こういう知識があって、こういう知識はない。

こうした比較を積み重ねることによって、何となく、自分の立ち位置が把握できるような気になります。

しかし、それでわかるのはあくまで「人と比べたときの自分の立ち位置」だけです。

果たして本当に人と比べることで自分の本質にアプローチすることができるのでしょうか。

かえって、他者の方にばかり目が向いてしまって、一層自分のことがわからなくなってしまうような気もします。

他者との比較の中で人間という存在を見極めようとしてしまうこと、それ自体が問題であるように思います。

 

ミスコンはあくまで氷山の一角にしかすぎません。

問題を一つ一つ解決していくという姿勢ももちろん重要だとは思いますが、

外見というファクターを排除したとしても、社会で当たり前に行われている「人と人を比べる」という行為と、そこから生まれる苦しみから逃れるのは、非常に難しいことだと思います。

脚下照顧

私たちは自分のことを知りたいと思うのに、つい他者のことばかり気にかけてしまうことが多くあります。

その比べ合いによって苦しむというのも、人間のひとつの特性であるのかもしれません。

しかし必要以上に他者と比較し、「らしさ」というレッテルを貼って人や物事を判断することは、仏教が戒める我見にあたります。

脚下照顧という、有名な禅語があります。

足元をよく見よ、という意味になりますが、

これは外ばかりを見て、自分のことを見ようとしない態度を戒める言葉です。

他者の動向や評価ばかりに気を配るのではなく、自分のありようから顧みる生き方をしていきたいものです。

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