【釈迦をたずねて三千里】 vol.8 マーヤ聖堂とアショーカ王碑

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これは2016年に私、深澤亮道と愉快な仲間たちが、インド・ネパールにあるお釈迦様の聖地を巡った旅の記録である。

Contents

前回のあらすじ

またまた更新がご無沙汰してしまいました。

ポツリポツリと綴っていきますので、どうぞ気長にお付き合いいただけたらと思います。

現在、お釈迦様がお生まれになった土地「ルンビニー」を訪れています!

前回は、お釈迦様誕生の物語と、世界遺産ルンビニー聖園の区画の説明などをお送りしました!

前回の記事はこちら↓

これまでの記事はこちら↓

釈迦をたずねて三千里

今回は実際にルンビニーを散策している様子をお届けします!

マヤデヴィ寺院マーヤ聖堂

前回もお伝えした通り、聖園入り口で入場料と荷物検査を受けて、靴を脱いで中に入ります。

聖園内の中心には、お釈迦様が生まれた場所である「マヤデヴィ寺院マーヤ聖堂」や、そして古代インドを統治したアショーカ王が巡礼した際に建立した石碑お釈迦様が産湯につかったとされる池などがあり、聖園内は野球場くらいの大きな敷地になります。

※前回も添付しましたが、左側のマヤ・デヴィ寺院(マーヤ聖堂)を中心に円形に整備されているのが「ルンビニ聖園」と呼ばれる場所になります。

私たちは聖園入り口から、真っ先にマーヤ聖堂へと向かいました。

この建物はマーヤ聖堂ともマーヤー・デーヴィ寺院とも言われますが、どちらもお釈迦様のお母さまの名前を冠した建物になります。

寺院というのは、ここは紀元前550年ごろの仏教遺跡として世界最古の仏教寺院と言われています。

つまり、お釈迦様がお生まれになった後、もしくはご入滅前後にはすでに、生誕の地としてお寺が建てられていた可能性が高いというのです。

お釈迦様がお生まれになった年代については、様々な伝承が残っていますが、この遺跡の発掘年代をみると今から約2500前の紀元前600〜550年頃にお生まれになったことを示しています

上記の写真のように白い外壁で保護されていますが、建物内部は遺跡の発掘現場になっており、レンガ造りの寺院遺構がそのままの姿で残っています。

引用:インド四大仏跡を巡る旅

※建物内部は撮影禁止のため、写真はホームページ上より引用させていただきました。

元々は、木造建築だったそうですが、その上に新しい時代の構造物が重なっており、マーヤ・デーヴィ寺院は複数の時代が連続して造られていることがわかります。

遺跡跡を囲むように、通路が設置されており、その中心には「お釈迦様がこの地で降誕された」ことを示すマーカーストーンが安置されています。

引用:インド四大仏跡を巡る旅

ただの石のように見えますが、ここには「お釈迦様降誕像」として、「マーヤ夫人が右脇腹よりお釈迦様を御生みになった瞬間」の彫刻が施されていたそうです。

しかし、現在はイスラム教徒による破壊によりその彫刻は失われてしまっています。

↑このような彫刻が石に施されていたとされています

聖堂内は、世界各地から来られている巡礼者が唱えているお経が反響し、荘厳な雰囲気をかもし出しています。

私はこれまで日本各地の神社やお寺など、少しはパワースポットと呼ばれる場所には足を運んだことがありますが、ここはそれまで経験したことが無いような空気の重さで、息苦しささえ感じてしまいます。

マーカーストーンに手を合わせて、他の巡礼者も列をなしていたため、すぐさま外に出ました。

アショーカ王石碑

マーヤ聖堂のすぐ外には高さが7mほどある石碑が建てられています。

実はこの石碑が仏教史にとってめちゃくちゃ重要な役割を果たしているんです!

この石碑は、紀元前3世紀頃に現在のインド、パキスタン、バングラディッシュ、アフガニスタンのあたりまで統一したマウリヤ王朝三世、アショーカ王が建立したものとされています。

アショーカ王

引用:古代インドでの統一国家の成立

古代インド史上初めて統一したと言われるのがマウリヤ朝で、地図でみてもかなり広大な地域を支配していたことがわかります。

このマウリヤ朝三代目の王である、アショーカ王は仏教を深く信仰し、仏典の編集を命じたり数多くの仏塔(石碑)の建立したり、また自身も仏教聖地の巡礼に赴いたりなど、仏教を飛躍的に普及させた人物としても有名です。

そしてお釈迦様が空想上の人物ではなく、実在したと決定づけたのが、アショーカ王の巡礼の石碑の建立だったと言われています。

アショーカ王がマウリヤ朝を治世していたのが、お釈迦様ご入滅後約100〜200年後のことになります。

つまり、お釈迦様がご入滅されてからそんなに長い年月が立っていないのに関わらず、仏教を守護したり、聖地を巡礼したり、石碑を建立したりするということは、お釈迦様が実在したという証拠になったからです。

前回お伝えした通り、仏典にはお釈迦様を崇拝するあまり多くの脚色が施されており、その真意を図ることは難しくなっています。

簡単に書き換えられる仏典ではなく、大きく変化することなく後世に残すことができた石碑だったからこそ、その裏付けができたと言えましょう。

まさしく今現在でも仏教が日本や世界に伝播している大きな役割を果たしたのが、アショーカ王だったのです。

この石碑には諸々の碑文が残されており、ここルンビニに残されている石碑には、アショーカ王が即位20年後にこの地を巡礼したことと「この土地に住む住民の租税を8分の1に減免する。」ということが記されているそうです。

めちゃめちゃ優遇されているじゃん!笑
でも大切な土地だからこそ、多くの人を住まわせ、人々の力で聖地を庇護させようとしたのがわかります。

沐浴の池

そして、マーヤ聖堂のすぐ脇には「マーヤ夫人がお釈迦様を産む前に沐浴をされた」もしくは「お釈迦様が産湯に浸った」とされる池がありますが、実際の池ではなく人工的に造られた池になります。

しかし、仏教文献では確かにこの地に池があったことが記されていることから、マーヤ聖堂からそんなに遠くない場所に池があったことは事実でしょう。

私のお釈迦様との出会いは、手塚治虫の漫画『ブッダ』から始まり、それから出家しお坊さんの道を志すようになってからも、実家や永平寺をはじめとして様々なお寺の仏像や、また色々な書籍の中ではお釈迦様と出会うことはありましたが、その存在をどこかで信じきれずに、空想上の人としていた私がいたような気がします。

しかし、2500年経た今でもこうして遺跡として残されていることや、世界各国からの巡礼者の姿をみて、初めて心から【お釈迦様は実在したんだ!】と実感することができました。

私たちは、お釈迦様に追慕の念を込めてお祈りをした後、聖園を後にしました。

続く

次回予告

今回はちょっと説明がくどかったかもしれませんが、仏教史においてはとても重要な場所になります!

なんていうか・・・

「その時歴史が動いた!」
みたいなのってロマン溢れて個人的には凄いテンション上がってクドクドと綴らせていただきました。

この辺りは男の人が大好きな分野かもしれません。笑

なんていったってここが全ての始まりですからね!
ということで、今回はルンビニの聖園内をお送りしました。

次回は、ルンビニガーデンに点在する世界各国の寺院や、ルンビニ博物館を散策する様子なんかをお送りしたいと思います!

vol.8 マーヤ聖堂とアショーカ王碑をお読みいただきありがとうございました(^^)

 

 

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