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新シリーズに突入した「肉を食べるということ」。

前回から前後編2回に分けて、食べ物といのちについて考えています。

前編では、お釈迦様在世の頃、初期のインド仏教では何をもって殺生としたのか、そしてその後殺生の解釈はどのような変化を経て、日本に伝わったのかについて触れました。

簡単にまとめるとこんな感じです。

・お釈迦様在世→バラモン教で生贄にされていた哺乳類・鳥類の殺生を禁じたが、肉食は否定しなかった

・お釈迦様死後→仏になることができる可能性「仏性ぶっしょう」の解釈が拡大し、動植物も仏になれると考えられた。
 ⇨肉食を禁じるようになっていった

そして今回は、日本に仏教が伝わって600年、鎌倉時代に生まれ中国から曹洞宗を伝えた道元禅師が説いた「いのち」、つまり私たち曹洞宗のいのちの解釈についてのお話です。

曹洞宗が考える「いのち」

道元禅師は当時の日本では異端ともいえる仏教の解釈をした方でした。

前回登場した大般涅槃経だいはつねはんぎょうの「一切衆生いっさいしゅじょう悉有仏性しつうぶっしょう」を、道元禅師は大胆に読み替えます。

従来の日本仏教では

「一切衆生はことごとく仏性有り

と読んでいたところを、道元禅師は

一切衆生悉有しつうは仏性

と読んだのです。

現代語に訳すなら、それまで

生きとし生けるもの全てに仏性がある

と考えられていたところを、道元禅師は

衆生を含む全ての存在は仏性である

と解釈したのです。

全てが仏性とは?

ちなみに、ここで言う衆生というのは、『法華経』に基づいた生物以外に山川草木を含んだ非常に広い範囲を指します。

そのうえで道元禅師は、衆生というのはあらゆる存在のうちの一つに過ぎず、それも含めて全て仏性であると説かれましたが、これ、かなり話をややこしくしていますよね。

「生き物はみんな仏性をもっている」と言われたらすごくわかりやすいのに、「全ての存在は仏性」と言われたら急にわかりづらくなります。

実はここで、仏性という言葉を「仏になる可能性」という意味のまま考えていると、迷宮に入り込みます。

そうではなく、ここでいう仏性とは「仏になる可能性」ではなく、「仏のはたらき」のことです。

「仏」というのは私たちを導いてくれる存在のことをいうので、「仏のはたらき」は私たちを導いてくれるはたらきということになります。

では、一切衆生悉有、つまりありとあらゆる存在が私たちを導いてくれるというのは、どういうことでしょう?

例えば、お釈迦様の教えに「諸行無常」と「縁起」という教えがあります。

 

生まれた生き物が死に、土に還って植物が芽を出す。

芽を出した植物が育ち大木となり、それを加工して道具にする。

道具が壊れ、燃やされたり溶かされて別な物に再利用される。

 

この世はこうして常に変化をしながら、生まれては消え、生まれては消えを繰り返し、途切れることなく循環しています。

この、「常に変化していること」が諸行無常「途切れることのない循環」が縁起という教えです。

難しい本やお経を読まずとも、周りの景色に目を向ければ、虫一匹、葉っぱ一枚、ひと吹きの風も、こうしてお釈迦様の教えを体現し、私たちに教え示してくれています。

こうしたところから、道元禅師は動植物・鉱物・加工物・気体・液体といった、ありとあらゆるものが「仏のはたらき」として存在している、と考えたのです。

そして実は、この「仏としてのはたらき」である仏性こそが、曹洞宗にとっての「いのち」に他なりません

それぞれが体という器の中で個々に一つの命を生きているのではなく、全ての存在が大きな循環の中で共に一つのいのちを生きていると考える、これが曹洞宗が考える「いのち」の在り方です。

加工品までも仏性として考えるのは、机を「木の死骸」と言わず「」と呼ぶことを考えたらわかりやすいかもしれません。

牛には牛として、肉には肉として、植物には植物として、今ここに存在している形での「いのち」があります。

つまり、曹洞宗の考え方では「この世界全部ひっくるめていのち!」ということになるわけです。

曹洞宗にとっての「食べ物」

この考え方によって、曹洞宗では動物も植物も、人も無機物もみんな平等にいのちであるということになります。

つまり、野菜は食べて良くて肉はダメ、ということにはならないんです。

しかしそうなると、今度はこの世に食べていいものなんて無くなってしまいます

考えみたら、人間(少なくとも日本人)は、生きても死んでも自分が食べられることはまずありません

それでいて、あれは食べて良い、これは悪いという議論をするなんて、そもそもおこがましい話なんです。

だって動物も植物もいのちであって、なおかつ食べる許可なんか一切得ていないわけですから。

結局、食べることが殺生になるなら、人間は野菜を食べようが肉を食べようが殺生なのです。

 

そう、食べることが殺生なら…ね

 

実はこの殺生にも、こうした非常に範囲の広いいのちの捉え方をする曹洞宗だからこその、独特な解釈の仕方があるんです。

次回は、曹洞宗の不殺生戒の解釈に触れて、食べることと殺生について考えてみたいと思います。

今回のまとめ

途中が難しい、長い、という方はここだけ抑えていただければ結構です。

☆曹洞宗ではいのちをこんな風に捉えています☆

○動物・植物・岩・水・建物・道具etc...全てがいのち!

○いのちは全て平等→食べていい物なんてないのでは!?

○Next→食べる=殺生なの?

 

私が食に関する活動を続けているのは、次回お話する教えに納得し、感動したからでもあります。

ぜひお付き合いください。

 

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