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このブログも開設から3年が経ち、これまで色んな記事を書いてきた私ですが、唯一同じテーマでずっと続いてきた連載があります。
それが、肉食と仏教を考察する【肉を食べるということ】シリーズです。
仏教徒として、さらにその中でも曹洞宗の僧侶として肉食と、それに関連した様々な問題にどう向き合うか、ということをこれまで考察してきました。
これは曹洞宗総合研究センター教化研修部門に所属する私の研究テーマでもあり、この内容に関連して2度学術発表をし、今年も研究を継続しています。
今回は、この発表の内容から「曹洞禅の食」とは一体何か?ということについてお話しします。
Contents
曹洞宗の食=精進料理?
まず、曹洞宗の食というと、かなりの割合で=精進料理として発信されている現状があります。
この点については以前も記事にしておりますが、精進料理という言葉は曹洞宗の書物や仏教書には登場せず、いつ、どうやって生まれた言葉なのかも定かではありません。
有力な説としては、仏教伝来後、貴族の間では宗教行事などに際して身を清めるために行う「精進」という期間があり、この時に口にされていた食事「精進物」が原型ではないかと言われています。
ただし、この精進は仏教の伝来によって生まれた習慣かというとそうでもなく、仏教伝来のはるか昔、『魏志倭人伝』などでも人の死に際しては肉食や飲酒を慎む習慣があったことから、日本の土着信仰を仏教がより強くしたものと考えるのが妥当でしょう。
そのため、精進料理、あるいは精進物の本来の目的は「肉を食べないこと」であり、食べ方や作り方を修行とする要素はそこまで求められていなかったのではないでしょうか。
実際に、江戸時代にポルトガルの宣教師向けに作られた日本語→ポルトガル語の辞書『日葡辞書』には「精進」という項目はありますが、「肉を食べないこと」あるいは「肉を使わない料理」という意味しか掲載されません。
ここから、江戸時代には民間では精進という言葉が本来の「仏道に励む」という意味合いから遠のいていた可能性が考えられます。
こうした点から私は、精進料理とは菜食を目的としながら発展してきた日本の食文化と捉えるべきだと考えています。
曹洞宗の食の教えがもつ可能性
では一方で、その精進料理と曹洞宗の食の教えはどう違うのでしょうか。
これまでの連載で、曹洞宗にとってのいのちの捉え方、不殺生の解釈、そして作り方・食べ方などについてお話ししてきました。
それらを総合すると、曹洞宗の食の教えというのは肉を食べていいかどうか、野菜だけでいかに美味しい料理を作るか、という小さな枠組みに止まるものではなく、「食べる」という行為そのものとの向き合い方なのではないでしょうか。
道元禅師が書かれた『典座教訓』には調理の心構えは説かれても、使う食材の可否には言及されいません。
実際に、それぞれの地域で食を考える上で、菜食を是、肉食を非と語ることができるでしょうか。
酪農や畜産業、漁業の盛んな地域でお檀家さんにそれを言えるでしょうか。
そういうことではないんです。
これまでも書いてきたように、「何を食べるか」ではなく「どう食べ、どう生きるか」が重要なのです。
曹洞禅の食の3つの特徴
それではこうした視点を踏まえ、私はこれまでの記事や研究から以下の3つの特徴を「曹洞禅の食」として定義づけてみました。
①食物を平等に「いのち」と捉える
まずは、この連載でも触れたように、曹洞宗の仏性の捉え方から考えれば、動物であろうと植物であろうと、有機物であろうと無機物であろうと、縁起という法則の上にあるものは全てが「仏のいのち」になります。
そのため、仮に食べるということが殺生になるというならば、それは植物でも同様です。
逆に言えば、「五観の偈」でも触れたように、食べなければいけない私たちは、肉や魚を食べよう植物を食べようが等しく責任を負って生きていかなければならないのではないでしょうか。
動物性や植物性という分別を加えてしまうことで、様々な争いや差別が生まれているのも事実です。
全てを平等に見て、全てに責任を負うという姿勢、これが曹洞禅の食の第一の特徴です。
②「仏の命を続ぐ」という能動的な不殺生
中国や日本の仏教で肉食が戒められてきたのは、不殺生戒を守るというのが一番大きな理由でした。
しかし、曹洞宗の修行の上で、不殺生とは食べないようにする、調理しないようにする、というような消極的で地雷を避けるようなものではありません。
全てのものを「仏のいのち」として捉えたうえで、そのはたらきが生かされ続ける、生かし切られる在り方のことです。
それは仏教に適った生き方のために栄養を使うこと、と言い換えてもいいでしょう。
心臓が止まった瞬間、根が切られた瞬間にいのちが失われるのではなく、それを口にした人間の生き方に託された、という捉え方をすることで、不殺生は受け身のルールではなく、能動的な実践(持戒)になっていくのです。
③作り方と食べ方によって修行へ昇華させる
そして、ここまでの精神を踏まえた上で、作り方と食べ方の両面から向き合うことで、「食べる」という行為が修行となっていきます。
そしてそれは、「僧侶なのにいのちをいただくなんて…」という後ろめたさを抱えたものではなく、仏行として、仏道の真ん中を歩いていく行いです。
欲が生まれ、感情が動きやすい行為だからこそ、修行として大きな意味をもつのだと、私は思います。
まとめ
今回のお話は曹洞宗総合研究センター第21回学術大会で発表した内容を、より簡潔にまとめたもので、曹洞宗の布教教化に携わる私の1つの解釈です。
精進料理も素晴らしい食文化で、曹洞宗の教えを実践することのできるものではありますが、その中に曹洞禅の食を収めてしまうのは、可能性を狭めることになるのでは、と私は考えています。
食という行為そのものを仏道の上から捉えたもの、それが「曹洞禅の食」であり、今後の社会で大きな可能性を持った教えであると信じてやみません。
もちろん、世界を見回せば、現代の食には生産・消費ともに問題が散財しています。
今後こうした点にも曹洞宗の立場から考察を加えていきつつ、より社会に生きる曹洞禅の食を発信していく予定です。
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