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曹洞宗僧侶の視点から肉食について考察しているこの企画。

前回は曹洞宗に伝わる食の教えを、改めて宗旨によって裏付け、3つの特徴として整理しました。

なぜわざわざこんなことをするかというと、曹洞宗の僧侶には教えの上で食を理解する機会がなかなかないからです。

関心や疑問を持った方は、その意味や思想的な背景を調べたり、考察を加えたりしますが、多くは修行道場で教わった食べ方、あるいは作り方が根拠であり、全てになってしまいます

そしてその中でも、認識が曖昧なものが肉食の扱い方です。

自分は食べているけど、本当はよくないことなんじゃないか、でも師匠も周りのお坊さんも食べているし…。

そんな疑問を抱えている僧侶がたくさんいます。

その辺りについてはこの連載で一つの見解を出しているので、記事をご覧ください。

今回、テーマとしたいのは、人から肉を食べるか聞かれた時の根拠についてです。

「なんでも大切にいただくのが私たちの信仰」といった答え方もあるでしょう。

中でも、意外性というカウンターを含めながら納得してもらえる有効なアンサー

「お釈迦様の時代はなんでも食べていたんですよ」

というもの。

これ自体は全く問題ないのですが、少し踏み込む方はこんなことを言う場合があります。

「三種の浄肉であれば問題ないんですよ」

この「三種の浄肉」という言葉について、今日は考えてみたいと思います。

三種の浄肉とは?

三種の浄肉とは、『四分律』というお釈迦様在世の頃の生活規則に登場する、食べて良い肉の規程のことです。

先ほど述べた通り、お釈迦様がいたインドでの修行生活では、殺生は戒めても肉食禁止の決まりはありませんでした。

ただし、肉の中でも人や犬や蛇、象や馬などの10種類の生き物の肉は、食べてはならないとされています。

これらの肉は倫理的に禁じられたというより、当時の社会で批判されたり、その動物の報復に遭う可能性が高かったことが選定の理由のようです。

そして、その10種を除いた上で、食べてよいとされたのが、「三種の浄肉」でした。

三種の浄肉とはつまり、3種類の清らかな肉があるということではなく、以下の3つの条件を満たした肉のことを指します。

①屠畜解体するところを見ていない。(不故見)
②自分のために食肉にされたと聞いていない。(不故聞)
③自分のために食肉にされたという疑いがない。(不故疑)

これら見・聞・疑にあたらない肉が、食べても良い肉、浄肉とされたのです。

何をもって「浄」なのか?

ではなぜ、見・聞・疑に当たらない肉を「浄」としたのでしょうか。

それはやはり、動物を屠畜解体する過程が無関係とは言えません。

しかし、ここで大切なのは、食べる前にと畜されるところを見たり、自分のために特別に屠畜してくれたと聞いたり、その疑いがあることが、なぜいけないのか、という点です。

実は三種の浄肉は、日本とは全く異なる社会背景の中でお釈迦様が定められた規定です。

インドでは、修行僧は托鉢をして民家からの供養によって食事を得ます

つまり、「となりの晩ご飯」よろしく、そのお家の食事を分けてもらうわけです。

ただし、この托鉢の習慣は民間にも根付いていたので、最初から分ける前提で多めに食事を作っていたことでしょう。

そうなると、当然あれが食べたいこれは食べたくないということは言えず、肉でも魚でもいただいたら食べることになります

この、好き嫌いや要求をしないことに、非常に大きな意味があります

例えば、偶然食事を作るところを見て、「ああ、今日はあの動物の肉が入るんだなあ」と知ってから食べた食事がとてつもなく美味しかったらどうでしょう?

あるいは、出家以前に豚肉が大好きだった人が、豚を解体し料理するお宅を見かけたら…

おそらく、よだれが垂れるほど食欲が湧いてしまうでしょう

また、自分のために屠畜をしたと聞いた、あるいはその疑いがあるのがなぜいけないのでしょうか。

当時は托鉢に限らず、修行僧の集団を招いて食事の場を設けるという供養の形態もあったようなので、それに際して事前に

「私はあの、なんていったけな、ぶ…た肉っていうのかな?あの肉が嫌いじゃないようなきがするなあ」

といった具合に遠回しなリクエストが出来てしまうと、それもやはり欲を満たすための食事になってしまいます。

私は、この見・聞・疑というのは、供養を受ける修行僧たちが、欲を満たすための食事をしないため、ひいては、欲を満たすための殺生をさせないための規定なのではないかと思うのです。

現代日本における三種の浄肉の危うさ

これを踏まえて、私は三種の浄肉という規定は日本では機能しないと考えています

なぜなら、日本の僧侶は托鉢で食事を得ているわけではないし、スーパーに売っている肉は屠畜を見ていないし自分のためにやったものではない、なんていう屁理屈がまかり通ることになってしまうからです。

以前「五観の偈」の「一つには、功の多少を計り、彼の来処を量る」という一節をご紹介しました。

曹洞宗の食の布教の現場ではかなりの割合で取り上げられる部分ですが、実は現代人は「彼の来処」が計れない環境で生活をしています

いや、歴史的に少しずつそうなってきました。

石器時代にはみんなで動物を追いかけて捕まえ、みんなで行っていたであろう屠畜が、徐々に人目のつかない場所へと移されて、今に至っています。

その結果、牛がどうやってカルビになるか知らないまま、焼肉を食べています。

この環境で僧侶が「三種の浄肉なら食べていい」と言った場合、どうなるでしょうか。

それは、漁業や食肉加工業の従事者に色んな責任を押し付けて、自分が手を汚さなければいい、という話になってしまうのです。

もちろん、これまで書いてきた通り、漁業や食肉加工業をした手は汚れてなんかいません。

しかし、現代で安易に三種の浄肉を扱うと、そうした重大な人権問題へとつながっていく危うさがあります。

不浄肉にならない生き方

私は、スーパーに並んでいるお肉も、漁師である叔父が釣って送ってくれる魚も、同じく私を思って供養してくれた食べ物だと思っています。

畜産業・食肉加工業に携わる方々が、誰の口に入るかはわからないけれど、消費者を思って丁寧に生産してくれたお肉は、「私のため」であっても不浄などではないはずです。

それよりも、食事をいただく自分が、それを食べるために欲をかいたり人を傷つけてはいないか、悪いことをするために食事をいただこうとしてはいないか、という反省をすることが重要なのではないでしょうか。

それはそのまま「五観の偈」の

二つには己が徳行の、全欠ぜんけっはかってに応ず」「五つには成道の為の故に、今此の食を受く」に繋がっています。

要するに、生産者が消費者を思って作ってくれた浄肉を、私たちが不浄肉にしてしまわないように生きていくこと、これに尽きるのだと、私は思うのです。

まとめ

三種の浄肉は日本の祖師方でも引用されている方がたくさんいらっしゃり、当然そこにも私たちが学ぶべき教えはあるでしょう。

しかし、現代で「曹洞禅の食」というものを説く立場で考えてみた時に、ここには非常に危うい面があると、私は捉えています。

禁止と命令によって萎縮しながらではなく、積極的な実践によって食を捉えることができるとよいのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

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