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人に迷惑をかけない。

人の世話にならない。

そんな生き方を望み、ピンピンコロリと言われるような最期を思い描く人が少なくない現代社会。

繋がりは広がったけど、「付き合い」は狭まった現代社会で、私たちは無意識に「我慢」をしているのかもしれません。

ただし、「我慢」と言っても日本語として普段使う「我慢」ではなく、その語源でもある仏教語の方の我慢です。

今回は私自身がしてしまっている「我慢」についてのお話です。

人を頼れない自分

私は物心ついた時から、人に頼る、厚意に甘えるということが非常に苦手でした。

一番古い記憶では、友達の家で親御さんが出してくれたおやつに手をつけることになぜか抵抗があったことを覚えています。

大人になり、目上の人のご厚意は受け取るのが礼儀ということを学んで多少は改善したものの、いまだに人からの、特に近しい人からの厚意ほど、なぜか一言目が遠慮や否定になってしまうのです。

ところがそんな私は、サプライズやお祝いなどの、人のために何かをするのは非常に好きな人間でもあります。

小学校の先生が入院する時には、クラスで千羽鶴を折る企画を立ち上げたり、学生時代には友人の誕生日のたびにサプライズを考える「いい奴」だったのです。

それなのに、自分がサプライズやお祝いを受けるのはすごく苦手でした。

この矛盾は一体どういうことなのでしょうか?

そして仏教を勉強していくうちに、この「自分が施すのは好きだけど人から施されるのは苦手」というところが重要なポイントだということに気づきました。

「我慢」は煩悩?!

仏教は歴史の中で、いくつもの派や分野に分かれながら、人間の心について非常に深い考察を加えきました。

その中で、人間の心の動きを表した言葉の一つに「まん」があります。

慢とは、他人を自分と比べて見下す、おごり高ぶりの心のことで、煩悩の一つです。

この慢には七慢や八慢、九慢というようないくつかの種類がありますが、その中の一つに皆様がよくご存知の言葉があります。

それが「我慢」です。

我慢というと、忍耐や辛抱とほぼ同義で、現代で「我慢強い」というのは褒め言葉といえるでしょう。

ところが、『禅学大辞典』の「我慢」の項目にはこうあります。

 

 我慢…七慢の一。我を固執して心の驕りたかぶること。

 

要するに自分という存在を絶対だと思って周りを見下すということです。

なんという言い草(笑)

しかしこれは笑い事ではなく、私が人を頼れないのはこの「我慢」のせいだったのです。

無意識の「我慢」

私の「施されるのは苦手だけど施すのは好き」という心の根底にはこの「我慢」があります。

以前、久保田さんが電車の中で席を譲られたのに断ってしまった、という記事を書いていました。

仏教の説く布施というのは、施す人と施される人の相互関係で成り立ち受け取ることも一つの布施です。

となると、私は「受け取る」という布施が苦手な人間ということになってしまいます。

ちなみにこの布施が成り立たないのは、そこに「貪りの心」がある場合であると、道元禅師は説かれます。

私は仏教を勉強していくうちに、自分が人に施して「相手が喜ぶこと」ではなく、「喜ばせている自分」が好きだったような気がしてきました。

そして我慢という言葉の意味を知った時、私の「頼らず、頼られたい」という心は、自分が優秀であると認められたいという我慢であったことに気づいたのです。

我慢の限界は必ずくる

そんな私の心境が大きく変化したのは、やはり永平寺での修行がきっかけでした。

慣れない環境の中で食欲や睡眠欲は留まるところを知らず、「自分さえよければ」という気持ちが心を支配します。

同時に、一人ではできないことや、わからないことにもたくさん直面しました。

すると、それまで「いい奴」だと思っていた自分はあっけなく崩れ去り、その中から欲張りで人の力を借りずには生きられない本当の自分が現れたのです。

こうして自分の醜さや弱さに直面し、私は少しずつ人を頼るということができるようになっていきました。

ちっぽけな「我慢」に限界がきたのです。

我慢せずに頼るのも修行

諸行無常のこの世界の中で、自分が一人では生きていけないということ、そして無意識のうちにある欲に気づくことは仏教の教えの根本的な部分です。

ところが、医療や科学の発達した日本の社会では、人はつい自分が無常であることを忘れ、自分を他人より高いところに置きたくなるものです。

優生思想などはその最たる例かもしれません。

自分は不変の優れた存在だという思い込み、我慢。

ひょっとすると私に限らず、かなり多くの方が我慢を抱えているのではないでしょうか。

仏教の立場から考えれば、自分ができることを惜しまずにやって、できないことはしっかりと他人を頼って生きたらいいんです。

できることというのは別に特殊技能ではなく、言葉や表情、思いやりなど、ごく日常にあるもののことです。

ところがそんな簡単なことがなかなかできないものなんです。

私も長年培った我慢がまだまだ抜けませんが、少しずつ人の厚意に対して「お願いします!」と言えるようになってきました。

よくない我慢をせず、布施を受け取るということは、簡単なようで難しい、非常に大切な仏道修行なのです。

 

 

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