法話「欲と向き合う食事」by西田稔光(2023/10/25禅活しょくどうにて)

毎月開催している精進料理&食作法体験ワークショップ「禅活しょくどう」では、
現在月替わりでメンバーの一人が法話を担当しています。

今回掲載するのは、2023年10月25日の回で西田稔光がお話しした法話です。

Contents

欲と向き合う食事

前回、前々回と食事を五つの視点から見つめる「五観の偈」について、それぞれ一節ずつお話をさせていただき、今回は三つめの視点についてのお話をさせていただきます。

前々回は原山さんが
「一つには功の多少を計り、彼の来処を量る」
についてお話しし、前回は渡辺さんが
「二つには己が徳行の、全欠を忖って供に応ず」
についてお話ししました。

こちらに続いて今回お話しする一節は、

「三つにはしんを防ぎとがを離るることは、貪等とんとうを宗とす」です。

簡単に言葉の意味を解説いたしますと、「心」というのは妄心もうじん、あるいは煩悩心とも呼ばれる「仏道を妨げる心」のことです。

「過」というのは字の通り過ちのこと。

「貪等」というのは、貪り、思い通りにしようとする心=貪欲とんよく、それが思い通りにならないと湧き上がる怒り=瞋恚しんに
その怒りによって我を見失い周りが見えなくなる愚かさ=愚癡ぐち

この煩悩の根幹とされる貪欲・瞋恚・愚癡の三つの毒とし、縮めてとんじん三毒といいます。

「貪等」とはこの三毒のことです。

そして「宗」というのは、物事の核心や大元、根本のことです。

五観の偈は中国から伝わったもので原文が漢文になっているわけですが、この一節は他宗派では
「心を防ぎ過貪等とがとんとうを離るることを宗とす」
という風に読みます。

実はこちらの読み方の方がはるかに理解がしやすいんです。

「妄心が起こるのを防ぎ過ちや三毒を離れる」

説明されなくてもイメージしやすいですよね。

しかし、道元禅師はあえて「心を防ぎ過を離るることは、貪等を宗とす」とお読みになられたので、そのお考えを想像しながら意味を紐解いてみましょう。

前半は「妄心が起こるのを防ぎ過ちを離れることは」という意味で良いでしょう。

問題は後半です。「貪等を宗とす」貪瞋癡の三毒を根本とする、というのはどういうことでしょうか。

先程さらっとお話ししましたが、三毒というのはそれぞれが独立した三つの毒ではありません。

人が生まれながらに持っている物事を思い通りにしようとする貪りの心、これが貪で、それが思い通りにならない時に湧き上がるのは怒り、瞋です。

そしてその怒りによって周りが見えなくなり、時には手で、時には言葉で、あるいは心の中で他人を傷つけたり罵ったり憎んだりする働き癡が起こるように、貪から瞋、瞋から癡へと関連しながら起こっていくのが三毒なのです。

そう考えると、貪に振り回されないようにして、瞋・癡へと繋がらないようにすることは、実は「心を防ぎ過を離るること」と同じ構図なのです。

それを踏まえこの一節を訳してみると、このようになります。

「三つには、妄心が起こるのを防ぎ過ちを離れるのは、貪欲を抑えて瞋恚と愚癡を離れることが根本である」

三毒との向き合い方を食事の際に今一度確認をする、非常に重要な心構えと言えるでしょう。

改めて気になるのが、先程お話しした「過貪等」と読まなかった点です。

過ちや三毒を離れる欲を離れると言う方が教えとしてはわかりやすいはずなのに、道元禅師はなぜこのような読み方をされたのか、今日はこの点について考えてみましょう。

食い意地の記憶

私は、幼い頃から食べることが大好きで、離乳食の頃には大人の食べているものを見て生唾を飲み、いつの間にかお箸を使うようになっているという、食に対して積極的な子どもだったそうです。

ところが食べることへの探究心が強かった一方で、小学生くらいの頃には、自分の食欲を人に見抜かれることを恥ずかしいと思うようになりました。

当時は肥満児と言われるBMI指数を叩き出していて、その見た目通りに「よく食べるな」「食い意地が張っているな」と思われることを恥ずかしいと思い、友達の家で出された食べ物に手をつけることにとても抵抗がありました。

特にその家の大人がいる前ではそれを強く感じていた記憶があります。

成長するにつれ「よく食べる」ということが悪印象を与えるものではないということや、ご厚意を受け取るということも礼儀であると学び、その感覚は薄れていきました。

しかし、そんな自らの食欲や食い意地と正面から向き合う経験をしたのが、永平寺での修行でした。

通信機器も持てず、娯楽もない、わからないことやできないことだらけの生活の中で、楽しみは食事だけです。

しかしそんな食事ですら、みんなと同じ物を、決まった作法で決まった時間に食べる。

そんな制約の中で、私は何度も自らの醜さと出会うことになりました。

永平寺に上山してから二週間が経つ頃、私は伝道部という参拝者の案内や建物の紹介をする役をいただきました。

それまでは修行僧が初めに入る、鐘を鳴らしたり坐禅堂の管理などをする「衆寮しゅりょう」というところにいたのですが、この衆寮からの移動にはとても大きな意味があります。

それは、衆寮で一年目を指導するのは先輩修行僧なのですが、それ以外の部署には永平寺に請われて外部から来られた「役寮」と呼ばれる指導役の和尚さんがいらっしゃいます。

現在私の師匠もその役寮という立場で永平寺にいるように、ほとんど役寮さんがそれぞれに住職を務めているお寺があります。

それはつまり、永平寺では数少ない、外部と行き来する存在である、ということです。

檀務のためにご自身のお寺に帰ったりする役寮さんに修行僧が密かに期待しているものは何だと思いますか?

そう、お土産です。

役寮さんの中には、外出からお戻りの際にお土産として永平寺の外の食べ物を買ってきてくださる方がいらっしゃって、伝道部にいた私にもついにその瞬間がやってきたのです。

「これ、薬石(夕食)の時間にでも食べて」役寮さんがそう言ってくださったのは、ソーセージでした。

いわゆるスーパーで売っている袋に入ったソーセージです。

これを電子レンジで温めて、先輩と同期を合わせた伝道部の修行僧七名全員に行き渡るように均等に分けました。

ソーセージとはいえ久しぶりのお肉。

野菜や大豆では取って代われないその旨みに、その場にいた同期のみんなが震えていました。

ところが食事が終わり片付けをしていると、均等に分けたはずのソーセージが二本残っています。

実はその時、体調が悪く別室で療養していた同期の修行僧が一人いて、その彼の分でした。

しかし、欲に振り回されている時というのはそれが思い出せないものなんです。

片付けをしていた数名が全員、早々に「数え間違えたんだ」という結論に至り、それを分けて食べてしまいました。

それからまもなく、先輩が「別室にいる人に持っていくからソーセージ出して」と部屋に入ってきました。

そこで初めて彼のことを思い出した私他数名は、動きが止まりました。

そして、そこから先輩に「人の分までソーセージを食べた」という、およそ二十二歳とは思えない内容での叱責が始まりました。

合掌をしながら受けるその言葉に、私は自分が情けなくて仕方ありませんでした。

自分の欲に都合のいいように物を考えて、叱られている。

しかもその原因が坐禅にも法要にも関係のない、お土産のソーセージを食べすぎたことであるという事実に、自分の良心や志の弱さを突きつけられた気がしました。

実はこうした出来事はこれに限ったことではありません。

以前お話ししたことがありますが、脚気の症状がひどかった同期に先輩から支給されたココア味のプロテインを盗み食いしようとしてむせて、法衣がプロテインまみれになっているところを見つかったこともありました。

小さい頃にあれほど人に見られたくなかった自分の食欲が醜いほどに溢れてコントロールが利かなくなっていたのです。

私はそんな経験の中で、自分から確実に湧いてくる貪欲の強さを知り、自分がとても汚い人間に思えました。

欲はあるという前提

それから二年後、永平寺を後にし、総合研究センターに入所し、食に関する発信をするにあたって、改めて『赴粥飯法』を読んでみると、こんな言葉がありました。

「比坐の盋盂の中を視て嫌心を起こすことを得ず。」

この訳を読んで驚きました。

これは簡単に言うと「隣の人の器を見て羨ましがってはいけない」という意味です。

要するに、道元禅師が説く対象には、隣の人方がおかゆが多いとか、煮物が多いとか、そういう思いを抱く人がいたということでもあります。

他にも、お釈迦様の時代の戒律などを見ても、修行僧たちはいつの時代も食事に対して執着したり欲をかいていたことが窺えたのです。

私はこれを知って、仏教は人には欲があることを前提として説かれていることに気付かされました。

思い返せば、子どもの頃、食欲があることが恥ずかしいと思っていたことも、修行中に自分が欲に振り回される汚い人間だと思ってしまったことも、そもそも考え方が間違っていました。

私の一番の過ちは、自分に欲があることを認めず、貪欲と向き合うことを避けていたことだったのです。

そんな当時の自分を「貪等を宗とす」という言葉から改めて考えてみると、貪そのものは離れたりなくすことができるものではないから、起こる度に抑えて、瞋や癡につながらないように気をつけることが大切であるということがとてもよくわかります。

そもそもお釈迦様は、人間はお腹が空けば食欲が湧き、欲しいものがあれば手に入れたいと思ってしまうという、そんな不完全さを前提とし、欲の存在を否定せず、きちんと向き合い、振り回されないための道を説かれています。

これまでの「一つには〜」と「二つには〜」は目の前にした食事と、それを目の前にした自分のこれまでを振り返るものであったのに対し、今回の「三つには〜」は私たちが食事をする最中の心構えを説いています。

食事という、欲と隣り合わせな営みの中で、自身の欲と向き合い、自身がどうあるべきかを考えることに、食事を修行とする所以があるのではないでしょうか。

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