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日本は治安がいい。
海外に行ってみるとつくづくそれを感じましたし、こんなにルールを守る国民性は素晴らしい!!
と心から思えたのは今年の2月頃まででした。
新型コロナウイルスが蔓延し始め、深刻化してくると、東京ではマスクや生活用品の買い占めや高額での転売が起こりました。
それから緊急事態宣言が出ると、今度は休業補償や手当てなどの問題になり、「あの業種に補償はいらないんじゃないか」「生活保護を受けている人には給付しなくていいだろ」「外国人には〜」と他人への措置に対する不平・不満、差別発言まで次々に飛び交うようになりました。
もちろん、それぞれの制度や措置に議論があるのは当然ですし、ちゃんとされるべきだと思います。
しかし、どうにも耳や目を覆いたくなるのは、溢れかえるこれらの言葉は、次の一言に要約されてしまうことが多いからです。
ズルい。
私は普段から大変な思いをして働いて、税金を収めて、家族も支えて、ルールを守っているのに!
大変な時も私は我慢をしていたのに!
今回の出来事に限らず、現代社会は「ズルい」という思いから生まれる争いや攻撃で溢れています。
今日は、そんな「ズルい」という気持ちを、修行時代の経験から考えてみました。
Contents
永平寺サバイブ
以前からこのブログで書いているように、私は2014年から2年間、福井県にある曹洞宗の大本山永平寺で修行生活を送りました。
ご好評をいただいた「永平寺の門を叩いた日」では、入門するまでの様子を振り返りましたが、そのあとの日々も様々な辛さを味わいました。
私が特に辛かった、というより皆が辛く感じるのは「眠さ」です。
永平寺では最長では21時~4時半までの最長7時間半寝ることができるので、よほど大変な役が当たらない限りは睡眠時間そのものが短いわけではありません。
しかし、集団生活や先輩の目など、周囲の環境に対する緊張感からか、私はいつも眠りが浅く、なかなか疲れが取れませんでした。
その為、肝心な坐禅や読経で眠くなり、うとうとすると先輩に怒られ…という日々を送っていました。
後から知ったのですが、ストレスというのは眠気となって現れるケースがあるらしく、睡眠時間云々ではなかったのかもしれません。
わずかな自由
ところが、入門から半年程経つと、様々な条件をクリアをすることで昼寝をする権利が与えられるようになります。
そうなると、誰もが自分のお昼寝タイムを確保すべく、自分の役を円滑に務めることに精を出しはじめます。
それぞれが表立っては言わなくても「昼寝」をかけたサバイバルが始まったのです。
私も、自分の役割を効率よく迅速に終わらせたり、忙しくなって休憩が短くならないように心の中で祈ったりもしました。
誰かの連帯責任で昼寝禁止にでもなろうものなら、大事件です。
そんなお昼寝のためにギスギスしたり、ある種殺気だった日々を過ごしました。
しかし、そんな中でも助け合えた仲間とは、固い絆で結ばれたので、追い詰められた中での学びもあったなと、今では思えます。
ルールの向こう側の住人
永平寺に入門して1年が経つ頃には、時々差し入れでお肉が食べられたり、環境への順応もあってか、みんなが昼寝のために殺気立つようなことはなくなりました。
そしてその頃、私は宿泊客の食事を作る部署での役を務めていました。
食事を作るということは、当然朝ごはんを作ります。
そのため、おのずとこの部署では起床時間が早くなり、調理当番は眠い目をこすりながら作業を進めます。
一方で調理当番に当たらなかった人は、朝の坐禅や読経に出るというようなサイクルで、毎日交替をしていきます。
ある日、私は朝の調理当番を終え、この後少しだけ横になれるかなと思い、布団のある部屋に戻りました。
永平寺では、各部署の責任者以外は大部屋に机と押入れを与えられて寝起きをします。
私は自分のスペースで横になろうとすると、急に奥の空いている押入れから人の気配がしました。
「終わった?」
顔を出したのは、本来坐禅や読経に行っているはずの仲間でした。
彼は朝の間中、押入れに隠れて眠っていたのです。
私は言葉を失いました。
修行でこんなズルいことをするなんて。
その朝、眠気と戦いながら調理当番を務めたことが馬鹿らしく感じられ、怒りがこみ上げました。
怒りの正体
元々「キレる」というタイプではないこともあり、彼には特に何も言わず、私は横になりましたが、その怒りは鎮まりませんでした。
真面目にやっている方が損をするなんて、永平寺はひどいところだ!とすら思ったこの出来事は、私の記憶に強烈に残りました。
しかし、時間が経つにつれ、私はあの時の怒りの正体が見えてきました。
そ正体とは、自分も寝たい!という欲です。
まだ暗いうちかから調理当番を務めたのに、サボって寝ている人がいたことで、「こっそり隠れて寝たい」という一度飲み込んで我慢した欲望が吹き出したのです。
思い返せば、先輩からこっそりタバコをもらって吸っていた同期を見ても、吸わない私はなんとも思いませんでした。
ところが、チョコレートをもらった同期に対しては、羨ましくて憎しみすら沸いたほどです。
そう考えると、寝ていた同期へのズルい!という怒りは、一見真面目な修行僧名の下にあげている声のようで、その根底嫉妬が溢れかえっていたのです。
怒りと欲
実は、カッとなるような怒りというのは、仏教では「瞋恚」といって、三毒という煩悩の親玉の一つに数えられます。
そしてこの瞋恚は、物事を自分の意のままにしたいと思う「貪欲」が叶わないことによって生まれます。
人の不正や抜け駆けが目に付き、怒りが抑えられないというのは正義感のようで、その原動力は自分自身の強い欲であることが往々にしてあるのです。
不正を目にして注意をするとしたら、その人が信頼や人望を失うことなどを心配し、思いやりを根底に持っていなければなりません。
そうではなく怒りによって注意をしたり咎めることは、善いことをしているようで、仏教的には悪いことをしていることになります。
なぜなら、形は違えど自分の欲望に振り回されてしまっているから。
ましてや損をしたと思って怒り、じゃあ私もということになっては本末転倒です。
お釈迦様は、
「機が熟さなければ善行をなした人が辛い目に遭って悪行をなした人が楽をすることこともあるかもしれない。
ただし、必ず善には善、悪には悪の結果が待っている。」
とおっしゃっています。
ズルい!という思いが起こった時、私たちの心の底にはどんな思いがあるでしょうか?
それに気づくことで、自分を見つめ、思わぬ成長のきっかけとなるかもしれませんね。