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このブログを書いている今から1年前の2019年11月12日、生まれてからずっと一緒に暮らしてきた祖母が93でその生涯を閉じました。

そして先日、その命日に先立って身内で一周忌の法事をお勤めしました。

今回はそんな祖母の一周忌の法事から学んだことをお話しします。

小祥忌とは?

昨年、祖母が亡くなった時のことは、私なりの供養として法話にし、ここでもお話しさせていただきました。

仏教では、旅立つ人の肉体にすがるのではなく、その教えを拠り所に生きていこう、と考えます。

長生きであったとはいえ、祖母との別れは辛いものでしたが、生前に教えてくれたこと、してくれたことを自分の道標としてこの一年を過ごしてきました。

しかし、世の中にはその事実を簡単に受け入れられる別ればかりではないでしょう。

以前、幼い頃に父上を亡くされた方が、「7年じゃ全然受け入れられないよね」と仰ったのを聞いた時、死別とは状況や関係性などによって本当に様々な形で人の心に残るのだと、と気づかされたものです。

いつ、どのように、誰に訪れるかわからない、思い通りにならないから「死苦しく
(「苦」は思い通りにならないという意味)

本当にお釈迦様の教えには深く頷かされます。

にも関わらず、死から一年経った一周忌の法要には、このような言い方があります。

小祥忌しょうじょうき

吉祥きちじょう」という言葉があるように、祥という字には「幸い」という意味があります。

辛く悲しい死別から一年で「小さな幸い」だなんて、ずいぶん勝手なことを言ってくれるじゃないかと思ってしまいます。

会食での出来事

人との別れに、「充分」などということはないのかもしれませんが、私は祖母が亡くなる数日前にお見舞いに行き、手を握って別れることができました。

それでも一年経って幸いと思えるかと聞かれたら、そうとも言えません。

ところが、今回の一周忌の法事で、納得のいく出来事がありました。

ごく身内のみで法事をお勤めし、会食に席でのことです。

父である師匠の音頭で献杯をし、和やかに食事が進みます。

すると師匠が不意に、つい最近結婚した従兄弟夫妻に、挨拶を促しました。

従兄弟は私の2歳年上で、兄弟子でもあります。

そんな従兄弟はさすが僧侶といったところで、突然のキラーパスにも対応してお連れ合いを紹介し、拍手で迎えられました。

そしてその挨拶の後、師匠がこんなことを言いました。

「旅立って欠けていく家族もあれば、こうして新たな家族を迎えることもできる。これも諸行無常の理といったところですね。」

そう、諸行無常であるが故に祖母が旅立った一年後、同じく諸行無常が故に従兄弟が結婚するというご縁をいただけたのです。

無常の中に光を見る

以前、諸行無常とは悲しい言葉ではなく、あらゆる物事は移り変わっていくという法則のことである、というお話をしました。

確かに人は、特に日本人は人との別れや、物事の儚さ感じた時に、諸行無常という言葉が身に染みます。

しかし実は、良い方向に変わることもまた、諸行無常が故に起こる出来事なのです。

そう考えた時、小祥忌という言葉は単に「一年経ったからもう幸せですよ!」と決めつけるような、押し付けがましいものではないということがわかってきました。

 

辛い別れから一年が過ぎ、身の回りに全く変化はなかったでしょうか?

もちろん、気持ちは深く沈んだまま変わりないということはあるかもしれません。

しかし、その一年の間にも季節は巡り、誰もが等しく1歳年をとります。

辛さ悲しさの中で気づかなかったとしても、そうやって世界は日々変化をし続けています。

う考えた時、一年で悲しみが癒えたわけではないけど、今日まで変化しながら生きてきた。

そうやって変化しながらいつかこれを飲み込んで、前を向いて見ようと思える日がくるかもしれません。

諸行無常を生きる中に、そんなわずかな光を見出すこと、それが小さな祥なのではないでしょうか。

故人が仏様になっていく

今回、こうして小祥忌という別名について考えることができたのは、間違いなく祖母のおかげです。

そうして、生きていた頃とは違った形で、私たちを導いてくれた時、故人は本当の意味で仏様となります

死別後の日々は、故人を忘れるためのものではありません。

諸行無常の中で少しずつ、自分を導いてくれる仏様として、心の中で育てていく日々です。

法事はその日々の中で、自分と仏様の関係を見つめる儀式なのだと、私は思います。

今回は小祥忌の供養として、祖母が教えてくれたことをお話しさせていただきました。

 

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