肉を食べるということ〜曹洞宗の立場から考える〜vol.0

スポンサードリンク

永平寺での修行にて曹洞宗の食の教えと出会い、その後食肉加工場を見学したことで屠畜解体業への差別の歴史と、それが部落差別にもなっていったという事実を知った私。

そこで、僧侶である自分は肉食をどう考えていくべきなのかをこの連載で書いてきました。

まず、「残酷さ」や「ショッキングさ」の方でフォーカスされやすい食肉加工の現場の実際と、そこで働く若い職員さんの

「牛を殺してる人間と話すのは初めてですか?」

という言葉に、肉食に対する問題意識が芽生えた過程をお話した第一部「食肉加工場にいってきました」(全3回)。

続いてインド・中国・日本という、日本に仏教が伝来してきた道のりの中で、肉食と不殺生の捉え方はどう変化してきたのかを、非常に簡略ながら第二部を「肉食と不殺生」(全4回)と題してまとめました。

そして第三部ではいよいよ、曹洞宗の立場からは肉食をどう捉えるのかについて考えていきます。

曹洞宗の通説というより、私なりの捉え方になるので、批判やご意見はお問い合わせページ等から西田宛にいただければ幸いです。

Contents

曹洞宗の食の3つの特徴

まずこれから考えていく上で重要となるポイントが3つあります。

以下に第三部の各回で触れる3つのポイントの概要を挙げます。

①曹洞宗にとっての「いのち」とは

肉食を考える上でここは外せない重要なポイントです。

よく、「いただきます」という言葉には「食べ物のいのちをいただきます」という意味があるという言われ方をします。

あるいは、私たちは「いのち」を奪って食べているという文脈を見かけることもあります。

しかし、実は「いのち」の定義については立場や考え方によって様々で、「いのち」がどこに、どんなものに宿るのかが食文化の違いと非常に大きく関係しています。

そこで今回は食べ物に焦点をあてて、曹洞宗が「いのち」をどう捉えるかについて考えていきます。

②曹洞宗の「不殺生」の解釈

また、この連載の最大のテーマである、仏教の不殺生の教えについても考えねばなりません。

奈良・平安時代の日本仏教の流れを汲む曹洞宗なら、肉食=殺生となるのでしょうか?

それとも…。

先ほどの「いのち」の捉え方を土台として、それを「殺さない」とはどういうことなのか、曹洞宗の教えから考えていきます。

③曹洞宗の食の教えと肉食

ここまでの2つのポイントを踏まえて、曹洞宗は食とどのように向き合い、肉食をどう捉えていくのか、私が今出せる結論と今後の課題について触れていきます。

現代社会が抱える様々な問題についても触れる予定です。

 

以上のような組み立てで、この連載の第三部は進んでいく予定です。

曹洞宗の食と肉食の現状

実は、現在曹洞宗の僧侶の多くは、私生活で食べ物を限定している人はあまりいません。

私を含め禅活メンバーはもちろん、肉も魚も食べる人がほとんどです。

修行中に差し入れでハンバーガーをもらったこともあります。

しかし、それが食の教えを人に伝える時には「修行道場では精進料理を〜」とか「不殺生なので肉や魚の代わりに豆腐を〜」という説明をしている場面に何度も出くわしたことがあります。

これはその状況が悪いわけではなく、肉食を否定することに含まれる副作用について考えるきっかけが少ないのです。

なぜなら食肉加工の様子はマグロの解体ショーとは真逆で、外にはあまり出ることがなく、ましてや現場の声を聞く機会などはもっとありません。

私はありがたいことに縁あって、食肉加工場で自分たちが言う「不殺生」が人を傷つけ得る、いや、傷つけていたことの気づく機会がありました。

前回の私の記事で触れたように、日本に限らず安易に特定の食べ物や食文化を否定することが、差別やヘイト、対立を生んだ歴史があります。

だからこそ、自分が信仰する曹洞宗の教えではどのように解釈できるのだろうか、僧侶である自分はどんな立場なのだろうかを整理するためにも、ここに書き起こすことが必要なのです。

次回からお話する内容は、曹洞宗僧侶である自分の肉食に対する一つの答えであり、信仰の形でもあります

同じように思ってくださる方、ご批判をいただける方、どのように感じていただいても結構ですので、よろしければお付き合いください。

 

関連記事一覧

 

この記事が気に入ったら
フォローしよう

最新情報をお届けします

Twitterでフォローしよう

おすすめの記事