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坐禅に関するアレコレを書いてきた【坐禅(座禅)コラム】。
前回はYouTube Liveで開催した摂心についてのお話をしました。
そして今回は、あまり語られない坐禅の危うさについてのお話です。
Contents
坐禅がもつ危うさ
これまでブログや動画でも度々、曹洞宗の坐禅は「何かを得よう」とするのではなく「普段背負ったものを手放す」ものだということをお話ししてきました。
これをきちんと理解して坐禅をすれば、社会生活や人生の中で悩み苦しみを抱えた人にとっては救いといえるものになります。
一方で、坐禅には独特な非日常性や自己肯定感が高まる感覚があります。
静寂とお香の香り、しんと張り詰めた空気感…
「今自分は何か特別なことをしている…。」
そんな感覚から、自分を周りより優れた特別な存在と思い、手放すはずの坐禅がいつのまにか自らのステータスになってしまうということが、往々にしてあります。
坐禅は人生にとっての薬であることは間違いないのですが、用法を守らないと非常に危険な毒になってしまうのです。
坐禅と我慢
以前、日常で使う「我慢」という言葉は仏教的には意味が異なるというお話をしました。
日本語で我慢というと忍耐のような意味になりますが、仏教後では「自分を他者より優れていると思い見下す」という意味になります。
そしてこの我慢の状態になってしまった坐禅を、「慢定」といいます。
定というのは禅定のことで、坐禅で鎮まった心の状態をいいます。
坐禅をして禅定にあると思いきや、実は周りを見下し自分が優れていると錯覚した状態、それが我慢定です。
「自分の方はあの人より長く坐禅をした」
「自分は両足を組んで坐りきった」
「私は〇〇老師のご指導を受けた」
というようなこの心境、坐禅に親しんだ方なら少なからず経験があるのではないでしょうか。
修行中の我慢定
今回こうしたお話をしているのは、何を隠そう自分自身にその経験があるからです。
これは永平寺で迎えた冬のことです。
総合研究センターへの入所も決まり、私は2月の中旬で永平寺をあとにすることが決まっていました。
そんな状況で、私は今のうちに少しでも坐禅をしようと、坐禅のない夜にも一人で坐るようにしました。
曹洞宗の修行生活では、4と9がつく日は少し予定が緩くなり、縫い物や日用品の手入れなどを行い、夜は思い思いに読書などをして過ごします。
私はそんな日も一人で僧堂(坐禅堂)へ向かい、わずかな明かりが灯った中で一人坐禅しました。
永平寺という曹洞宗の大本山で、下山後は入る事のできない僧堂で一人静かに坐っている。
そんな状況に、私は完全に酔っていました。
「自分は一人でもこうして坐禅をしている」
そんな特別感が当時の私にはたまらなくなっていたのです。
仲間が気づかせてくれたこと
そしていよいよ永平寺を下りる直前になったある日、私はいつも通り一人で坐禅をします。
すると入り口の暖簾が動き、人が入ってきた気配がしました。
顔を見てみると、それは私が修行中に一番仲の良かった、同日に上山した仲間の修行僧でした。
僧堂の中では言葉を発することが許されないため、彼は無言で私の横で坐禅をはじめました。
無言のまま、ただただ二人で並んで坐るだけの時間。
彼はその後一年は残ることが決まっていたため、私だけ先に永平寺を去る形になります。
不安で辛くてどうしようもなかった上山直後から、何かと励まし合ってきた2年間。
思えば、修行生活とは何かを身に付けたり自分を磨くというより、自分の至らなさや醜さと向き合う日々でした。
それによって気づいたのは「自分は人の支えなしに生きられない」という事実でした。
彼をはじめ、同期の仲間達や待ってくれている家族や友人、お檀家さんの支えがあってはじめて私は生きているのだと気づけたのが、修行で得た一番の財産でした。
しかし、2年が経ってその生活にも慣れ、間も無く永平寺をあとにしようとしていた当時、私はいつの間にかその事を忘れてしまっていたのです。
「自分」が一人で坐禅をしていることによる優越感や陶酔感で、すっかり我慢定を身に付けてしまっていました。
仲の良かった彼が横で坐ってくれたことで、私はなんとか自分の坐禅の「危うさ」に気づくことができたのです。
坐禅は用法用量を守りましょう
曹洞宗では、修行生活は「大衆一如」といって、みんなで協調性を持った集団行動をとることを大切にします。
そして、坐禅もみんなでやることを重んじます。
それは、自分の都合や理想、願望、好みではなく、今あるご縁に順応していく仏教の生き方ともいえるでしょう。
もちろん、決して一人で坐禅をすることが悪いわけではありません。
ただ、坐禅をする自分の心のベクトルがどこに向いているかにはよくよく注意を払う必要があると、私は感じています。
今自分は、他者にマウントをとったり、自分のこだわりを肯定するための坐禅をしてはいないだろうか?
そんな振り返りがあると、坐禅はきっと人生の薬となっていくでしょう。
どんな薬も用法用量を守ることが大切です。
不安の多い社会なので、良薬として坐禅をしていきたいですね!