スポンサードリンク

大相撲名古屋場所が開幕しました!

新型コロナウイルスが蔓延して以来、大相撲は東京の国技館のみでの開催が続いていましたが、久しぶりの地方での場所となりました。

初日から熱の入った取り組みが続いており、いちファンとして毎日が楽しみで仕方ありません。

そんな中、物議をかもした取り組みがありました。

十両2日目、貴源治関VS炎鵬関の取り組み

それは、2日目の十両の取り組み。

小兵の人気力士である炎鵬関と、現在格闘家として活躍する元貴の富士関、スダリオ剛さんの弟である貴源治関の取り組みです。

炎鵬関は言わずと知れた人気力士。

体重が100kgに届かないながら、様々な技を繰り出しつつ身体の大きな相手をかく乱する姿に人気が集まっています。

一方の貴源治関は恵まれた体格を生かした押し相撲です。

まったく取り口の違う2人の対決に、注目が集まります。

 

立ち合いから素早く動き、懐に潜り込もうとする炎鵬関。

一方、貴源治関はまわしを取られることを嫌ったのか、炎鵬関の顔面目掛けて、執拗に張り手を繰り出します。

一部報道では「アッパー」と言われているほど激しい張り手が何度も炎鵬関の顔面を捉えました。

炎鵬関は鼻から血を流しながら土俵際に追い詰められますが、足を俵の上に乗せて起死回生の投げを放ち、両者はもつれあうように倒れこみました。

軍配は炎鵬関に上がりましたが、物言いがつき、協議の結果、同体による取り直しと裁定が下されます。

いいだけ張り手を浴びせられた炎鵬が、取り直しでどのような相撲を取るか注目の集まるところでしたが、なかなか取り直しの一番が始まりません。

そうしているうちに、審判団がもう一度土俵に上がり、協議を始めました。

その結果、目の焦点が定まらないなどの状態を見て、脳震盪による炎鵬関の不戦敗とされました。

これは今場所から新しく制定されたルールで、取組前に相撲を取れる状態ではないと判断された場合、その力士は不戦敗となります。

先場所に脳震盪状態のまま取り直しの相撲を取った力士が居たことから、安全のために導入されました。

張り手の影響から、明らかに脳震盪を起こしていて、俵に躓いてしまうほど足元のおぼつかない炎鵬関。

車いすに乗せられ土俵を後にしました。

幸い大事には至ることなく、3日目には相撲を取れていたようですが……

この取り組みについては、なんとも言えない後味の悪さが残りました。

「勝負」と「心」

土俵の上は勝負の世界。

手を抜いたり、まして八百長などは論外で、非情とも言えるほど、勝負に徹さなければならないこともあるでしょう。

勝ちにこだわることも必要だと思います。

しかしそれが、勝つためなら何をしてもいい、とはならないはずです。

 

今回の炎鵬関と貴源治関の取り組みの何が問題だったのか、私なりに考えてみました。

乱暴で、やりすぎとも思えた張り手の連続も、勝負に徹するという姿勢であれば、仕方ない部分もあるでしょう。

あるいは、張り手をすれば勝てるのに、そうしないで負けたというのは、手を抜いたと考えることもできるかもしれません。

貴源治関の相撲のスタイルは突き押し。

体格を生かして相手を突き放し、土俵の外に追いやる相撲です。

たしかに張り手を使う力士ではありますが、相手の顔を執拗に打ちのめすようなことは、稽古でもしてこなかったのではないでしょうか。

特に、炎鵬関は体格に恵まれず、体重差が70kgもある相手。

体格に勝る力士の張り手を受け続けていれば、下手をすると命にかかわるほどの重大な事故を招いた可能性もありました。

勝つために本来の自分の相撲を忘れ、すばしっこく“うるさい”取り口の炎鵬関へのいらだちによって相手を痛めつけるような張り手を繰り出したのだとしたら、貴源治関は相撲にもっとも大切な「心」で負けていたのではないでしょうか。

いわゆる勝負に勝って、相撲に負けたという状態です。

争うという本質を持ちながら、争いから離れる

相撲の語源は「すまふ」であると言われます。

これは古語で、争うという意味です。

身体をぶつけ合い、相手を追いやるという競技の性質から見て、大相撲の本質もその根本は「争う」ということになるのかもしれません。

相手に痛めつけられれば面白くないし、負ければ悔しくて仕方がない。

そうなりたくないからこそ自らを鍛え上げ、勝つことを目指す。

それも確かに競技の性質です。

しかし、その「争う」という面だけをクローズアップしていけば、大相撲はどこに行きつくでしょうか

 

勝者は奪い、敗者は奪われる。

一時の勝利は、報復を呼ぶ。

今が良くても、自分もいつか奪われる。

 

殺伐とした修羅の世界に落ちてしまうことでしょう。

それは私たちが相撲に対して求めていることではないはずです。

戦いと争いの世界ではなく、相撲を通じた切磋琢磨があり、成長がある世界だからこそ大相撲は魅力的なものになるのではないでしょうか。

それには、争うという本質を持ちながら、争いを離れていくという、ある意味矛盾した2つの側面を備えていなければなりません。

争いである「すまふ」から、研鑽と成長の道の「すもう」に向かっていくのです。

心、技、体

今回の取り組みを見て、ルール改正を求める声も上がっています。

現行のルールでは、ダメ押しや乱暴な取り組みを行った力士に対する罰則規定が不十分だとする意見です。

確かに、それもあるでしょう。

ある程度は、ルールで制約することも必要だと思います。

しかし、本当に必要なのは、力士一人一人に対する「心」の育成ではないでしょうか。

ほとんど「戦い」に近い競技の中で「勝ち負け」を「争っている」からこそ、なにより「心」が大切なのです。

 

よく武道や相撲の世界について、心技体ということが言われます。

心とは、よく精神力と解釈されますが、これは強固な心、ゆるぎない心というだけではありません。

心とは、相手への思いやりや敬意、感謝です

その上に立ってこそ、磨いた技や鍛えた肉体が意味を成すのです。

 

ただ、こう書いていながらも、「心」を育てるのは相当に難しいことだろうと思います。

非常に厳しい勝負の世界の中で、勝つことを強いられている人に、相手への思いやりが一番大切なんだと伝えても、偽善やおためごかしにしか聞こえないようにも思います。

 

しかし、そもそも相手が居なければ相撲は取れないのです。

勝ちにこだわるあまりに、折角相撲を取ってくれる「相手」を「敵」にしてしまっては、それこそ本末転倒でしょう。

手を合わせ、ともに道を歩いてくれる仲間を蹴落とすような振る舞いは絶対に許されてはならないものです。

勝ちに固執し、他者から目を背け、突き進んでしまったその先には、殺伐とした「ひとり相撲」の世界しか残されないのではないでしょうか。

おわりに

相撲だけでなく、現代に生きる私たちは何かと結果ばかりを追い求めてしまうきらいがあるように思います。

数字や記録として残る結果はわかりやすく、比較するのも簡単で便利なものです。

しかし結果がなければ意味がないと思うのは、結果にしか目が向いていないからではないでしょうか。

当然のことながら、その「結果」に至るまでには、膨大な過程があります。

むしろ結果を出そうとするなら、過程こそ重視しなければなりません。

人の縁、環境、記憶、努力……過程とされるものは一見してわかりづらく、つい意識から外してしまいがちです。

しかし、振り返ってみたとき、過程の中にこそ、自分にとって大切なものがあるのではないでしょうか。

私はこのように思います。

この記事が気に入ったら
フォローしよう

最新情報をお届けします

Twitterでフォローしよう

おすすめの記事