アイドルを見直したら僧侶の見方も変わった話

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人間にはそれぞれ、様々な趣味趣向があります。

その中で私は偶然、ヒップホップカルチャーを中心とした音楽や人物に興味を持つようになりました。

中学生の頃からなのでもう20年近い趣味になります。

生き様が込められた音楽やダンスや絵に触れると、いまだに胸が高鳴ります。

一方で、一度も興味を持つことがなかったのが、アイドルです。

今回はアイドルに全く興味がなかった私が、少し考えを改めさせられたお話です。

Contents

「人」が見えないとおもしろくない

平成初期、私が物心ついた頃にはすでに、日本はアイドルという存在が根強い人気獲得していました。

ハロプロ、ジャニーズといった大所帯から、AKBや地下アイドルに光が当たるようになり、常に入れ替わりながら、テレビには必ずどこかしらにアイドルという存在がありました。

そんな社会のアイドル人気の一方で、私は全くアイドルという存在に興味をもつことがありませんでした。

その理由を意識してきたわけではなかったのですが、その理由は「人」の見えなさをつまらないと感じていたからだと思います。

集団で歌ってしまえば誰が歌っているかわからない、言うことも決まっている、歌詞も自分の心の内側を投影したものではないなど、かなり凝り固まったイメージが食わず嫌いを引き起こしていたのだと思います。

lyrical schoolの衝撃

そういった意味で、やはりヒップホップはいいなと思っていました。

そんな時に現れたのが「lyrical school」(リリカルスクール[以下、リリスク])でした。

「清純派ヒップホップアイドル」をテーマにオーディションで選ばれたアイドルグループです。

正直なところ、アイドル業界がこっちの領域に踏み入るんじゃないよ、と思いました。

目が¥¥になった大人たちが踏み入ってくれるなと。

ところが、敬愛するRHYMESTERの宇多丸さんがグループの異名である「キングオブステージ」をもじって「キングオブヒップホップアイドル」と称しているではありませんか。

そこで試しに聴いてみた曲が先日YouTubeでご紹介した「つれてってよ」という曲でした。


どうせアイドルがキャピキャピと人の書いた歌詞で、ラップ"調"の曲を歌ってるだけだろうと思っていました。

違いました。

5人のメンバーにそれぞれラッパー・シンガーとしての役割があって、一人一人に個性があります。

リリックは作詞家が書いているようですが、それをしっかりと自分の言葉として消化して歌っているのが伝わってきました。

これまで頭にあったアイドルというイメージが、大きく覆された瞬間でした。


(画像出典:lyrical school HP)

偶像だからこそできることがある

それからリリスクのメンバーについて調べてみると、それぞれにリリックや歌い方をアレンジしたり、個々にラップバトルに出たり、真摯にヒップホップと向き合っていることがわかりました。

そしてその上で、非常に印象的なリリックがあります。

前述の「つれてってよ」という曲の歌い出しの部分です。

明日、急に世界が終わる可能性があるなら
逆に、なんか映画みたいな出会いもあるかな

世界が終わる可能性があるなら、映画みたいな出会いの可能性もあるのではないか、というマイナスなイメージをもたれやすい諸行無常を説くのにぴったりな表現です。

しかしこの、ある種ファンタジーのような表現は私からは出ませんし、口にしたところで馴染まないでしょう。

このパートを歌うyuuさんというメンバーが、しっかりと消化して歌っている、そしてアイドルという存在であるからこそ、意味が生まれるのではないでしょうか。

アイドルという言葉は元々、偶像や崇拝される人物・物といった意味をもちます。

それは、人からの希望あるいは妄想や願望を背負い、それを崩さず受け止め切る器とも言えるでしょう。

そんなアイドルが言うからこそ響く言葉や、人に希望の光を射す曲があるのかもしれません。

私が嫌いだった、アイドルの「人」の見えなさは、実はそこにファンや関係者といった自分以外の人の思いが詰まっていたのです。

僧侶がもつアイドル的性質

そんな風に見方を変えてから、アイドルという存在を商業的な偶像として見ていた時には気づかなかったことに気づきました。

それは、僧侶という存在との共通点です。

正確には、アイドルと僧侶という存在が果たす役割の共通点です。

私は、アイドルは自分の言葉で歌詞を書かないことが、関心を持てない理由の一つでした。

しかしリリスクを通して、アイドルという存在だから意味を持ったり、消化できる言葉があることを知りました。

そう考えると、実は僧侶も、お釈迦様の言葉を自分で消化しその時代その地域で説く存在です。

そして、修行や出家という「行い」を伴う僧侶に、社会一般の価値感とは違うところから出てくる言葉を期待されるのです。

そのため、僧侶であるというだけで様々な期待や願望、想いというものを託されることも多々あります。

それは、アイドルを応援するのと同じように、自分にはない何かを持った存在に光を見出したいという思いの現れなのかもしれません。

これまで、僧侶や仏教に一方的な願望や理想を託されることに苦手意識があったのですが、それをそっと受け止めるような器量も自分には必要なのかもしれないなと感じました。

アイドルの見方が変わったら、僧侶としての自分の捉え方も少し変わったような気がします。

 

動画こちら!

 

 

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