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僧侶の視点から世の中の色々なものをレビューしていく【僧侶的よろずレビュー】。
前回はインドにあるシク教の寺院にて毎日無料で振舞われる食事の様子を収めた映画「聖者たちの食卓」をご紹介しました。
今回はハンセン病に関する差別問題を取り上げつた、映画「あん」をご紹介します。
すっかり映画レビューのコーナーになってしまいましたが、またいずれ他の分野もご紹介しますので、まずはお付き合いください。
Contents
あらすじ
今回レビューする映画「あん」は2015年に制作され、昨年ご逝去された樹木希林さん最後の主演作品でもあります。
日本が抱えるハンセン病患者への差別の歴史といまだ残る爪跡を題材にしてはいますが、それを糾弾することが物語の主題ではありません。
物語の主人公は、縁あってどら焼き屋「どら春」の雇われ店長として単調な日々をこなしていた千太郎(永瀬正敏)。
(公式HPより)
そしてそのお店の常連である中学生のワカナ(内田伽羅)、この二人を中心にストーリーは進みます。
ちなみにワカナ役の内田伽羅さんは樹木希林さんの実のお孫さんで、初共演になります。
(公式HPより)
さて、登場するどら焼き屋の店長である千太郎、そして常連のワカナは、立場や悩みは違えど日常生活の中にやる気や活力を見出せない、そんな人物として描かれます。
しかしある日、その店の求人募集の貼り紙をみて、一人の老女、徳江さん(樹木希林)が現れ、どらやきの粒あん作りをしたいと申し出ます。
(公式HP)
はじめは年齢などを考え、断ってしまう千太郎でしたが、後日徳江さんは手作りの粒あんを持って再び現れます。
するとその粒あんはあまりにも美味しく、徳江さんに粒あん作りを任せると、みるみるうちに店は繁盛。
しかし徳江さんに関する心ない噂が、登場人物たちの運命を大きく変えていくのでした。
決して他人ではない、登場人物たち
主人公である千太郎は、どら焼き屋の店主ではありますが、仕事に信念やこだわりを持っているわけではありませんでした。
また中学生のワカナも家庭に複雑な事情を抱え、同級生たちとも調子が合わず、どこかもどかしさを感じる日々を送っていました。
一方そこに現れた徳江さんは、指先の麻痺や視覚障害がある様子から元ハンセン病患者であることがわかりますが、そのおおらかで穏やかで、花鳥風月に心を踊らせる無邪気さに、二人は二つの意味で戸惑います。
一つは、激しい差別にあってきたことが想像できる人物に対してどう接するべきかという戸惑い。
もう一つは、自分がなんとも思っていなかった日常の風景に心を踊らせる明るさに対する戸惑いです。
私には、千太郎やワカナは、差別をするつもりはないがどう接したら良いのかわからない、そして自分自身の生きる意味が見出せない、そんな現代人が少なからず抱えうる気持ちを代弁した人物に見えました。
つまり、二人は単なる映画の登場人物ではなく、私たち視聴者一人一人でもあるのかもしれません。
ハンセン病患者への差別について
それではここで、物語の題材でもあるハンセン病患者への差別について触れておきたいと思います。
最初に言うと、ハンセン病は現在ほぼ感染することのない病気です。
仮に感染したとしても薬があって完治します。
1943年、アメリカでプロミンという特効薬が開発されますが、戦時中の日本に入ってくることはなく、導入されたのは4年後の1947年。
これを機に日本ではハンセン病は治る病となったのです。
では、それまでどうだったかというと、ハンセン病は原因も治療法も不明で、身体の末端が麻痺するため手足や顔が変形することなどから、業病とも呼ばれ、前世の報いを受けた病気と言われるようになっていったのです。
そしてプロミンが輸入されるより前、つまり治療法がわかっていない頃の日本でどのような治療が行われたかというと、完全隔離、これしかありませんでした。
どのような経緯で発症するかがわからなかった為、感染を恐れた人々は各地の療養所へと強制的に収容し、二度と家に帰ることは許されませんでした。
それどころか、遺伝も恐れられたため、子孫が残せないように断種手術が行われたり、規則に従わないと懲罰を受け、死に至るケースも多々ありました。
差別の源
これはハンセン病患者への差別や行われたことの、ごく一部です。
しかしここでは、その全ての例に触れるのではなく、2003年の宿泊施設による宿泊拒否事件に代表されるような、平成の世にも残った患者さんへ差別の根源について考えます。
差別の根源となったものの一つは、無知です。
知らないから恐れ、恐れるから差別という形で攻撃したのです。
医療が発達していなかった時代には、原因も治療法もわからない病気に恐怖し、隔離をするということがあるのはわかります。
しかし、平成の世になっても残ったその差別はどうでしょう。
ハンセン病という病気についての無知が故ではないでしょうか。
仏教では全ての煩悩と過ち、苦しみの根源は無明、つまり無知であることだとしています。
インスタントではない正しい知識をつけることが、正しい判断力を生み、自分自身すら救うのです。
また、本来仏教の教えである業が誤って解釈され、業病という名前で患者さんを苦しめたことは大いに反省し、二度とあってはならないと、僧侶として心に刻みたいと思います。
差別を目の当たりにした主人公
さて、ここまでハンセン病の患者への差別について書いてきたのは、まさにそんな無知な人々によって、徳江さんが差別にさらされるからです。
どら焼き屋の建物のオーナーの女性が、徳江さんを見て、「癩の人を辞めさせるように」と言い出します。
ハンセン病は、昔の日本では癩病と呼ばれ、そこに強い差別の意味が込められていました。
このオーナーは、知らない物事に直面した時、私たちの誰もがなり得る姿、反面教師として描かれているのかもしれません。
生きるということに、生きる意味がある
差別の実態やその悲惨さ、啓蒙をしていく上では、それを戒める強いメッセージ性が必要な場合もあります。
しかし「あん」では、過去に壮絶な痛みを背負った徳江さんが、今ある命を心の底から楽しんで生きている姿を描き、さらにそれによって千太郎の心境が変化していく見出す様子が描かれています。
「有り難い」を忘れて「当たり前」に生きていること、そして自分という命のかけがえのなさに気づき、千太郎は自分生きる意味に気づくのです。
公式ホームページには、作中の徳江さんのセリフから、こんな言葉が掲載されています。
私達はこの世を見るために、聞くために、生まれてきた。
この世は、ただそれだけを望んでいた。
…だとすれば、何かになれなくても、私達には生きる意味があるのよ。
私たちは、自他共に人生に付加価値を付けようとしすぎるのかもしれません。
千太郎が気づいた生きる意味とは、決して自分の夢とか目標が見つかったとか、そういう話ではありません。
朝起きて、ご飯を食べて、働いて寝て、また朝を迎える。
そんな「当たり前」が叶わなかった元ハンセン病患者の徳江さんに、「有り難く」生きるということを教わったのだと、私は思います。
無気力に生きていた主人公が、壮絶な痛みを知る人に導かれていくストーリー、そしてクライマックスのシーンはこみ上げるものがありました。
☆こんな人にオススメ☆
・温かい気持ちになりたい人
・生きるということについて考えたい人
・樹木希林さんの演技が好きな人
Prime Videoでも視聴できます。