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坐禅会などを開催していると、よく
「無になれますか?」
「無になるためにきました!」
「無になるっていいですね!」
など、「無」という言葉に関心を持たれている方と出会います。
確かに坐禅というと、精神統一といったイメージから「無になる」というイメージを抱きやすいのかもしれません。
それでは本当に坐禅で「無」になることはできるのでしょうか?
今回はそんな「坐禅と無」のお話です。
Contents
身体と心の関係
さて、先に言ってしまうと坐禅会の中で私たち僧侶が「無になる」と申し上げることは基本的にありません。
曹洞宗の坐禅で行うことは「調身」と「調息」の二つだけ。
「整える」ではなく「調える」という言葉を用いるのは、一つの型に身体や呼吸を合わせるのではなく、それぞれの骨格・筋肉・体調などに合わせてチューニングをするのが坐禅だからです。
それでは心はどうするのかというと、これは身体と呼吸を調えることで結果的に「調う」ものとして考えます。
よく、曹洞宗の僧侶でも「調身・調息・調心」の三調を「身を調え、息を調え、心を調える」と言ってしまう場合がありますが、冷静に考えるとまずそんなことできませんよね?
心で解決できるなら悩み事なんて起こらないはずなんです。
焦りたくないけど心では抑えられないから焦るのであり、怒りたくないけど心では抑えられないから怒るんです。
ですから心の問題を心でなんとかするには限界があります。
ではどうしたら良いのか?
仮に、心が水のように揺れたり溢れたりするものだとするならば、身体はその器です。
器が傾いたり動いたりひっくり返っていたら、中の水はいつまでも落ち着きません。
その器を平らなところに置いて安定させるのが坐禅なのです。
人が「無」にしたいもの
それでは、身体を調え、呼吸を調えた状態で「無」になることはできるのでしょうか?
答えはNO。
少なくとも私はなれません。
坐禅をしていると、目に映るものやその場の香り、周りの音、肌の感触など、普段気づかないようなことにも感覚が働きます。
それは身体一つでそこに坐っていることで、普段は気づかない自分のいのちのはたらきを目一杯実感している瞬間ともいえます。
坐禅をしてみるとわかりますが、坐禅中は「無」どころかあらゆる感覚が「有」なんです。
しかし「無になりたい」という方の中には、こうした命のはたらきを感じながらも「無になれました!気持ちよかったです!」とおっしゃる方がいらっしゃいます。
実はその方の中で一時的に「無」になったものは、日頃抱えている悩みや、その悩みによって起きている心の波なのです。
「無になりたい」という場合の多くは、「無」にしたいものがあります。
ほとんどの方が具体的にしろ抽象的にしろ、自分を悩ませる出来事や関係やノルマのような一度肩からおろしたい荷物が有るんです。
実際は、「無」がどんなものかわからないけれど、悩みや苦しみからくる心の荒波を穏やかにしたくて「無」という言葉を借りるのだと、私は考えています。
実感のない「無」より、実感できる「有」を
人間は生まれてから死ぬまで「無」になることはできません。
しかし、身も心も「有」な状態で、心の波を穏やかにすることはできます。
私の尊敬する曹洞宗僧侶のある方は、坐禅は心の波が穏やかになる「凪」だと表現しました。
またある方は坐禅を「肩の荷物を下ろす時間」と表現されました。
根本からゼロにすることは難しくても、有る状態で安定させることの方が、はるかに現実的で実現可能です。
それが身を調え・息を調える、曹洞宗の坐禅なのです。