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坐禅に関するアレコレを書いているこちらのコラム。

前回は坐禅で「ととのえる」という言う時に「整」ではなく「調」という字を使う理由について考察しました。

今回は坐禅の時に目を閉じるか閉じないか問題について考えます。

坐禅と目

これまで様々な場所で坐禅会などをやってきて、参加者様がよく驚かれることがありました。

それは、坐禅の時の「目」です。

坐禅というと、瞑想のイメージもあってか、目は閉じるものと認識されている方が多いようですが実はそうとも限らないのが曹洞宗の坐禅です。

そこで今回は、

・曹洞宗の坐禅と瞑想の違い

・曹洞宗の坐禅の目に関する2パターン

・個人的見解

の3ブロックに分けて話を進めたいと思います。

曹洞宗の坐禅と瞑想の違い

近年のヨガブームもあってか、坐禅の場に来られる方の中には、しばしば瞑想に興味がある方や経験者の方もいらっしゃいます。

事実、坐禅の起源はインドのヨーガの修行法にあり、歴史で言えば曹洞宗の坐禅は修行法としては瞑想の孫の孫のずーっと離れた孫くらいの存在です。

そんな血縁関係と言っても良いほど濃い繋がりがある曹洞宗の坐禅と瞑想ですが、一つだけ明らかに異なる点があります。

それは

ゴール(結果)を求めないこと。

これは瞑想との違いどころか、他宗派の坐禅とも異なる曹洞宗の坐禅の特徴です。

以前からお伝えしているように、曹洞宗では「さとり」と言い表されるような心の状態は姿勢を調え、呼吸を調えることでおのずと現れてくる、と考えます。

これによってあらゆる人がその身体にお釈迦様と同じ心を表すことができる、という安心感がある反面、一生懸命な方ほど肩透かしを食らったような気分になってしまうこともあるかもしれません。

曹洞宗の坐禅の目に関する2パターン

曹洞宗では、坐禅中の目の在り方に関して二つのパターンがあります。

二つのパターンとは言っても単純に、

目を開くor閉じる

というだけのことです。

まず、坐禅をするときは目は常に開いておく、というのが曹洞宗の坐禅の基本のスタイル。

ただし、慣れてきた人は閉じても良いが、慣れてないと眠くなるから開いた方が良い、とも言われています。

確かに、バッチリ目が冴えた状態で坐禅が始まっても、目を閉じたら気づけば寝てしまっていた、という経験が私もあります。

これには呼吸による効果もあるのですが、それはまた改めて。

それでは結局、目を開くのと閉じるのでは、どちらが良いのでしょうか。

 

個人的見解

私は、坐禅をする時は目は開く派です。

それはまさに瑩山禅師がおっしゃるように、私が未熟なあまり眠くなってしまうから、というのが一つ。

もう一つは、今持っている感覚を閉ざさずに受け入れていきたい、と思うからです。

視線の向きとまぶたの状態

坐禅をする時に目を開くというのは、ぱっちりと目を見開くというわけではなく、まぶたの力は抜きつつ閉じないという状態です。

その状態にする上で重要なのが斜め下を見る、という視線の向け方です。

今その場で顔を起こした状態で目だけは斜め下に向けてみてください

そして次に、その視線を前に向けてみましょう。

いかがでしょう、視線を前を前に向けた時、まぶたが少し開きませんでしたか?

実際にお試しいただくとお分かりになると思いますが、視線を前に向ける時、人はわずかにまぶたを開くという運動をしているのです。

逆に、斜め下に視線を向けるというのは、眼球にも無理なく、顎を引いた状態でもまぶたに力を入れずに目を開いておける状態なのだと私は感じています。

余談ですが、私はどうやら目が大きいようで、寝ている時も目が半分空いているらしく、そもそも目を閉じる方が大変なのかも…。

感覚を閉ざさない理由

では、なぜそうまでして私は目を開き、視覚を遮断したくないかというと、これはお釈迦様の坐禅の形に近づけたいです。

お釈迦さまと坐禅

お釈迦様は、老い・病を患い・死んでいくという人間の現実に対する苦悩を克服するために出家をしました。

そして瞑想や苦行という修行の中で、一時的に答えに近いものを感じるも、結局根本的な苦悩の克服には繋がりません。

そこで苦行をやめ、食事をしてから川で沐浴をして体を浄め、菩提樹という木の下で坐禅をします。

そしてその坐禅によって、あることに気づくのです。

それは、あらゆる物事には原因と条件があって、それによって成り立っているということ。

種という原因があり、養分や日光や水分という条件が加わることで花が咲くように、苦しみにもまた原因と条件があるのではと、お釈迦様は考えました。

そこで老い・患い・死ぬということの苦しみの原因を辿っていくと、最後にたどり着くのは自分という存在に対する執着だったのです。

人間は自分の命が「自分のモノ」だと思うから、衰えてゆくのが辛い、病にかかるのが辛い、そして消えてゆくのが辛いのだと、お釈迦様は気づきました。

これがお釈迦様の「覚り」です。

そして、それならば自分の所有物などではなく、生命の循環の中にいる本来の自分という存在を自覚して生きていこう、というのが仏道修行です。

本来、坐禅に色々な言葉や意味を加えるべきではないのかもしれませんが、坐禅とは生命の循環にいる自分を実感する状態だと、私は思っています。

坐っているその空間の音や匂い、口を閉じていても存在する何かしらの味、衣服や畳に触れる肌の感触。

そして、今目の前にしている光景。

今、自分が持っている感覚器官の働きは、自分がそこにいることの証明でもあります

もちろん、感覚器官が備わっていなければ坐禅ができないというわけではありません。

いくつあろうと、生まれ持ったこの身体が、感覚という方法で今生きているこの命の存在を教えようとしてくれているなら、それを遮断する必要はないのではないか、と私は思うのです。

目を閉じて集中したい、という気持ちもわからなくはありませんが、坐禅をしている時くらい、自分の感覚を目一杯楽しんでもいいんじゃないか、とも思います。

まとめ

今回のコラムは、あくまでも私の感覚、もしくは好みのお話です。

むしろ、これを読んでくださっている皆さまには、ぜひ一度、目を開けた坐禅と閉じた坐禅、両方お試しいただきたいと思います。

いっそ、五感を一つずつ遮断していく坐禅をしてみると、自分が普段無意識に受け流している感覚に気づくことができるかもしれません。

坐禅には一つの「型」はありますが、感じ方は十人十色です。

ご自身の感覚とそこで生まれた違和感や疑問を無理に飲み込まず、向き合っていくことで様々な発見があるはずです。

そして坐禅会などでその発見をお互いに共有できると、坐禅はより良い方向に普及していくかもしれませんね!

 

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