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僧侶の視点から世の中の色々なものをレビューしていく【僧侶的よろずレビュー】。
前回はラッパーSEEDA氏の半生を描いた映画「花と雨」について書きました。
今回ご紹介したいのは実は私が二度、寝落ちしてしまった作品です。
なんでそんなもん紹介されなきゃならないんだ!というそこのあなた、まあ落ち着きください。
ここで紹介するからにはちゃんと理由がございます。
Contents
人が働き、食べるところを見る60分
そんなものを紹介する理由はというと、寝落ちしてしまうほどに平坦でありながら、どうしようもなく尊く見える瞬間がある作品だからです。
作品のタイトルは「聖者たちの食卓」。
本作は、インドにあるシク教の総本山ハリマンディル・サーヒブで毎日10万人に無料で振舞われる食事の様子を収めたドキュメンタリー映画です。
ドキュメンタリー映画ではありますが、会話や解説の類はほぼ無し。
食材を作る人、調理する人、食事の場を整える人、そして食事をする人。
食べ物が人の口に入るまでの様子が淡々と流れます。
(本編より)
宗教と労働
シク教は私もほとんど知識がありませんでしたが、特徴の一つはターバンです。
体毛を剃ることを一切禁止する教義があることで、あのターバンの中に年齢分の髪の毛が収まっています。
(本編より)
また、他の信仰や同性愛、肉食など、他宗教ではタブー視・敵視されやすい事柄に対しても非常に寛容であることも特徴のようです。
そして、もう一つの特徴が、出家の否定と労働の推奨です。
シク教徒の方はとにかく働くことを大切にしており、本作もそうした信仰が背景にあるからこその、「働かされている感」の無さなのだと思います。
ここは仏教と大きく異なる点で、なんどか触れたことがあるようにインドの初期仏教では出家者は一切の労働や生産・経済活動が禁じられました。
現在でも東南アジアの僧侶は現金をお金を持つことはなく、その分公共交通機関が無料だったりします。
なぜ禁じられたかというと、出家した僧侶は在家(一般)の信者にとって、変わりに修行をしてくれている存在であって、その人に飲食物や衣類などを布施することで、功徳を積めるという仕組みがあったからです。
仏教はそうして、出家と在家という二つの信仰の在り方を認めることで、出家僧侶は修行に専念しながら在家信者に生活を支えられ、在家信者は労働や日常生活を営みながら出家僧侶への布施で功徳を積むことができるという、Win-Winの関係を構築したのです。
それに対して、シク教は出家と剃毛を禁じるという、仏教とは真逆の道を行っているかのようですが、実はこれは仏教の在家信者の本来の在り方と非常に近いものがあると、私は感じています。
(本編より)
在家という言葉がもつ危うさ
タイやバリといった仏教、ヒンドゥー教徒が多い国では、在家信者の人々の生活にお供えや布施の習慣が浸透しています。
しかし、それが「その形を守っていればいい」という状態になっているのか、信仰を持っていながらその教義に反するような犯罪が非常に多いという現状があります。
実際に私はバリで、神様へのお供え物を車に乗せているぼったくりタクシーに出会ったことがあります。
それは、「修行は僧侶がして、自分たちは布施さえすれば何しようと問題ない」とも捉えてしまうことができる、在家という言葉の危うさでもあります。
それに対し、一般社会で勤勉に正しく生きようとするのがシク教徒なのかもしれません。
日本でも仏教は出家の男(比丘)、出家の女(比丘尼)、在家の男(優婆塞)、在家の女(優婆夷)の四衆によって信仰され、守られていくのが本来の姿ですが、出家者である僧侶が、仏教は自分たちの専売特許であると思い込んでしまった部分があるような気がします。
出家であろうが在家であろうが、信仰の上では平等に、共に歩んでいく姿勢が必要なのだと、この映画は感じさせてくれます。
また、そんなシク教徒の信仰心が、食事を作り、口に運ばれるまでの人間の営みを尊く見せてくれたのかもしれません。
そして、タイトルにある聖者とは、その一食に関わった作る側、食べる側の全ての人々であったと、内容を反芻しながら私は気づいたのでした。
(本編より)
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・忙しない生活に疲れた人
・アジアの信仰に興味がある人
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