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坐禅に関するアレコレを書いているこちらの不定期コラム。

前回はダルマさんは中国禅の祖、菩提達摩大師が坐禅をしている姿であることについてお伝えしました。

今回は坐禅で「整える」という字を使わずに「調える」と書く理由について考えてみます。

「整」と「調」

坐禅は、調身・調息つまり身を調え・息を調えることで、その結果心が調うという構造であることには以前もこちらのコラムで触れました。

この記事も書いているように、坐禅では「ととのえる」と書く際には「整」ではなく「調」という字を使います。

これは、一見小さいようで非常に大きな違いです。

」という字は整理、整頓、整然といった正しく揃える、乱れないようにまとめるという意味があります。

一方「調」という字にはつりあいがとれる、ほどよく適うといった意味があります。

この二文字の一番の違いはどこに軸を置くかという点です。

整という場合、例えば本を並べたり、靴を揃えたり、社会で言えば服装や身だしなみをふさわしく合わせるといったように、自分の外側に軸を置き、そこに合わせていくことになります。

それに対して調という場合には、その楽器が一番美しい音色を奏でられる状態にするように、自分の内側に軸を置いて丁度良いところを探ることになるのです。

これはどちらが良い悪いという話ではありません。

整が強すぎれば、そこに合わせられない人は劣等感や焦燥感を抱いてしまいます。

逆に調が強すぎてしまえば、誰もが自分のいい様に行動して、収集がつかなくなってしまうでしょう。

この整と調のバランスによって社会生活における人間らしい生活というのは成り立っているとも言えるのです。

整が求められる社会

しかし、日本の現代社会はこの整がいささか強くなりすぎている部分があるような気がします。

「こうでなければならない」がいつか「こうでなかったら認めてもらえない」「こうでない人間は必要ない」というように、本来は人間の調和のためにあったルールや目標といった整が、人を選別するふるいになってしまっているのではないでしょうか。

私はヒップホップ文化が好きで、Youtubeなどでよくラップのミュージックビデオを観るのですが、そのコメント欄にはその曲の好き嫌いの話が、「これが好きな人はヒップホップをわかっている」とか「この曲の良さがわからない人はにわかファン」というような、それぞれの感性に対して優劣をつけようとるするやりとりがよく見られるのです。

インターネットの普及で世界中での意見交換や共有が可能になったことで、こうした音楽や芸術への感性や、味覚などにいたるところにまで、社会で認められる型としての整が生まれてしまったのかもしれません。

他にも点数や成績など、「必要なことではあるけれどそれが人間の全てではないもの」がこうした「いきすぎた整」になっているのが日本の現状と言えるでしょう。

自分の軸で調える

そこで重要になってくるのが調、身と呼吸を調える坐禅なのです。

以前、長くアメリカのおられた先輩僧侶に、英語で坐禅指導をする場合は調えるという言葉を「harmonize(ハーモナイズ)」と訳すとお聞きしました。

ハーモナイズとは調和のこと。

こうして英語にしてみると、調身・調息が力んだり無理をすることなく、身体本来の在り方と調和させていくことであるとわかります。

だから、その人の骨格によっては、調えた姿勢が屈んでいるかもしれないし、左右に傾いていることだってあるかもしません。

その日の体調によっては、呼吸が早かったり遅かったりすることもあるでしょう

しかし、それでいいんです。

逆に、背筋を伸ばそうと背中に力を入れたり、組めない脚を痛みに耐えながら組んだりと、身体に起こったことを一生懸命否定することはその在り方に逆らうことになってしまいます。

そうではなく、自分の身体に今の自分の丁度良い状態を教えてもらうつもりで調える。

そうした身体を調えるメンテナンスは、そのまま心のメンテナンスでもあります。

以前も書きましたが、坐禅は日常生活の荷物を下ろす時間です。

頃さんざん「整える」をやっている私たちには、もう少し「調える」が必要なのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

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