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前回の更新から少し時間が空いてしまいましたが、坐禅について考えたことを書いているこちらのコラム。
前回はイス坐禅の魅力に触れました。
今回は、坐禅をする時に脚とお尻の三点で支えるということの意味を身心の両面で考えてみました。
Contents
重要なのは脚を組むこと?
色んな方に坐禅をオススメしていると、よく「私身体硬いんで…」と、身体の柔軟性の有無でなんとなく避けてしまう方がいらっしゃいます。
または、脚を組むことに一生懸命になって、激痛の中で一人我慢大会を開催される方がいらっしゃいます。
先に言っておきます。
禅活の僧侶メンバー4人のうち、私西田と久保田、深澤は両脚を組む結跏趺坐ができません。
私は高校、大学、修行中と足首の靱帯を伸ばしたせいか、足の長さの問題か、組めたとしてもほんの数分しかもちません。
元々、道元禅師は著作の中で両足を組む結跏趺坐と、片足だけを組む半跏趺坐という二通りの坐り方を示されました。
そしてその後、様々な方が試行錯誤を繰り返す中で、ヨガなどで行われる脚を組まない安楽坐(蓮華座)や、脚に坐蒲(or座布団)を挟んで正座する日本坐などの坐り方も勧められるようになりました。
脚を組むことが重要ならせめてあぐらの方が良さそうなものですが、私は基本的にあぐらはオススメしていません。
それはなぜでしょうか?
「組み方」より「支え方」
実は坐禅をする時に最も重要なのは、脚を組むことではありません。
重要なのは、背骨という柱を立てるための土台として、下半身を安定させることです。
脚を組むのは、脚とお尻の三点で身体を支えるのが安定するからです。
逆に言うと、安定しない、痛くて辛いのであれば無理に組む必要はないのです。
脚とお尻の三点で体を支える、重要なのはここです。
結跏趺坐、半跏趺坐、安楽座、日本座、これらに共通するのは、脚とお尻の下の坐蒲の三点で身体を支えているという点です。
足と椅子で身体を支えるイス坐禅でもこれは同様ですね。
一方で、無理に脚を組んだりあぐらで座った場合には、お尻と片足、あるいは脚を交差した場所の二点で支えることになってしまいます。(ちなみに私の経験では、あぐらはどんな組み方よりも痺れます。)
椅子や机を組み立てる時に重要なのは、説明書の手順通りに組み立てることか、多少手順は違っても工夫しながら安定するように組み立てることか、そう考えるとわかりやすいかもしれません。
坐禅で大切なのは足の組み方ではなく、支え方なんですね。
三点で支えるということ
さて、人間は数ある哺乳類のなかで、飛び抜けている身体能力があります。
それは二足歩行です。
体重の約10%にもなる重さの頭というパーツを先端に付けながら、二本の足でここまでスムーズに歩き、走り、しゃがみ、跳ねることができる動物は人間以外にいません。
しかも、身体の作りは前後左右が非対称であるにもかかわらずです。
ロボットですらこんなことできません。
それほどに、2本の足で立つ、二点で身体を支えるというのは本来不安定なことなのです。
物が安定して立つには三点以上の支点が必要です。
(Amazonより)
これも
(auWowma!より)
これも
(Enter the stageより)
こんなのも
そしてこれも三点です。
坐禅の形は、二点で支えて立つという不安定な状態から、三点で支えて安定させるということでもあるのです。
精神面に置き換えると…。
では、今度はこの三点で支えるということを、心や精神面に置き換えて考えてみます。
#6でご紹介したように、地面に脚をつけること、これ自体に大きな意味があります。
地面というのは、土や草木、動物の死骸が積み重なってできた、いわば死の重ねです。
しかし、この地面によって草木が生え、動物が生き、私たち人間も生活ができています。
つまり、普段意識していないだけで、私たちは死によって、積み重なった命によって支えられて生きています。
私は、お釈迦様が老病死の恐怖を坐禅で克服したこと地面には、大きな関係があると思っています。
自分の身体の中だけで生きていると思うのではなく、自分は死に支えられて生き、いずれ支える側に回ると考えるのが仏教の縁起の教えです。
そして、三点で体を支える、お尻の下には坐蒲や椅子を置くというのは、そんな地面の上に自分の力だけで立とうとしないという意味があるのではないでしょうか。
ダウンしたボクサーが試合を続行するには、両足で立ち、ファイティングポーズを取らなければなりません。
もちろん選手には背負うものはあると思いますが、これは「まだ自力で頑張れる」という意志を表すものだろ言えるでしょう。
坐禅はその逆です。
二本の脚だけで立とうとせず、腰掛けるものをしっかり頼るのです。
三点で支えるということを精神面に置き換えるなら、支えてくれるご縁に気付き、自分だけで頑張ろうとしないということと言えるのではないでしょうか。
三点で支えられて生きる
私は、三点で支えることの重要性は坐禅に止まらず、生き方の中にも感じています。
「永平寺の門を叩いた日」でも書きましたが、上山の時、極寒の山門で私を踏みとどまらせてくれたのは、自分の体力でも知識でも根性でもなく、送り出してくれた人の存在でした。
友人や家族の存在が、ぽっきり折れて倒れそうになった私の心を支えてくれたのです。
自分の為に、自分の力で、自分の脚だけで立とうせず、支えてくれる存在を心に持つことで、私たちは一歩踏ん張ることができます。
形にこだわりすぎて全くバランスが取れなければ、長持ちしないのは、坐禅も人生も一緒です。
そんな三点で支えられた生き方ができると、少し心が安定するかもしれませんね。