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3月24日、新型コロナウイルスの世界的感染拡大を受け、東京2020オリンピックの延期が発表されました。
拡大に歯止めがきかず、非業の死を遂げられた方も多く現れ、
また経済にも深刻な影響が出てきている中で、
オリンピックの開催自体にも疑問の声が投げかけられています。
このような中、あらためてオリンピック開催の意義を考え、記事を書こうと思います。
Contents
3月16日の安倍首相の発言
去る3月16日、安倍首相がG7テレビ会談後にこのような発言をしました。
「人類が新型コロナウイルスに打ち勝つ証しとして、東京五輪・パラリンピックを完全な形で実現することについて支持を得た」
※下線は筆者による。
結局、その後の情勢の変化を受けて、オリンピックの延期が決定されたのは皆様もご存じのことだろうと思います。
さて、この発言。
オリンピックを是が非でも開催したいという意志からは、経済優先主義や、巨大な利権の存在を疑いたくなってしまいます。
また事態が進行中であり、鎮静化の見通しが立たない状況であるにもかかわらず、その後のことを論ずるのは、いささか楽観的に過ぎるように思えます。
私ははじめてこの発言を知ったとき、
「オリンピックのことなんて後回しでいいじゃないか」
「そんなことより毅然とした対策を打ち出してほしい」
と、思いました。
事態がどんどん深刻化しつつある中で、日本政府の対応が悠長に過ぎると考えていた私には、
この発言はどうも納得がいかなかったのです。
しかし、発言から2週間ほど経過して、あらためてオリンピックの意義について考えたとき、
発言の中に現れている、人の願いや希望が集まるシンボルとしてオリンピックを開催したいという思いには、
共感できる部分が大きいことに気が付きました。
1964年東京オリンピック
かつて、アジアで初めて開催された1964年の東京オリンピックは、
まさに希望の象徴と言っていいオリンピックだったのだろうと思います。
私自身が当時の熱狂を実際に経験したわけではありませんが、数々の著作や、当時を語る言説からその様子をうかがい知ることができます。
第2次世界大戦後の復興、世界平和、平等など、様々な願いのシンボルとして、1964年の東京オリンピックは語られます。

jiji.comより引用
世代が離れるほどにその意識は薄まっているのかもしれませんが、やはりこのオリンピックについてはどこか特別で、大切なものにしておきたいという意識が働いているように思います。
オリンピックを人類がウイルスに打ち勝つ証としたい、
このように安倍首相が発言したのも、この1964年の東京オリンピックが特別なものとして心に残っているためであるのかもしれません。
花〜すべての人の心に花を〜
喜納昌吉さんによる名曲「花〜すべての人の心に花を〜」。
川は流れてどこどこ行くの 人も流れてどこどこ行くの
そんな流れがつくころには
花として 花として
咲かせてあげたい
泣きなさい 笑いなさい
いつの日か いつの日か 花を咲かそうよ
泣きなさい 笑いなさい
いつの日か いつの日か 花を咲かそうよ
※「花~すべての人の心に花を~」より引用。作詞・作曲 喜納昌吉
人間の儚さ、切なさ、美しさ、尊さを、花に託して歌い上げた本当に素晴らしい歌です。
実は、この歌の成立にも、1964年の東京オリンピックが密接にかかわっています。
「すべての人の心に花を」というフレーズは1964年東京五輪のアナウンサーの実況がもとになっている。1964年東京オリンピックの閉会式では、選手たちは各国入り乱れ、肩を組み、肩車をし、踊りを踊り、笑うものあり、泣くものあり、そして互いに祝福しあいながら入場行進を行った。そこには国境や人種といった人類の垣根を越えた「平和の祭典」の姿がたち現れていたが、テレビの中継でこの模様を見た喜納は涙がこみ上げる感動を覚えたという。実況のアナウンサーの、「泣いています・・・笑っています」という言葉とともに、この日の感銘が歳月の中で喜納の中で発酵して生まれたという。※wikipediaより引用。下線は筆者による。
残酷な戦争、続く対立……
人類が経験した苦難を乗り越え、あるいはその渦中にあっても実現した平和の祭典。
喜納昌吉さんが東京オリンピックの閉会式に涙のこみ上げる感動を覚えたのは、
その願いの大きさに心打たれたからと言ってもよいのではないかと私は思うのです。

jiji.comより引用
平和の祭典に込められた「願い」
日本が金メダルを獲得した。
選手が表彰台に上った。
国旗が掲揚され、国歌が演奏された。
そのどれもが素晴らしいことで、選手には称賛こそがふさわしいでしょう。
しかしオリンピックという大会全体を見たときに、私はそれよりも大切なことがあると思います。
それはオリンピックという祭典が、ただのスポーツの大会ではなく、人類にとって大切なシンボルとなること。
そして人間の可能性の発露となるること。
第2次世界大戦後の冷戦期に開かれた1964年の東京オリンピックが、人種・国家の垣根を超える可能性を感じさせたものであったように。
2020年のオリンピックに、ウイルスの克服という新たな願いを託したいと思うのも自然なことではないでしょうか。
世界を襲う恐るべきウイルスの脅威の中、来年7月に延期が決まった東京2020オリンピック。
このオリンピックが人類共通の大きな願いのシンボルとなることを、私は祈らずにはいられません。
回向(えこう)
曹洞宗の法要では最後に必ず、回向(えこう)をお唱えします。
回向とは、功徳を広く振り向けるために読まれるもの。
ご先祖様の供養のために読むこともあれば、家内安全、無病息災などのために読む場合もあります。
つまり回向も、一種の祈りであり、願いです。
私たちの行いの一つ一つが他の誰かの安らぎにつながるように、祈り、願うのです。
コロナウイルスの脅威を前に、手洗い、マスクなどの対策が必要なのはもちろんのことですが、
ウイルスを克服するという願いを皆が分かち合うことも、同じくらい大切なのではないかと思うのです。
それでは最後に、普回向をもってこの記事を終えます。
「願わくはこの功徳をもって普く一切に及ぼし、我等と衆生と皆ともに仏道を成ぜんことを。」