【12/4法話】祖母が教えてくれた生き方〜成道会にちなんで〜

禅活-zenkatsu-で毎月開催している【一行写経と法話の会】も今回で丸一年。

今月は12月4日に開催し、わたくし西田が、成道会じょうどうえにちなんだ法話をさせていただきました。

Contents

お釈迦様の苦悩と成道会

今月12月8日は、お釈迦様がおさとりを開いた、道を成した日である「成道会」です。

シャカ族の王子として生まれたゴータマ・シッダールタは、衣食住何不自由ない、経典によれば季節ごとに違う宮殿に住むほどの贅沢な暮らしをしていたそうです。

しかしある日、シッダールタはそんな自分にもいずれ老いや病、そして死というろうびょう・死」が訪れることを知って恐れおののきます。

そしてその老・病・死への恐怖を克服すべく、お城を飛び出して出家するのです。

出家をした後は当時の優れた指導者を訪ねたり、苦行を含む様々な修行方法を行った末、最後は坐禅をします。

そして十二月八日の夜中、菩提樹ぼだいじゅという木の下で坐禅をしている時、夜空に現れた金星・明けの明星みょうじょうを見て、老・病・死への恐怖から解放された、いわゆる「覚り」を開かれました。

そしてこの時、お釈迦様は次のように仰ったという言い伝えがあります。

明星出現時、我与大地有情同時成道

(明星出現時、我と大地有情と同時成道)『正法眼蔵』「発菩提心」

大地というのは山や川なども含めた生き物以外の全てを指し、有情というのは生き物全てのことです。

つまりこの世界のありとあらゆるものが、私と同時に成道した、覚りを開いたという意味になります。

もちろんこれだけを聞いてもどういうことかはわからないかもしれません。

しかし、ここには老・病・死と向き合っていく大切な生き方が示されています

そこで本日は成道会にちなんで、老・病・死と向き合う生き方についてお話しさせていただきます。

死ぬのが怖い

それをお話しする前に、ここで皆様に一つお尋ねいたします。

皆様は「死ぬのが怖い」と思うことはお有りでしょうか?

ちなみに私は死ぬのがとても怖いです

あれは幼稚園年中くらいの頃でしょうか。

何がきっかけだったか定かではないのですが、私はある夜突然、お父さんもお母さんもお友達も、そして自分もいつか死んでしまうということが怖くてたまらなくなって、母に泣きついたことがあります。

その時は母に「明日の楽しいことを想像してごらん」となだめられましたが、それ以降、私はふとした時に猛烈な死への恐怖を感じるようになりました。

勉強をしている時や一生懸命にプラモデルを作っている時、部活動で柔道の練習をしている時など、何かを頑張っている時に限って不意に「結局死んじゃうなら頑張っても意味がないんじゃないか」という思いも頭をよぎるようになりました。

さらに大人になっていく中で、この地球や太陽ですらいつかは無くなってしまうということを知ります。

そうなるといよいよ、いつやってくるかわからない、しかし確実にやってくる死というものが、怖くて怖くて仕方がない存在になっていきました。

祖母の旅立ち

しかし、そんな私の近くに、死を恐れることなく旅立っていった人がいます。

それは私の祖母です。

私の父方の、私が生まれた時からずっと一緒に暮らしてきた祖母は、孫である私を誰よりも甘やかしてくれた人でした。

中学生の頃、特にお小遣いの制度がなかった私に、両親に内緒で「困った時に使いなさい」と言って、いつも薬の引き出しの中に千円をいれておいてくれました。(これはいまだに両親が知らないはず)

そして同じく中学生の頃、今でもよく覚えている出来事があります。

それは友達の影響で釣りに興味をもち、なんとか安い道具のセットを買って間もない時でした。

釣りの道具というのは値段によって性能も異なり、私が買ったセットに付いていたリールという糸を巻き取る部品は、すぐに糸が絡まってしまう性能の悪いものでした。

その日、友達と家の近所の川で釣りをしていると、いつも以上にひどい絡まり方をして自分の手に負えなくなり、なんとなく、裁縫ができる祖母に糸を解けないか聞いてみました。

すると、祖母はどれどれと言って解き初め、やっておくから遊んでらっしゃいと言ってくれて、私は友達のもとに戻りました。

そして、本当にひどい話ではありますが、釣り糸を半ば諦めていた私は祖母に頼んだことも忘れ、二、三時間して家に戻ってくると、祖母はまだ糸をほどき続けてくれていたのです。

地べたに段ボールを敷いて座るその傍らには解かれて爪の跡がついた釣り糸が重なり、一生懸命解いてくれていたのがわかります。

私は自分で頼んでおきながら、なぜ祖母が私の釣り道具のためにそこまで一生懸命になってくれるのかが不思議でなりませんでした。

私が幼い頃からそんなことが何度もありました。

私が探し物をしていて、何気なく祖母に尋ねると、祖母は当人の私以上に一生懸命に手伝ってくれるのです。

祖母はいつも、私が喜ぶことを私以上に喜び辛い時には涙まで流して悲しんでくれました

そんな祖母は、元々身体が弱く、本人は「あなたが高校生になるまでは生きていられないわねえ」と言ったりもしていましたが、気づけば今年で九十三歳を迎えていました。

しかし、その身体は確実に弱っていて、今年は入退院を繰り返していました。

そして、どこかに大きな疾患があったわけではありませんが、少しずつできることが減っていき、十月からは病院でいわゆる「寝たきり」の生活になりました。

私は現在東京に住んでいますが、ほとんど毎週末に実家の栃木に帰っているので、その度になるべく祖母に会いに行っていましたが、その生きる力が弱まっていくのを肌で感じていました。

ある日ご飯を食べられなくなり、声も出にくくなった祖母のお見舞いにいくと、私に気づいてニッコリと笑い、こちらのかける言葉にウン、ウンと頷きます

そして、私が帰る間際、祖母は声を絞り出すと「幸せいっぱい、胸いっぱい」と言うのでした。

それは私が聞いた祖母の最後の言葉となりました。

それから一週間後に会った時には、もう意識はあっても目が開かない、声も出ない状態でした。

苦しそうに呼吸だけを繰り返す祖母を見て、思わず「もう頑張らなくていいよ」という言葉が私の喉元まで上がってきました。

そして、その2日後の11月12日に、祖母は九十三歳でその生涯を閉じたのでした。

私は祖母の生き方、そして「幸せいっぱい、胸いっぱい」と言ってこの世を去っていったその姿に、死の恐怖との向き合い方があるような気がしました。

お釈迦様の修行と「私」という存在

お釈迦様が出家をし、まだ老・病・死の恐怖から開放されるまで、いわゆる覚りを開かれるまでの修行の日々というのは、自分の内側に目を向けるものでした。

「死にたくない、生きたい」と思わなくなるにはどうしたらいいのか、どうすれば死が怖くなくなるのかと、瞑想や苦行によって自分の内に内に目を向けていた時には、その恐怖から開放されることはありませんでした。

しかし、あらゆる修行を行って最後にたどり着いた坐禅で、お釈迦様は外側に目を向けられたのです。

呼吸をし、手と脚を組み、両膝を大地につけて坐る…。

それまでお釈迦様は「私の命」が失われることを恐れていましたが、その「私」という存在は親から生まれ、食べ物によって身体を保ち、今こうして大地によって支えられているということに気付きます。

散々、「私の」と言ってきたこの命は、周囲との縁によって支えられているのであって、何一つ私のものではなかったことが、明らかになったのです。

お釈迦様はそのように、ご自身の命というものが、実は動物や草木、大地や川と共に生きている、生かされているものであり、同時に、決して周りから切り離されたものではないということ、

そして一つの大きな命の循環の中に生まれ、やがてまた還っていく存在であることをお覚りになった時、老・病・死の恐怖が消え去っていったのです。

大きないのちを生きる

はじめにお話しした「我与大地有情同時成道」とは、平易に言えば

「私と大地有情は何一つ隔たりのない一つのいのちを生きていた」

というお釈迦様のお覚りを表した言葉です。

私たち人間は、心の中にある身勝手さや欲求に振り回されると、周りが見えなくなってしまいます。

そうして周りが見えなくなって手に入れたものは、同時に失う恐怖を生むものです。

それを人生の最期の瞬間まで重ねれば重ねるほど、失うものが多ければ多いほど、その恐怖は大きくなっていくでしょう

しかし、自分は大地も有情も全部ひっくるめた、一つの大きないのちを生きていると考えて、他の幸せを自らの幸せと思うような生き方をすることで、最期の瞬間には失うものがなく、安心して旅立っていけるのです。

そう考えると私の祖母は、自分のことはさておき、孫である私をはじめ、他の幸せに喜びを感じ、他の不幸には涙を流して哀しみながら生きる人生を全うした人でした。

もしかすると祖母は、九十三年という人生の中で、無意識のうちに自分という存在が周囲との関わりの中にあることわかっていたのかもしれません。

そして最後に「幸せいっぱい、胸いっぱい」と言い残してこの世を去ったその姿は、今はまだ死ぬことが怖い私にとって、道しるべともいえるものです。

お釈迦様がお覚りを開き、死の恐怖から解放された十二月八日の成道会を目前に控え、私は祖母のように「幸せいっぱい、胸いっぱい」と言って最期を迎えられるような生き方をしていきたいと、心に誓いました。

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