【釈迦をたずねて三千里】 vol.10 お釈迦様の出家

スポンサードリンク

これは2016年に私、深澤亮道と愉快な仲間たちが、インド・ネパールにあるお釈迦様の聖地を巡った旅の記録である。

Contents

前回のあらすじ

前回は、お釈迦様の生誕地にある、世界各国のお寺を巡り、翌日ルンビニ近くにあるアショーカ王石碑とお釈迦様が29歳まで過ごされたとされるカピラ城趾を巡りました。

前回の記事はこちら↓

これまでの記事はこちら↓

釈迦をたずねて三千里

今回は、今訪れているカピラ城での出来事として、お釈迦様の出家の動機を仏典を元に綴っていきます!

ちょっと文量が多いかもしれませんが、ここカピラ城でのエピソードがお釈迦様が出家をする動機となった重要なポイントなので、お付き合いいただけたら幸いです!

お釈迦様の青年期

以前にもお伝えしましたが、お釈迦様の幼少期の名前は「ガウダマ・シッダールタ(パーリ語:ゴータマ・シッダッタ)」といい、お釈迦様という呼び名は、彼の部族の名前が「釈迦族」という部族名に由来しております。

その他にも、「ブッダ(覚った人)」や「釈尊しゃくそん(釈迦族の尊者)」「世尊せそん(世の中で最も尊い)」などの呼び方がありますが、どれも35歳で覚りを開かれた後に、弟子たちが読んでいた呼び方で、それまでは本名のシッダールタと呼ばれていました。

私たちが今来ている、カピラ城は、正式には「カピラヴァストゥ(パーリ語:カピラヴァットゥ)」といい、お釈迦様が釈迦族の王子として29歳で出家をされるまで何不自由なく暮らしていたとされます。

ある仏典にはお釈迦様が幼少期の様子について次のように語っている描写があります。

出家をする前の私は、苦というものを知らぬ、極めて幸福な生活をしていた。
比丘(修行者)たちよ、私の父の邸には池があって、青蓮や紅蓮、白蓮が美しい花を咲かせていた。
私の部屋では、カーシ産の栴檀香が、いつもこころよい香りをただよわせていた
私の衣服は、上から下まで、これもまたカーシ産の布で作られていた
比丘たちよ、私には別邸があり、一つには冬によく、一つには夏に適し、一つは春のためであった。
夏の4ヶ月の雨の間は、夏の別邸にいて、歌舞をもてしずかれ、一歩も外に出ることがなかった。
外に出る時には、塵や露や、日差しを避けるために、いつも白い傘蓋が飾られていた
(中略)
比丘たちよ、私はそのように富裕な家に生まれ、そのように幸福であった。
『中阿含経』「117巻柔軟経」増谷文雄訳

前回も、お伝えしましたが、この記述をみてわかる通り・・・
バリっバリの王子様のバリっバリの過保護の元育ったのが、お釈迦様です!

(※あまりいい表現ではありませんが、率直にいうとそんな感じです。笑)

 

青年期の葛藤

そして、16歳の時に隣国の王女「ヤショーダラー(パーリ語:ヤソーダラー)」と結婚し(早ッ!)、その後第一子となる「ラゴラ(パーリ語:ラーフラ)」を授ります。

どっからどうみても、順風満帆、側から見ると非の打ちどころのない幸せな生活を送っているように見えますが、生後すぐに母である、マーヤ夫人を亡くしたこともあり、小さい頃から物思いに耽ることがおおくあったとされています。

先ほどの仏典では次のように伝えられています。

私は思った。
愚かなるものは、自ら老いる身でありながら、かつ未だ老いを免れることを知らないのに、他人の老いたるをみては、己のことはうち忘れて、厭い嫌う
(中略)
愚かなるものは、自ら病む身でありながら、病いを免れることを知らないのに、他人の病めるをみては、己のことはうち忘れて、厭い嫌う
(中略)
愚かなるものは、自ら死する身でありながら、死することを免れることを知らないのに、他人の死せるをみては、己のことはうち忘れて、厭い嫌う
(中略)
そのように思った時、私の生存のおごりはことごとく断たれてしまった

『中阿含経』「117巻柔軟経」増谷文雄訳
お釈迦様は、幼き頃から「老・病・死」という問題について、苦悩されていたことがわかる描写であり、このことに気づいた時に生きるということに対しての絶望が読み取れる部分になっています。

出典:手塚治虫『ブッダ』

四門出遊

また、お釈迦様が人生の「老・病・死」という出来事に直面した出来事として、最も有名なエピソードで「四門出遊しもんしゅつゆうというものがあります。

カピラ城には、東西南北の4つの門があり、青年になったシッダールタ王子は、一人だけお供を連れて、お忍びでそれぞれ4つの門から外出をしました。

その時、

・東の門から出た時に「老いた人」に出会い、

・南の門から出た時に「病いの人」に出会い、

・西の門から出た時に「死んだ人」に出会い、

・最後に北の門を出た時に「修行者」に出会い、

感銘を受け、出家を決意するというエピソードです。

しかし、このエピソードはお釈迦様の出家を決意する出来事としてあまりにも有名なエピソードですが、実は出典は明らかになっていません。

カピラ城趾

四門出遊の意味するところ

お釈迦様は35歳でお覚りを開かれて以降、布教伝道の旅に出ますが、その旅で語った言葉を弟子たちが暗記し、口伝によってお経となって語り継がれていきました。

しかし、お釈迦様の出家する以前の出来事は、ほぼ語られておらず、先ほど引用した箇所が、お釈迦様が唯一出家する以前の暮らしを話した内容だと言われています。

なので、おそらく「四門出遊」も後世になって成立した挿話である可能性がとても高いのです。

だからと言って、事実ではないと批判するのではあまりにも勿体ありません。

これは前にも書かせていただいたことですが、後世においてもお釈迦様を敬い崇め、慕う人々の敬慕の念と、宗教的な信仰と意味を見出していく必要があるのだと思います。

先ほどの引用からわかる通り、お父様からとても寵愛されていたことが伺えます。

お父様が、お釈迦様に苦しむ庶民の姿を表すことを禁じたというエピソードもあり、おそらく青年になるまで本当に老・病・死という事実に触れる機会がなく、初めてそれをみた時の衝撃は本当に大きいものがあったと想像されます。

「四門出遊」の出典がどうであれ、これが仏教者にとってとても重要な挿話であることは間違いありません。

つまり、仏教、お釈迦様が解決しようとしている問題は、あくまでも「私」の老病死という、あらゆる人間に等しく降りかかる避けがたい根源的苦であることがポイントなのです。

ここには仏教が立ち向かう課題が極めて明確に示されているエピソードと言えましょう。

お釈迦様の出家前の暮らしは、私たちからすると理想的な生活だったのかもしれません。

しかし、裕福な状況にあったらからこそ、物質的にも金銭的にも解消できない人生苦が露呈してきたことが伺えます。

どのような状況にある人間にも等しく降りかかる苦悩からの脱却を目指すという点で、「四門出遊」のエピソードは仏教の出発点であり、仏教が何を目指すのかということを再確認させてくれるエピソードとなっています。

そして、お釈迦様は次のように語っています。

比丘たちよ、その時、わたしはまだ年若くして、漆黒の髪をいただき、幸福と血気とにみちて、人生の春にあった。
父母はわたしの出家を願わなかった。
私の出家の決意を知って、父母は慟哭した。
だがわたしは、ひげと髪を剃り落とし、袈裟衣をまとい、在家の生活を捨てて、出家の修行者となった。

『中阿含経』「204巻羅摩経」増谷文雄訳

こうしてお釈迦様は、釈迦族と父母、そして妻子を捨て、人生においての最善を求めて29歳の時に出家されたのでした。

続く

出典:手塚治虫『ブッダ』

次回予告

今回は、お釈迦様の出家のエピソードをお送りしました!

こうしたエピソードを知って、お釈迦様の聖地を巡ると、ただの遺跡という見方ではなく、ロマン溢れる見え方がして来るのは私だけでしょうか?笑

さて、次回はネパールからインドに移動したいと思います!

今回の旅もまだまだ序盤です!
末長くお付き合いいただけたら幸いです!

vol.10 お釈迦様の出家をお読みいただきありがとうございました(^^)

 

この記事が気に入ったら
フォローしよう

最新情報をお届けします

Twitterでフォローしよう

おすすめの記事