弔辞・弔電の意義を考えてみた

昨今、コロナ対策で様々なものが規模縮小、時間短縮されています。

それは「効率化」につながる場合もあるのかもしれませんが、

一方で、削られたり、失ったりしてはならないものまでなくなってしまったと感じることもあります。

 

「葬儀における弔辞・弔電」もその一つです。

 

最近は、コロナ対策の観点からか、

弔辞が読まれるご葬儀は少なくなってきているように感じます。

また「コロナ対策の観点から弔電はすべてご芳名のみ読み上げさせていただきます」というケースも経験したことがあります。

こうした状況は、社会情勢を鑑みて、やむを得ないことであるのかもしれませんが、

私としては残念でなりません。

弔辞・弔電の大切さ

弔辞・弔電は、

「故人と近しい関係にあった方や、何らかの事情で参列のかなわない方が、ご供養の気持ちをお届けする」

掛け替えのない機会です。

こうした機会はもっと大切にされなければならない、と感じます。

 

これまでは弔辞・弔電について、僧侶や寺院の方から、

「必ず弔辞を用意してください」

とか、

「弔電はなるべくすべて読んでください」

などとお願いすることは少なく、

喪主の方や葬儀社の方針に任せていることが多かったのではないかと思います。(※ 推測です。もちろん例外もあると思います。)

 

しかし、

もしも「弔辞お断り」「弔電はすべて省略」というようなやり方が、

当然のようにまかり通ってしまうのならば、

僧侶、寺院の方から何らかの働きかけをしていく必要が生まれてくるでしょう。

 

それだけ、私は「葬儀における弔辞・弔電」を重要なものと捉えています。

弔辞・弔電のもう一つの大切な役割

先ほど、

弔辞・弔電について、

「故人と近しい関係にあった方や、何らかの事情で参列のかなわない方が、ご供養の気持ちをお届けする」

掛け替えのない機会、と書きました。

しかし、私はそれだけではなく、

弔辞・弔電にはもう一つの大切な役割があると考えています。

 

それは、ご葬儀に参列した方々のご供養の気持ちを一つにまとめ上げるということです。

 

葬儀に参列した方々が抱く気持ちというのは、様々だと思います。

故人との関係性やお付き合いの深さも異なるでしょうし、

誰もがまったく同じ気持ちでいるということはまずありません。

 

しかし、言葉には、それだけで人を共感させる力があります

弔辞・弔電で、

故人との思い出や、生前のご様子とともに、

死を惜しみ、悼む気持ちが語られたとき、

参列する方々の気持ちは、より近しく故人に寄り添います。

 

人生の最後を飾る葬儀という場において、

参列した方々のご供養の気持ちをまとめ上げるという役割は、

故人の死を悼む「生の言葉」だからこそ果たせるのではないでしょうか。

実際に私も、弔辞・弔電は、

一字一句聞き洩らさぬようにしています。

そうすることで、自らの気持ちが故人や参列する方がたにより近しく寄り添えると思うからです。

 

ちなみに……

これは、私個人の考えですが……

「弔辞・弔電で寝るくらいなら、お経で寝てくれ!」

と思います。

お経で寝てもいいの?→できれば起きていてください

たまに、ごくたまにですが……

ご葬儀の際に「いびき」が聞こえてくることがあります。

 

それも決まって、「弔辞・弔電」のとき。

 

もしかするとお経を唱えているときは、自分自身の声でいびきに気が付いていないのかもしれませんが、

なぜか弔辞・弔電(特に弔電の際)に寝ている方が多いように思います。

 

お経で寝てしまうのは……

そりゃあ、なるべくなら起きていてほしいですが、

ある意味、仕方がないことだと思います。

 

葬儀の際のお経は故人を安んずるために読まれるものですし、

木魚が刻む一定のリズムや低音で発せられる読経の声

心地よい鐘の響き

 

眠くなって当然です。

 

寝てしまったくらいでお経の功徳は減りませんし、

寝てしまっても故人とともに安らかな気持ちになる、と捉えることもできるかもしれません。

 

しかし、弔辞・弔電は寝ちゃダメなんです!

聞いてなきゃ意味がありません!

 

緊張しながらお経を聞いていると、

弔辞・弔電が始まったときにはその気持ちがゆるんで眠くなってしまうのかもしれませんが、

お経はなるべくリラックスしながら耳を傾け、弔辞・弔電は集中して聞く。

こういった心持ちで参列していただきたいと思っています。

こんな弔辞は○○だ。政治家S先生の場合。

少し話はズレますが、

以前つとめさせていただいた、とある会社の社長さんのご葬儀での弔辞の話をご紹介したいと思います。

そのご葬儀では、弔辞が読まれました。

その弔辞を読んだのは、とある政治家の先生です。

仮にS先生としておきましょう。

 

地元では大人気で、人を惹きつけるパワーを持ったS先生の弔辞は、

何と言うか熱がこもっていて、

「ああ、本当に故人のことを想っているんだなあ」

と感じ入るとともに、

「さすが、人たらしとして知られる先生じゃわい」

と感心させられるものでした。

 

ところが、

弔辞もいよいよ終盤というところになって、S先生が発した言葉に、

私は思わず心の中で、

「ズコー!」

とずっこけてしまいました。

 

それがどのような発言であったかというと、

「……だからこそ!亡くなられた○○さんと何度も語り合った、北方領土返還を私が生きているうちに果たしたい!」

「それをもってご供養としたい!」

というものでした。

 

……それは、確かに、S先生にとってはご供養になることなのでしょう。

S先生と故人の間では、それを大きな目標として、信念として共有していたのかもしれません。

しかし、領土問題という非常に政治的でセンシティヴなことを、

弔辞の場で言ってしまうのはどうなのかなあ、とモヤモヤした気持ちになりました。

 

こうした話題は、万人が同じ意見を持つことがなかなか難しいものだと思います。

先にも書いたように、

弔辞・弔電は参列者の気持ちをまとめ上げ供養の気持ちを一つにするという役割を担っています。

やはり共感が難しいという点で、弔辞において述べるには、政治の話題は不適切だなあ、と感じたのです。

混ぜるな危険!~〇辞・〇電のNG語り

政治の話題以外にも、弔辞・弔電には向かない言葉や話題があると思います。

それは、祝辞・祝電でも同様かもしれません。

 

パッと思いつく限りで言えば、

・必要以上に自分語りをする

・政治の話題ように利害、損得が絡む話題を交える

・ジョークの範疇を越えて、恨み言や苦言を呈する

・ひたすら長い

こんなところでしょうか。

 

これらは参列した方の気持ちをまとめ上げるどころではなく、

下手をすると、

言葉を贈られる側への気持ちをバラバラに引き裂く邪悪な雑音となります。

 

もし、自分が何かしらのスピーチをさせていただく機会があるとしたら、

こうした雑音には細心の注意を払いたいものです。

おわりに

さて、今回は弔辞・弔電の持つ、

「共感」を促すという役割について書かせていただきました。

ここまでは言葉を贈る側の話をしてきましたが、

最後に、その言葉を参列者として聞く側も、しっかりと聞かなければならないということを書いておきたいと思います。

 

弔辞・弔電あるいは祝辞・祝電の際に、

疲労から眠ってしまうのはまだしも、

スマホをいじったり、パンフレットばかりを読んでいる方は、

これはその式典への「無関心」を表明していることに他ならないと思います。

 

供養の場、祝賀の場……

「場」とは、皆で作り上げるものです。

その「場」にいるものは「場づくり」に貢献する義務を負うと私は考えます。

皆が心を一つにして、死者を悼んだり、あるいは門出を迎えた人を祝ったりする場において、

このような態度は、はなはだ不適切であると言わざるを得ません。

 

ついスマホの通知が気になったり、手元のパンフレットが読みたくなったりというのは、誰にでもあることだとは思いますが、

自分の振る舞いが、その「場」に影響を与えるということをよく踏まえて、

行いをあらためていきたいものです。

(まあ、ずっと集中し続けるのも、その場が堅苦しくなりすぎてしまうと思います。いい塩梅で。)

 

なんか、今回は、堅く、重めの記事になっちゃいました!

まあ、こんなこともあります!

それではまた次回!

ここまでお読みいただいた皆さま、ありがとうございました!

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