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突然ですが……
皆様は「景色」を観るのは好きですか?
車窓の風景、ゆく川の流れ、雄大な山々、大都会の夜景、静かな湖面……
この世界を彩る様々な景色。
そんな景色をただ眺めているだけで、不思議と心が満たされていくのを感じることができます。
今回は自称・景色ソムリエこと久保田が、自分自身の景色の味わい方の変化を振り返りながら記事をしたためていきます。
Contents
景色ソムリエ=ただの景色好き
いきなり景色ソムリエなどという仰々しい言葉を持ち出しましたが、
なんてことはない、その実態はただ景色を眺めるのがひたすら好きな好青年(?)です。
しかし特に景色が好きだという自覚がなくとも、
美しい景色に心を奪われるという経験は誰もが持っているものではないでしょうか。
私自身も、フランスのモンサンミシェルや、
ギリシャのメテオラ修道院など、
世界的に有名な景勝地にいつかは行ってみたいという思いを抱き続けています。
とはいえ、このような名の知られた景勝地でなくとも素晴らしい景色はそこかしこにあります。
旅先で景色に目を奪われ、旅程も忘れてひたすら時間を費やしてしまうという経験をお持ちの方も多いことでしょう。
私などは、友人と旅行をする際には、
「私はとにかく景色が好きだから、外ばっかり見てるけど許してね!」
と、言いおいて窓にかじりついてしまいます。
わが国日本の特徴のひとつに、自然に恵まれ、豊かな四季があるということがありますが、
四季折々に変化する日本の景色は、私を飽きさせることなく、その心を捉え続けているのです。
景色ソムリエ誕生の経緯
さて、このように景色が好きで仕方がない私ですが、
一体いつから景色ばっかり見ているようになったのだろう、と、思いを巡らせてみたところ、
その答えは幼少期からの経験にあるのではないか、というひとつの推論にたどり着きました。
以前からこのブログで紹介しておりますように、私久保田の出身地は北海道!
豊かすぎるほどに豊かな自然の中に育ち、
また地理的条件から幼少より車での長距離移動を繰り返していたこともあり、
雄大な景色を只ひたすら眺めるということは私にとって、生活の一部であったのです。
特に車での長距離移動の最中……
日帰りで100kmや200km先に赴くことが当たり前の北海道の暮らしの中で、
車内での時間をいかに過ごすかということは、動きたい、騒ぎたいざかりの子どもにとって大きな問題です。
弟たちと大騒ぎすれば、たちまちお父さんに叱られてしまいますし、
おしゃべりをしていても、いつしか話題も絶えて車内は静かになってしまいます。
小学校低学年の私は、家族とのお出かけは大好きでしたが、車での移動に関しては退屈すぎて仕方がありませんでした。
そんな幼少期の私が、退屈解消の手立てとして選んだのが「景色を見ること」です。
車の窓から次々に移り変わってゆく景色を眺めていると、何とか車内の退屈さを紛らわせることができたのです。
変わっていく景色の観方
しかし、そんな退屈の紛らわせ方にも限界がやってきます。
大抵の場合、長距離移動の際は同じ道路を行き来することになりますから、
程なくして私は、代わり映えのしない景色に飽きてしまったのです。
とはいえ、景色を見ることまで退屈でつまらないとなってしまうと、車内での時間つぶしがなくなってしまいます。
今度は、いつもの景色の中に、普段と違うものを探し求めながら景色を眺めるようになりました。
木々の隙間や草むらから覗くウサギやシカを探したり、山肌を歩くヒグマを見たり、道路の落下物を探してみたり……
常に、いつもとは違うもの、を探していました。
この景色の見方には、疲れる、という欠点がありましたが、退屈を紛らわせるにはもってこいの方法でした。
何とか景色を観る行為を楽しいものにしようとしていた私ですが、
そんな景色の見方が変わったのはいつの頃でしょうか。
はっきりとは覚えていませんが、いつの間にか、
何を探さなくとも、新しい発見がなくとも、ただ景色を眺めているだけで心が満たされていくのを感じることができるようになっていました。
ただ景色を観ているだけで
その理由は様々考えられます。
成長にしたがい、ひとり考えをめぐらすようになったこと。
都会に出たことで、田舎の景色がまた新鮮なものに戻っていったこと。
いろいろと思い当たる節はあるのですが、もっとも大きな理由は、
いつも眺めている景色の中には、ひとつとして同じ景色がないと気が付いたということなのだと思います。
時間や日の当たり方による変化……
四季折々の変化……
砂利道だった道路がいつのまにか舗装されている……
伐採によって林が一つ消えたかと思えば、数年前植林された木々が育っていたりする……
このように常に変化しつつある景色の姿に気が付いたとき、そこに新しいものや美しいものをあえて探す必要がなくなったのだと、今にして私は思うのです。
そして、仏教を学び、僧侶として生きるうち、
私にとって、景色を観ることはいつしか、
自分が絶え間ない変化の中にあり、その中に生きていることを自覚するという意味を持った行いに変わっていきました。
仏教で説かれる縁起している世界の中、無常の世界の中で自分自身が存在するということを、
あらためて確認する意味を持った行いとなったのです。
景色を観ることと、坐禅をすること
そして、それは私の考える坐禅の姿に通ずる部分があります。
背筋を伸ばし、床にどっしりと根を張り、呼吸を静かに調える。
自分の周囲、身体を支える床、代謝をまかなう呼吸、そうしたすべてがかかわりあう中で坐っている。
坐りながら、このように自覚するのです。
もちろんこれが、坐禅のすべてというわけではありませんし、この感覚も私個人のものです。
しかし、たった一人では生きていくことのできない人間にとって、周囲とのかかわりをはっきりと感じていくことは、
人が人らしく生きる上で、まさに必要不可欠な行いです。
景色を観ることで不思議と心が満たされていく背景には、
人間の本来のありようを確認できるという側面があるからなのではないか。
私はこのように思います。
それでは、最後に完全なる蛇足を付け加えまして、本記事を終えます。
ここまで読んでくださった皆様、本当にありがとうございました。
蛇足
ところで、延々と景色を眺め続けてきた中で、たった一つ今でも悔やんでいることがあります。
それは、飛行機から地上の景色を眺めていた時のこと。
山奥にある一軒家が「燃えている」ように見えたのです。
家の外に炎が噴き出しているというわけではなく、家の窓の中に炎が揺らめいているような具合でした。
周囲の座席に、そのことに気が付いた様子のある人はいません。
驚き、戸惑いながら、何度も見返しました。
「あれは、燃えているよなあ……?」
飛行機からその一軒家まではだいぶ離れていたため、はっきりと確証は持てませんでした。
さらに飛行機は着陸間際の低空飛行の最中。
見間違えかもしれないのに、他の誰かに確認を求めたり、大騒ぎをするのも気が引けました。
どうしよう、どうしようと迷っているうちに、その家は視界の外に出てしまい、飛行機は空港へ着陸しました。
その後、火事のニュースがないか探しましたが、結局は見つからず、その真相はわからずじまいです。
あの時、すぐに客室添乗員を呼んで、確認を促せばよかったのではないか。
勘違いでも、ちょっと恥をかくだけだ。それでよかったじゃないか。
住人は無事だったのだろうか。
この時のことを思い出すと、至らぬ自分に時たま苦々しい気持ちになります。