学級文集と「必殺ふざけ人」

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新型コロナウイルスの影響で外出自粛が求められています。

家で過ごす時間をどう活用するか、様々なアイデアがSNS上で飛び交っています。

先日の西田さんの記事では、坐禅をおススメしました。

坐禅ももちろんおススメですが……

これを機に大掃除をしてみるのも、いいのではないかと思います。

なるべく外に出ないことで、何となく不安も募り、ふさぎ込みがちになっているならなおのこと。

身体を動かすことにもつながりますし、生活環境を整えれば気持ちも健やかになっていきます。

今回の記事は、外出自粛の最中、久保田が大掃除をしていた時に発見した古い学級文集のお話です。

Contents

学級文集によみがえる思い出

大掃除。

普段はあまり見ない押し入れの中をほじくり返し、家の中を総ざらえしていると懐かしい物品が出てくる……なんてことがよくあります。

そんなとき休憩がてら手を止めて、思い出に浸るのも大掃除の醍醐味の一つ。

今回、私が大掃除をしていると、

押し入れの奥の奥から、古いアルバムと、小学校1、2、4年時の学級文集が出てきました。

「おお~、まだこんなものがあったのか」

いったん掃除の手を止めて、文集を拾い上げます。

「こういうことしてると片付けが進まないんだよな~💦」

そうは思いつつも、赤茶けたページをパラパラとめくり始めました。

クラスメートたちの懐かしい名前を見るにつけ、当時の記憶が蘇ってきます。

もう片付けなんてどこへやら気づけば文集を食い入るように読んでいる自分が居ました。

 

そして……

「お、あったあった!」

とうとう、自分の書いた文章を見つけました。

小学校一年生、二年生の時は「ファミコン」をテーマに文章を書いています。

「しょうがねえなあ、昔のオレは」

子どもの頃からゲームが大好きだった私ですが、どうやら文集のテーマもファミコンにしてしまうくらい、

アタマの中はゲームでいっぱいだったようです。

小学校1、2年の拙い自分の文章に、照れくさいような、もどかしいような、なんともむず痒い気持ちを覚えました

小学校4年の学級文集

そして、最後に小学4年生のときの文集に手を付けます。

タイトルは

「ぼくは○○歳 わたしは○○歳」

というもので、

「○○歳になった未来の自分が、自分が就いている職業について説明する」

というテーマの文章でした。

 

クラスメートの文章を見ていくと、

保母さん、看護婦さん、学校の先生、アナウンサー、プロ野球選手、タクシーの運転手。

と、なんとも子どもらしい、

自然と応援したくなるような将来の夢を描いているものもあれば、

中には、

ヒットマン(!)、泥棒(!!)

と、

思わず、考え直せ!と叫びたくなるようなものまであります。

 

はたして、自分は一体どんな職業に就こうとしていたのか……?

おっかなびっくりページをめくっていくと、とうとう自分が書いた「ぼくは○○歳」に出会いました。

ぼくは、○○歳。△△の仕事をしています。

さて、自分は一体どんな職業についているのか、問題の一行目。

ぼくは、28歳。お寺の仕事をしています。

おお!

よかったな!なってるよ、僧侶に!

ヒットマンや泥棒など、反社会的な職業についていなかったことに胸をなでおろしたのもつかの間。

そのあとを読み進めていくと、途端に雲行きが怪しくなってきます。

ぼくがしている仕事にはいくつかの楽しみがあります。
第一に、金丸のどあほをのろい殺すことができる。
第二に、ゆうれいにとりつかれない。
第三に、おさいせんをネコババできる。

……

ええええええ……っ!?

ヒットマンの要素(呪殺)

泥棒の要素(ネコババ)も兼ね備えた、

ハイブリッド悪徳僧侶になっている28歳の私がそこにいました。

 

「金丸のどあほ」とは、巨額の汚職事件で検挙された元副総理の金丸信のことでしょう。

無刻印の金の地金を所持(おそらく北朝鮮由来)していたとも報道され、世間から痛烈な批判を浴びていました。

ゆうれいにとりつかれないまだかわいげがありますが、

おさいせんをネコババできる、にいたっては、

もはや弁護のしようもありません。

いったい何を考えているんだ、

この子どもは!

「必殺ふざけ人」の誕生

その後を読んでいくと、今度はこんな記述がありました。

ぼくは、はじめにすずき建せつの社長になろうと思いました。

「すずき建せつ」とは、

おそらくマンガ「釣りバカ日誌」の主人公、

浜崎伝助が勤める鈴木建設のことだろうと思われます。

もちろん、実在する会社ではありません。

夢破れ、僧侶の道を選んだ28歳の久保田青年。

最後に、僧侶になろうとする後輩へのアドバイスが記されていました。

(後はいへのアドバイス)
①悪い政治家がいたらのろい殺すこと。
②悪いことはしないこと。
③お寺のもうけを少なくしないこと。

……もう何と言っていいやら。

②の、悪いことはしないこと、に一筋の光明を見出すことはできますが、

これは完全にふざけて書いています。

今では、常に「おふざけ」をすることを念頭に行動し、

「必殺ふざけ人」を自称する私ですが、

どうやらこの頃から私は「おふざけ」を信条としていたようです。

悲しい「おふざけ」

いやいや参ったな、と思いつつ、ふと我に返ったとき、あることに気が付きました。

「あれ?そういえば、当時の自分がなりたかったものってマンガ家じゃなかったっけ?」

そう。

家に大量のマンガ本があり、幼い頃から数々のマンガを読んで育った私は、

小学校高学年になるころには、

マンガ家になりたい!

という夢を抱いていたのです。

しかし、お寺の長男として生まれ育ち、

跡取りとして期待されていることを十分に理解していた私にとって、

「マンガ家になる」という思いをはっきりと打ち明けるのは、

とてつもなく勇気のいる行為でした。

さらに決して絵がうまくない私は、

実のところ「マンガ家なんて無理だよなあ」という思いも抱いていました。

 

マンガ家になりたいという夢を心のどこかに押し込め、

将来はお寺の住職になるという、ある意味で「安定的な」選択をした、幼い頃の私。

はたして当時、そこまで考えながら文集で「おふざけ」をしたかどうかは定かではありません。

むしろ、おどけて見せることで自分も愉快な気持ちになれるし周囲も喜んでくれる。

それが当時の「おふざけ」の動機でしょう。

 

しかし、その「おふざけ」はいつしか、自分を誤魔化し、都合の悪い事実を覆い隠すための「処世術」へと変わっていきました。

住職になりたいと書いた小学4年の自分の文章を見つめていると、

何かから逃れ、本心を覆い隠すために精一杯ふざけている……

そんな悲しいおふざけ」の始まりを見ているようで、とても切ない思いがこみ上げてきたのでした。

「必殺ふざけ人」引退……?

「おふざけ」を「処世術」の一つとして使うことを覚えた私は、その後もことあるごとにふざけ続けました。

 

照れ隠しのために、ふざける。

誤魔化すために、ふざける。

自分を納得させるために、ふざける。

うやむやにするために、ふざける。

 

ありとあらゆる局面でふざけ続け、

その結果として「面白い」とか「明るい」とかいう肯定的な評価を得ていた(と思われる)私ですが、

同時に少しずつ息苦しさを覚えるようにもなっていました。

なんだか、自分が常に嘘をつき続けているような気がしてきて、

ふざけることに後ろめたさすら感じるようになっていたのです。

はじめは「処世術」であったはずの「おふざけ」はいつの間にか、

自分自身をうまく表現できないという「障害」へと変貌を遂げていました。

青年期にはそうした思いが特に強く、これからはもうふざけないで生きていこうという思いを固めたこともありました。

そう。「必殺ふざけ人」引退の決意です。

「ふざけ」の業

これからは、あまりふざけないようにしよう。

そう誓った久保田少年ですが、そうは問屋が卸しません。

長年培ったふざけの習慣は、

久保田少年がマジメであることを決して許してはくれなかったのです。

ふざけのない日常生活に入ることができたと思っても、

いつのまにか封印したはずの「ふざけの技」が顔を出します

ダジャレ、おどけ、変顔、奇妙な踊り、自虐、演説……

気が付けば誰かを「ふざけ」の手にかけています。

ふざけによって自分自身をうまく表現できなくなっていることに気が付いてから、

私は自分が背負ったふざけの業に長く苛まれ続けました。

ぼくは37歳。「必殺ふざけ人」の仕事をしています。

自分自身の「ふざけ」をどうして生きていけばよいのか。

その問いは私にとってもっとも重要な問題となりました。

そして悩みに悩んだ末、ある一つの結論にたどり着いたのです。

それは……

 

ふざけなければ自分は生きていけない。

ならば「おふざけ」を自らの生き方として受け入れ、

「ふざけの技」を世のため、人のために使おう。

嘘やごまかしの混ざらない、「本当のおふざけ」をしよう。

ふざけることで周りが笑顔になる。

ふざけることで自分自身も愉快な気持ちになれる。

一番最初の「おふざけ」の動機に立ち返り、

正義の「おふざけ」に身を投じよう。

 

……というもの。

このように思えたとき、自己表現の「障害」であった「おふざけ」は、「自己表現そのもの」へと変わっていきました。

「必殺ふざけ人」は「おふざけ菩薩」の夢を見るか

「おふざけ」を自らの生き方として受け入れ、それによって周囲を笑顔にしようと思ったとき、

私は仏教の菩薩さまを思い浮かべました。

地蔵菩薩さま、観音菩薩さま、文殊菩薩さま……

菩薩さまとはそれぞれに兼ね備えた豊かな個性によって、人々に救いの手を差し伸べてくれ存在です。

自分の生き方が、他の誰かを救うことにつながる。

生き方を通じて人を救うことができる。

これが仏教の菩薩の生き方です。

今は一介の「必殺ふざけ人」に過ぎない私ですが、

いつかは「おふざけ」によって人の苦しみを取り除き、

人生のよろこびを伝えることのできる「おふざけ菩薩」になりたいと願っています。

それでは……ベロベロバー!

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