スポンサードリンク
連日ニュースになる有名人の「失言」。
特にSNSが普及してからは、その増加が顕著です。
今まで表に出てこなかったものが一般人にも見えるようになったと考えれば良いことなのかもしれませんが、それにしても多すぎるような気がします。
そこで某政党は党員に対して「失言防止マニュアル」なるものを作って配っているのだとか。
結局配って間もなく、すでに次の失言が出てしまっているわけですが…。
ではこの「失言」の根本的な原因とはなんなのか、マニュアルで防げるものなのかを仏教の立場から考えてみます。
Contents
言葉と心の関係
お釈迦様は、人の行いを身と口と思いに分けて教えを説きました。
身業・口業・意業の三つを身口意の三業といい、同時にこれが人間そのものを作り上げていくといいます。
わかりやすいのが言葉遣いです。
日頃から「うざい」や「やばい」などの公共の場にはふさわしくない言葉に感情表現を任せていると、それが癖になってしまって、無意識にその言葉が出てしまうようになります。
そして私たちの身心というのは、自分の過去の行いを蓄積していくメモリ機能があります。
善いことも悪いことも、日々の行いは経験としてどんどん蓄積して、癖や習慣となって現れます。
小さな頃には叱られたような言葉を、初めは周りに合わせて嫌々使ったとしても、心に蓄積されるうちに当然になっていくのです。
そうして体の行いも言葉も思いも、繰り返すうちにどんどん分厚い地層のように積み重なってそれがいつの間にか「自分」そのものになっていきます。
そしてこのメモリ機能のすごいところは、外に出していないこと、人に気づかれていないこともしっかりと記録しているということです。
例えばネット上で匿名で人を中傷して、身元がバレていないから大丈夫と思っても、それを書いている自分自身が全て見ています。
そうして自分の行いが積み重なって心をつくり、その心から次の行いや言葉が生まれます。
そう、私たちの言葉というのは「心から生まれ、心を作る」という、心とは不可分の関係なのです。
心が生む「失言」
ここ最近ニュースになった失言の中でも、私が深刻だと思ったのは、維新の会の議員である長谷川豊氏の差別発言でした。
長谷川豊氏の差別発言について、日本維新の会の松井一郎代表は人権問題の専門家らによる第三者委員会を週内にも開き、意見を聞いたうえで処分する方針を明らかにしました。 https://t.co/62Xyb5iPh4
— 毎日新聞 (@mainichi) 2019年5月27日
同氏は講演会で、江戸時代の身分制度の中で被差別階級とされた人々を「人間じゃない」「犯罪のプロ集団」などと揶揄しました。
この発言の時点で十分に大問題でしたが、私が問題だと思うのは、同氏が元フジテレビアナウンサーであるということです。
テレビ放送に関わっていたのなら当然こうした不当な差別などからくる放送倫理や差別用語というものに関する教育は受けていたはず。
それがこうして立場が変わった途端に問題発言として出てしまうのは、他ならぬ「心」の底に問題があったからではないでしょうか。
実は曹洞宗も、過去に世界の宗教者が集まる会議で、当時のトップが失言をし、大問題となったことがありました。
それを機に宗派全体で人権問題に取り組む動きが始まり、今も続いています。
この問題の根幹にあったのは、どれだけ仏教を語りながらも、本当に差別問題を理解しようとしなかった「心」に問題があったのです。
こうした失言や問題発言が生まれる瞬間というのはスピーチや演説のように、原稿に沿ったものではなく、パーティーや講演会などの味方が多い場や質疑応答など、アドリブが求められる状況であることが多いような気がします。
気が抜けてたり、本音が出やすい場でこそ、心からの言葉は出やすいのです。
失言を防ぐ方法
よく失言のあとに「撤回する」と言いますが、心からうっかり出てしまったものを回収したところで、何の意味もありません。
ガムを万引きをしようとしたら転んでポケットから出てしまったのを、慌てて隠して「なんでもない」と言っているようなもの。
見出しをつけるまでもないかもしれませんが、失言を防ぐ方法は、少しずつ日頃の行いを変える以外にはありません。
身口意の三業はそれぞれが密接に関わり合い、一つが悪ければその影響が他にも及びます。
逆に、まずは行動、まずは言葉、と意識することで確実に善い方向に変わっていきます。
私たち一般人でもちょっとした行いの中に現れる欲や怒りや慢心というものに気をつけないと、ある時取り返しがつかなくなるような言葉が口からポロっと出てしまうかもしれません。
どんな行いをし、どんな言葉を遣い、どんな思いを抱くか、これを見直さない限り有名人の失言、いや本音は世間を騒がせ続けることでしょう。