今回は以前書いた、タレントの伊集院光さんと六代目三遊亭圓楽師匠の師弟関係についての記事の続編です。
こちらをご覧いただいてから読み進めていただけますと幸いです。
Contents
師弟の別れ
以前記事を書いたのが五月。
それから半年も経たない2022年9月30日。
六代目三遊亭圓楽師匠はご逝去されました。
この出来事については禅活のちしょーさんとも追悼動画を投稿しました。
今回書きたいのはそのさらに後、2022年12月27日にTBSラジオで放送された
「さようなら六代目三遊亭円楽」という番組を聞いて気づいたことです。
この番組は伊集院さんの深夜ラジオと円楽師匠のラジオで共にディレクターを務め、
この2年ほどでお二人の距離をより縮めた立役者ともいえる金子陽平さんの企画です。
伊集院さんがMCとして円楽師匠のラジオでの様子を振り返ったり、
円楽師匠の兄弟子でもある三遊亭好楽師匠をゲストに思い出を噛み締めました。
円楽師匠というと笑点と伊集院さんの師匠というイメージが主であった私にとっては、
番組内で紹介されたエピソードは、温かみや気遣いや厳しさなど、
円楽師匠のお人柄がつたわってくるものばかりでした。
伊集院さんの言葉
そして、1時間の番組も終盤に差し掛かり、伊集院さんはその胸中を吐露します。
「これで吹っ切れたような気がします。」
番組を終始明るく、かつ丁寧に進行してきた伊集院さんですが、
ご逝去の瞬間はもちろん、お別れ会でも受け止めきれなかったと語ります。
しかし、ご自身が落語をやめて選んだ道でであり、
師匠との縁を新たに結んだラジオブースでそのご遺徳を偲ぶことで、
ある種の恩返しというか、伊集院さんなりの供養ができた瞬間だったのでしょう。
お二人の間でしかわからない様々な思いの中には、負い目や申し訳なさや後悔もあったのかもしれません。
当然、ご自身にとっての絶対の存在である円楽師匠が亡くなってしまったというショックもあったでしょう。
しかし、ご自身の選んだ道が、師匠から受けた恩に報いるものになったことで、
伊集院さんにしかできない供養となり、それによって吹っ切れることができたのかもしれません。
恩に報いることができる幸せ
この伊集院さんの言葉を聞いた時、一つ気づいたことがありました。
それは、私たち僧侶はかなりわかりやすい形で、故人に対して恩返しと呼べるようなことができるということです。
お葬式や法事など、僧侶は自分の生きる道が故人を偲ぶことと直結していて、
供養をした手応えとでもいいましょうか、そうした実感のようなものがあります。
一方でほとんどの方は、伊集院さんのような芸事や表現の世界でもない限り、
ご自分の仕事や生活や道というものが直接供養とは結びつきにくいのではないでしょうか。
そこで改めて意味を見出したのが、『修証義』の第五章「行持報恩」の一節です。
唯当に日日の行持、其報謝の正道なり。
『修証義』「行持報恩」
仏道の上に行われる一つ一つの行いをこそが、恩に報いる正しい道なのだーー。
平たく言えばこのような意味ですが、私はもう少しこれを広げて、
故人を背負って歩む道が、そのまま恩に報いる道である、と捉えています。
恩を返すのではなく、恩に報いる。
その道は一人一人の日々の行いの中にこそある、とするならば、
伊集院さんのような方や我々僧侶だけでなく、だれもが日々を供養にすることができるはずです。
むしろ、日々の行いの一つ一つが供養になるように、と願って行われることにこそ、
生きていくための教えとして仏教が真価を発揮すると思います。
この、全ての「道」が供養になりうることを伝えるのは、
僧侶として非常に重要な責任であることに、今回気づくことができました。
生き様を供える
そして伊集院さんは、番組をこう締めました。
「六代目三遊亭円楽の弟子、伊集院光でした。」
それは、廃業した伊集院さんに
「お前が尊敬を忘れてないならおれはお前の師匠だ」
と語った円楽師匠に対する、伊集院さんが最後に手向けた言葉のようでした。
その思いや意思を胸に、いつまでも弟子として生きていくという決意を聞き、
私は円楽師匠が伊集院さんの中で成仏した瞬間を見たような気がしました。
内面をよく見つめる方は、時折仏教書よりも明確にお釈迦様の教えを体現してくれることがあります。
まさにそんな、供養とは、成仏とはこういうことだと教えられた、素晴らしい放送でした。
改めて六代目円楽師匠、ありがとうございました。
また、円楽師匠は曹洞宗で得度しておられた縁で、大本山總持寺制作の動画にも出演されています。
よろしければご覧ください。