Creepy Nutsに共感した話

Creepy Nuts。

MCのR-指定さんとDJのDJ松永さんによる1MC1DJのヒップホップユニットで、
音楽活動だけでなくテレビやラジオでも大人気の二人組です。

そんな彼らは、世間が抱いてきたラッパーやDJのイメージと異なる、
人当たりの良さや外見の大人しさの一方で卓越した技術を持つことで人気を獲得していきました。

しかし、そんなヒップホップ業界ではある意味「異端」なお二人だからこそ直面してきた問題もあったようです。

今回は、そんなお二人の葛藤に僧侶としての在り方を重ねたお話。

Contents

セルアウトという批判

ヒップホップの世界には、大衆化した、商業的になったアーティストや作品を揶揄した
「セルアウト」という言葉があります。

これはKREVAさんやRIPSLYMEといった先人たちも浴びせられてきた、
いわば有名税的な要素もある言葉です。

社会になじめない、社会からはじかれた人間の表現方法という面もあるヒップホップカルチャーにおいて、
Creepy Nutsほどメディア露出が多く、ラッパーらしくない、
DJらしくない2人がそうした批判的な目に晒されるのは、不思議ではありません。

おそらくご本人たちもそれを覚悟しての活動だったはずですし、
それを覚悟して臨む姿勢にも、非常に感銘を受けていました。

https://creepynuts.com/profile/

「らしい服装」は優等生

そんな折、とあるメディアで、DJ松永さんが服装についてのポリシーを語られていました。

曰く、ヒップホップカルチャーにおいて、ダボダボの服装やキャップを被り、アクセサリー身に着ける、
いわゆる「らしい服装」をしているのは優等生といえる、と。

しかし、ヒップホップというのは常識に対して新たな価値感を提示していく文化でもあるわけだから、
ルール通りの「らしい服装」をしているより、「らしくない服装」で臨む方がずっと険しく、
むしろヒップホップらしい価値感の表現なんだ、とおっしゃるのです。

お二人も昔はその「らしい服装」を経て、今の服装や出で立ちがあるわけですが、
確かにCreepy Nutsらしい表現方法です。

 

私服の僧侶

これを自分の立場に当てはめてみると、共感できるものがありました。

私たち禅活は、YouTubeを始めた時に法要や法話以外で法衣を着ないという選択をしました。

それは、法衣は受け継がれてきた教えそのものという重要な部分があると同時に、
自分たちが虎の威を借る狐になってしまう可能性があると考えたからです。

正直な話、お寺という環境で、法衣を着た僧侶が話しただけで、
内容に関係なく感動される方はいらっしゃると思います。

あるいは、視覚的な珍しさで、法衣でYouTubeに映るだけでもある程度の視聴者を獲得できるでしょう。

しかし、禅活では自分たちの修行として、私服やスーツなど、あえて「らしい服装」を避けることにしました。

法衣の威を借ることなく、中身で納得させるだけの力をつけたいからです。

私服でYouTubeに出る私たちに、それぞれ様々な感想を持たれたことでしょう。

はっきり言って、私服で動画に出るメリットは、デメリットに比べたら遥かに少ないです。

曹洞宗の組織内で指摘され、存続すら危ぶまれたこともありますし、
ウェブマーケティング的に見れば、法衣を着ていた方が明らかに人の目を引きます。

一方で私服を着るメリットは、身近に感じる・敷居が下がる、くらいのものでしょう。

しかし私たちは、少なからず自らの人となりも表れる私服での出演を選びました。

伝統とセルアウトの板挟み

この選択を、少なくとも私は後悔していません。

実際に普段は法衣以外の私服も着ていますし、それをお檀家さんに隠しているわけでもありません。

また、見た目故に向けられた厳しい視線のおかげで成長もできましたし、
法話や法要の時に着る法衣の重みが増しました。

ただし、自分がどう思おうと、これに賛否両論あるのは当然だと思います。

伝統があってこその文化、教えが継がれてこその仏教ですので、
その象徴である法衣を着ないことは十分批判に値するでしょう。

しかし、あくまでも私たちは法衣を軽んじているのではなく、
法衣がなくとも人を納得させられるお話をしたい、と思っただけです。

むしろ法衣は奥の手として取ってあるような、そんな感覚です。

おそらくCreepy Nutsのお二人もそれに近い部分があるのではないでしょうか。

プレイヤーである以前にヒップホップカルチャーに魅せられたお二人だからこそ、
ヒップホップらしい出で立ちに格好良さを感じているでしょうし、
そうした伝統への敬意がないわけがありません。

ところが、自分という人間がプレイヤーとなった時、伝統を丸ごと肯うと違和感が生じてしまう。

ならば自分なりの表現はないだろうか、という模索の結果が今のお二人なのかもしれません。

仏教とヒップホップ、全く異なる分野ではありますが、
伝統に対する変革はセルアウトと呼ばれることもあるでしょう。

伝統とセルアウトの板挟みになりながら、自身の在り方を模索するお二人の姿に、
僧侶としての歩み方に似たものを感じました。

 

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